18、機微を察する


朝起こしたときは、いつもより寝起きが少し悪いな、と少し思う程度。
それが朝食を前にして眉間にしわを寄せ、唇をへの字に結ぶ様子に首を傾げた。
「どうしたの?」と聞く堀川に「・・・おからだ、むずむずするの」とだけ返したべにだったが、思えば、それが始まりの合図だったのかもしれない。
何とかお吸い物だけでも、と流し込んで、気分転換にと絵本を読み聞かせてもぼーっとしている始末。
何かおかしくないか、と首を傾げ始めた頃、それに気付いたのは鳴狐だった。


「・・・熱がある」


不機嫌そうに自分の髪の毛を引っ張るべにの、小さなおでこ手を当ててそう呟く鳴狐の小さな一言。
だがそこから、天地のひっくり返るような大騒動が巻き起こった。
出陣は全てキャンセル、皆が代わる代わるに顔を覗き込んで額に手を置き、仰天してぱっと手を引く。
そのたびに「これは・・・」だの「熱すぎる!」だの各々好き勝手にコメントして慌てふためくもんで、べには影響されてポロポロと泣きだしてしまった。
当然だ。幼子は大人の機微に敏感で、普段へらへらとゆるい顔しか見せていない奴らが揃いも揃って深刻な顔するもんだから。
しまいには身体をそっくり反して大泣きし始めたべにをなだめることに意識がいってしまい、紺野に知らせることに気付いたのは相当後になってからだった。










「大丈夫かべに。痛かろう、苦しかろう・・・」


ぽろぽろと涙を流して憐れむ三日月だが、袖で顔を隠す反対の手で頭を撫でられているべにはキョトンとしたものだ。
あの後泣き疲れて一度眠ったべには、朝のダルそうな様子は何だったのかと思うほどケロッとした顔をしている。
まだ熱は高いが、どうやら上がり切ったおかげで熱が上がる時特有のしんどさはなくなったらしい。


「痛いか苦しいかは、べにの表情を見りゃわかるだろ?」

「・・・存外に冷たい物言いをするな。べにが不憫ではないのか?」

「必要以上に憐れむことは、患者に“自分は重病人なんだ”と勘違いさせるだけだ。心が折れると、身体もまいっちまうんだから、元気づけてやりゃあいいんだよ」


他の面々のように騒がないから面会を許したのに、これじゃあ他の奴らよりもたちが悪い。
不服そうに眉をしかめた三日月だったが、自分の態度を思い返して納得したのだろう、そっと涙をぬぐって潤んだ目でべにの頭をゆっくりと撫で始めた。


「しかし・・・これまでこんなことはなかったのだ。まさか、このままなど・・・」

「縁起でもないことを言うんじゃない」


ぴしゃりと跳ねのけ、思った以上に悪い想像を働かせてしまっているらしい三日月を「ほら、面会時間終了だ」と部屋から追い出す。
これ以上負のオーラを浴びせられたら、本当に気からまいっちまいそうだ。
渋る三日月をぐいぐいと押し出して襖をぴしゃりと閉め、小さくため息をつく。


「・・・・・・?」

「・・・あぁ、大丈夫だ。もう少し寝てな」


聞こえないように吐いたのに、やっぱり敏感なもんだな。
少し不安そうに布団からこちらを見上げるべにの枕元に腰を下ろして、柔らかく笑って見せる。
首元に手を当てれば、やはりまだまだ熱い。
額の温くなった濡れタオルを外して汗を拭き、氷水を入れた洗面器で洗ってからもう一度額に乗せてやった。
小さな額には乗り切らず、ほぼ目まで隠しているようなものだったが、逆にそれが目を閉じさせる効果があったらしい。

泣き続ける三日月も居なくなったからか、静かになった部屋でスゥ、と静かに眠りにつくべに。
それを静かに見守りながらまた、今度こそ聞こえないようにフゥ、と小さく息を吐き出した。


