12、経験から学ぶ


「世の女性は雨の中に生きる者を嫌うことが多い」


何とも嘆かわしい事態だ。彼らはただ、自分の身を効率的に守っているだけだというのに。
より“水”に近しい彼らの皮膚は柔らかく、また透明感も高く。
雨と共に生きる彼らは、風流を感じさせる―――雅なのだ。


「君が彼らを嫌わないでくれて、僕はとても嬉しいよ」

「かしぇん、うえしー?」

「あぁ、とても」


今日も今日とて、庭はしとしとと湿り気を帯びている。
ここ最近は梅雨とは思えないほどからりと晴れた日が続いていたから、彼らもさぞ、喜んでいることだろう。
縁側に届く風は夏のぬるさと霧のような細かな水滴を含んでいて、雨の匂いがふんだんに含まれている。
目を閉じてそれを鼻孔一杯に吸い込めば、隣でべにが真似をしている気配を感じて笑みがこぼれた。
季節を感じることは、とても容易く、しかしないがしろにされやすい。

目で―――薄暗い空から差す、一筋の光を感じて。

耳で―――屋根、葉、地面を叩く水滴の音を感じて。

鼻で―――焼けた地面で蒸発する雨の匂いを感じて。

肌で―――天の恵みそのものを、まとわりつく風を感じて・・・

ふと思い立って、庭に咲く紫陽花に目をやった。
ピンク、紫、青と鶴丸によって色とりどりに色付けられた彼らの、変わらない部分に目を凝らす。


「・・・少し待っていなさい」


首を傾げるべにを置いて立ち上がり、傘を手に取って庭に降りる。
ジャリジャリと濡れた石が踏まれるたびに音をたてるのを聞きながら、先ほど見つけた一枚の葉に手を伸ばした。


「・・・失礼するよ」


プツリ、と根元に爪を立てて摘み取り、踵を返してべにの元に戻る。
キョトリとこちらの動向を見つめていたべにが、僕の手元に目をやったのを察して、見やすいように持ち上げた。


「なーに?」

「紫陽花の友達だよ。カタツムリと言うんだ」

「カタ・・・しゃん?」

「ふふ、うん。カタツムリ」


後半が上手く言えないのがなんとも言えず愛おしいが、一先ずそれは置いておいて紫陽花の葉を手渡す。
不意に雨の当たらなくなったカタツムリは外界を探索するように角をうねらせており、べにはそれを穴が開くほどにじっと見つめる。
熱のこもった視線に恥ずかしくなったのか、暑くなったのか。カタツムリはゆっくりとその歩みを進めて、ゆっくりとべにの指先にその身を這わせ―――


「・・・やっ」


不意に、その身が緑の絨毯と共に空を舞った。
何をする間もなく、べにが振り払った勢いのままに地に落ちる。
そこから、かすかにパキ、という音が聞こえてきた。


「・・・!」


慌てて庭に降り、葉を拾い上げる。
先ほどとほとんど変わらない位置に居る彼の、変化に一つ、気が付いた。


「・・・あぁ・・・っ」

「・・・?」


落ち込んだ声になったのだろう。べにが様子を伺うように後ろから覗き込む。
その視線の先。カタツムリの殻が、ほんの少し割れていることに、べにも気付いた。
ほんの少し。けれど彼にとっては、身体を守るものの一割近くが、意味をなさなくなったもの。


「・・・カタ・・・しゃん、けが?いたいいたい?」


無邪気ながらも、“悪いことをした”と気付いている、声。
恐らく、ほとんど反射的な行動なのだろう。初めての感触に、驚いて手を振り払った、それだけの。
けれどその行動が、彼に与えた影響は大きくて。
何も答えられずにいると、べには僕の後ろから覗き込むのを止めて、彼に向けて手を差し伸べた。
そして注がれる、温かい力。

―――けれど。それは。


「いたいのいたいの、とーでけっ」

「・・・べに・・・」

「・・・なんでぇ?いたいいたい、まだ?」


本当に、わかっていないという声。

そうだ。

彼女には、未だ。

命の儚さを、教えていなかった。


「・・・生き物は、それでは治らないことがほとんどなんだよ」


近くでたたまれたままの傘に手を伸ばして、二人の上に広げる。
雨に濡れれば、風邪を引く。風邪が悪化すれば、すぐに医師を呼べないこの場所では、命にかかわる。
だから僕は、口を酸っぱくして怒るんだ。


「命は、亡くしたら取り返しがつかないんだよ」


突然の衝撃に驚いたのか、カタツムリは殻に籠ろうと身を縮ませている。
しかしその大部分は、未だ外気に触れたまま。


「カタ・・・しゃん、いたいいたい?」

「・・・そうだね」

「ごめんしゃい?」

「・・・・・・そうだね」

「・・・ごめん、しゃい」


素直は、彼女の美徳だ。
自分の過ちに気付き、誠心誠意後悔を露わにする。


「・・・大丈夫、これくらいなら、きっと元気になるよ」


微笑んでそう言うのが、真実かはわからなくても。
“謝る”ということの意味を、彼女が知るために。
ほっとしたように肩の力を抜いたべにが、再びカタツムリに力を注ごうとする。
治そうとするその動きに首を傾げて・・・彼女の意図を察して、そっとその小さな手を押しとどめた。


「違うんだよ、べに」

「げんき?いたいのいたいの、とーでけ?」

「べにが治すんじゃないんだ。自分で、治すんだよ」


“元気になる”というのを、べにの力で治すことだと勘違いして覚えてしまっているのは、僕らの責任だ。
刀剣男士である僕らの治癒は、べにの力によるもの。自然の摂理とは、異なるもの。
経験と違うことを教えるのは、難しいものだと少し、苦く思った。


「彼らは時間をかけて、自分で治すんだ。べにと同じだよ」

「べにも?」

「そう、べにも」


そう言えば、彼女は転んだこともない。
自分の血を・・・見たことは、ないだろう。
過保護・・・と言うのだろうな。いつか、怪我をさせなくては。
考えるだけで苦しく、胸が痛むのを感じながらも、彼女のためを思えば、それは必要なこと。
我々だけでは、伝えられないことが、ある。


「僕らが違うだけだ。痛いのは、すぐには治らない」


ふと脳裏に浮かんだ修一の姿は、すぐに振り払って。
正しく、伝える。彼女が、道を間違えないように。


「自分も、他の命も。・・・大切にするんだよ」


少し濡れて湿った髪を、ゆっくりと撫でた。


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