へなちょこの日常
AM 06:05
大野の朝は早い。
静かな部屋の中で布団からもぞりと右手か出たかと思えば、それは迷いなく枕元のスマホを掴まえる。
ぽちりとディスプレイを表示させて時間を確認すれば、表記は06:05。
普段アラームが鳴り響く時間から五分しか経っていないそれをぼんやり眺めて、パタリと右手をベッドに戻す。
そのまま閉じられた瞼は、しかしその五分後にはぱっちりと開かれた。
ベッドから起き上がった大野は大きく伸びをすると、欠伸をしながらリビングへと向かった。
「おはよー・・・」
「おはよ。今日はのんびりなの?」
「んー、練習休み・・・」
くぁ、ともう一度欠伸をすると、冷蔵庫から牛乳を取り出してコップにトポトポと注ぐ。
それを一気に飲みきって二杯目を注ぐ頃には、大野の母の手によってテーブルの上には朝食が揃っていた。
「いただきまーす」
「はーい」
牛乳でそれなりに目の覚めた大野が箸を動かし始めると、母も自分の分の朝食をそろえて向かいで食べ始める。
「部活ないなら、今日は一日暇なの?」
「んー・・・特に予定は入ってないけど?」
何かあるの?と大野が鮭に箸をつけながら首を傾げれば、母も「ん、」と味噌汁に口を付けながら応える。
「買い物に行くつもりだけど」
アンタはどうする?と無言で聞いてくるそれは、特に予定はないと言った時点で答えなど決まっている。
「ん、わかった。帰りにスポーツショップ寄ってもらえる?」
「んー」
了承の返事に会話は終わり、食器の置かれる音や箸の触れ合う音だけが響く。
それも10分もすれば聞こえなくなり、「ごちそうさま、」と手を合わせた大野は食器を流しに下げた。
「何時に出る?」
「10時くらいかな」
「はーい」
大野はチラリと時間を確認すると、家を出るまでに宿題を終わらせておこうと洗面台へ向かうのであった。
AM 11:30
あらかたの買い物を終わらせた大野親子は、大野の希望通りスポーツショップへと足を運んでいた。
テーピングの予備を補充しようと少し前から思っていたので、今日の買い物は大野にとっても丁度良かったのだ。
普段来るスポーツショップとは違うため、テーピングのある場所を探してきょろきょろと店内をうろつく大野。
「あれ、確か・・・」
「あ?・・・烏野の?」
「!?」
そんな大野を見咎めたのは、店員ではなく。
慌てて振り返った大野の目に映ったのは、ほぼ同じ目線のはずなのに上から見下ろされているような視線だった。
「あ・・・えと、青城の・・・」
練習試合で鮮烈な印象を植え付けられた青葉城西高校のセッターとエースを、見間違えるわけがない。
名前までは覚えてないことを誤魔化すように慌ててペコリと頭を下げた大野は「こ、こんにちは・・・」と挨拶をしたが、返ってきたのは馬鹿にしたような笑いだった。
「珍しいねー、この店で他校生とかち合うなんて。何、偵察帰り?」
「!?い、ち、違っ・・・!」
予想外の言葉に、慌てて顔を上げて首を振る。
ニヤニヤと大野の反応を伺う様子はからかいに近いものではあるが、その目の奥の鋭い光に気付いてしまえば笑ってやり過ごすなどできるはずもなかった。
大野としてはここが青城の領域であるということも知らずに来たわけで、しかしそれを言ったところで「どうだか、」と一言で切られるのは目に見えている。
どうしたら、と混乱し始める大野を見て、エースが小さく眉根を寄せた。
「おい、あんま苛めんな」
「酷いなー岩ちゃん、苛めてなんかないよ?可愛がる気は満々だけど♪」
「・・・っ!!」
「苛めます」と宣言されて、大野が恐怖を抱かないわけもなく。
パニックも相俟って感情の振り切れた大野の瞳に涙の膜が張られ始める。
「!?お、おい・・・」
「え、何?泣いちゃった?やだなーこれじゃあ俺達が苛めてるみたいにみえちゃうよ?それとも・・・そのつもり?」
いち早く気付いたエースが焦っても、セッターはそれすらも冷静に分析する。
徐々に鋭さの増していく目に射すくめられて、大野の涙腺はあっさり限界を突破した。