「(・・・大丈夫、特別な病気じゃない。ただの夏風邪だ)」


言い聞かせるように、小さく頷く。
そう。納得はしている。決して三日月の言うような、重篤な病気ではない。

―――だが、夏風邪で死なない保証はない。正しい処置のできないここでは尚更。


「(できることはやっている。これが最善の処置のはずだ)」


―――所詮は素人の浅知恵。そもそも本当に夏風邪か?
もし―――


「(もし、何か重大なことを、見落としていたら―――)」


ゾッ、と、全身から血の気が引く感覚。
戦場でも味わったことのないそれに目の前が真っ暗になるのを感じた、―――その瞬間。

ピト、と指先に触れたかすかな感覚に、はっと意識を戻してそこに目を落とした。


「・・・―――、やぁ、ん・・・?」

「あ・・・あぁ、べに。俺っちはここにいるぜ」

「ん・・・・・・」


きゅう、と指先を握られて、さっきまでとは違う、安堵のため息をついた。
なんて、敏い。
この小さな手に、元気づけられる。こちらが言わなければならない「大丈夫だ」を、べにからもらってしまっている。
申し訳なく、少し恥ずかしく。頭をがしがしと掻いて、ふと気付いた。
・・・ほんの少し前までは、指一本を握り込むので精いっぱいだったはずだ。
それが今ではどうだ。べにの手は、俺っちの指を二本握り込んで、まだ少し余裕がある。


「・・・成長、したんだな・・・」

「・・・人間の赤子の成長は早い。抵抗力も、あれだけあちこち走り回っているんだ、体力もついている」


唐突に背後からかけられた声に少し驚いて振り返れば、器用に前足を使って襖を開けた紺野が大きな頭を隙間に押し込むようにして入ってきた。
ようやく連絡が届いたのか、と安堵して身体ごと向き直れば、紺野の隣の空間が歪んで紙袋が現れた。


「幼児の風邪は、脱水が最も警戒されるそうだが。嘔吐はあるか?」

「いや。頭痛がひどいらしいが、頭を動かさなければ大丈夫らしいな」

「ならば横になったまま飲めるよう、ゼリーのようなものを与えろ。飲みやすいよう少し上体を起こせるといいが、その場合もゆっくりだ。熱は、何日も下がらず食欲もないようであれば対応が必要になるが、その時に備えて手配はしておこう。一先ずは様子を見てからだ」

「・・・・・・」

「・・・何だ」

「・・・いや、こんなにあんたを心強く思ったことはねぇなあと思って」


つらつらと説明される内容は、今まで読んできた家庭医学書と大した変わりはない。
だがそれだけに、“人”も同じように対応しているのだとわかれば、自分の処置も間違ってはいないと自信をもって言える。
他人の“当たり前”にこうも安心する日がくることになるとはな・・・


「・・・無駄口を叩くな。概ね必要なものはここにそろえてある。もし他に入用のものがあれば対応しよう」

「有り難い」


じっとこちらの表情を伺うように見上げてきていた紺野だが、興味を失ったようにふいと目を逸らすと早口にそれだけ言い、べにに一瞥だけくれてさっさと踵を返して行ってしまった。
忙しいとこだったんかね、と自分を納得させて残された袋を開けてみる。
紺野の言った通り、食べやすいゼリーが一番に目に入り、解熱剤、スプーンにビニール袋に箱ティッシュ・・・


「・・・意外だな」


思わずひとりごちるくらいには、家庭的な内容だった。
ああいったお役所仕事の男は、薬三昧で来ると思ったのに。


「・・・俺っちと同じように、勉強でもしてんのかねぇ」


べにのためか、はたまた彼自身に子どもでもいるのか。
何にせよ、あの堅物が“子どもの医学”のような本を読んでいる姿を想像しただけで、ほんの少し笑えて、ほんの少し、気が楽になった。


「・・・こんなに心配してるやつがいるんだ。早く治して、元気になれよ」


すやすやと、穏やかに眠るべにの熱はまだ高い。
温くなったタオルを外して、静かに氷水に浸した。


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