「・・・ふぇ・・・っ!」
「アダッ!!」
「テメェは限度ってモンを知らねえのか!!」
ぽろ、と涙が零れたところで、エースの拳がセッターの後頭部に炸裂した。
思わぬ事態に一瞬状況がわからなくて目をぱちくりとさせる大野。
両手で頭を抱えたセッターは、大野とは違う涙を目に浮かべて文句を言い始めた。
「ひどーい岩ちゃん!おーぼーだよ!!」
「あー・・・悪いな、ウチのバカが」
「はっ・・・い、いえ・・・っ!・・・ほ、ほんとに、偵察とかじゃ、ないので・・・っ」
ようやく状況を理解して再び首を振る大野に、エースが手を出して待ったをかける。
一度涙は止まったものの、思い出してまた泣かれてはやりづらいのだ。
「あーそれはもうわかったから。烏野は今日部活休みなのか?」
「は、はい・・・体育館の点検が入って・・・」
「あぁ・・・そうなのか」
「は、はい・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・コミュニケーション下手か!」
そのまま続かなくなった会話に、黙って様子を見守っていたセッターが思わず突っ込みを入れる。
声につられた大野とエースは、怯えと苛立ちという見事に対照的な表情でそちらを振り返った。
そしてそんなことには気づいても言及しないのがこのセッター―――及川という男である。
「もーなんなの!?合コン初参加でっすみたいなこの空気!すごく納得だけど!」
「うるせぇぞクソ及川!大体テメェのせいで・・・!」
「いーい?岩ちゃん!こういうシャイな子にはこっちから質問・掘り下げるのが鉄則!しょうがないから俺がお手本見せてあげるよ☆」
「超絶いらねえ」
まるでこちらの話を聞かない姿勢にイライラの募るエース、岩泉ではあるが、こういう相手と話すのが苦手なのは事実で。
文句は言いつつも、大人しく引き下がるところはさすが幼馴染と言ったところか。
無言で任されたことを感じた及川がそっと口元を緩めたが、大野が首をかしげたことでそれはあっさりと外交用の笑顔へと摩り替わった。
「・・・って言っても、俺本当に君のことほとんど知らないんだよねぇ。烏野の・・・一年生かな?名前は?」
「えっ!?あっ、い、一年、です・・・!大野、圭吾です・・・!」
「うん、圭吾ちゃんねー。俺は三年、及川徹だよ♪こっちのコミュ力0男は岩ちゃん」
「・・・岩泉一だ」
「よ、宜しくお願いします・・・」
ちゃん付けに文句を言うでもなく再び頭を下げる大野に、及川の目から少し険が取れる。
そもそも今日は午前の練習はほぼ筋トレだけで、偵察されていたとしても痛くも痒くもないのだ。
それを必死に否定する姿に加虐心が擽られたといえなくもないが。
「・・・なんだ、素直ないい子じゃないか♪飛雄ちゃんに苛められてない?」
「と、飛雄ちゃん・・・あ、か、影山君・・・?」
「そ♪飛雄から聞いてない?俺達同じ中学なんだよ」
「あ、き、聞いてます・・・少し・・・、すごく・・・」
そこまで言ったとたんに目を泳がせ始めた大野に、つかの間冷たい風が三人の間を吹き抜ける。
「・・・性格悪いとか?」
「!?いっ、いえ、いえ・・・!さ、サーブがすごく上手いって・・・!」
「苦しいなー」
おそらく最初に思い浮かんだであろう言葉を岩泉が言ってみれば、その通りですと言わんばかりの反応に及川も苦笑するしかない。
実際その通りだったしで、大野は慌てて否定するように両手を振った。
「ぼ、僕、ピンチサーバーなので、及川先輩のサーブ、すごく勉強になります・・・!僕、力ないのであんな強いサーブ打てない、んです、けど・・・!いつか、及川先輩みたいなサーブ、打ちたいです・・・!」
それは、大野が練習試合で及川のサーブを見たときから、本当に思っていることだった。
そして本当に思っていたことだからこそ、その言葉は及川の心にダイレクトに届く。
「・・・ねえ、岩ちゃん」
「駄目だ」
「まだ何も言ってないよ!ねえ圭吾ちゃん連れて帰ろうよ!こんな可愛い後輩ほしい!!」
「駄目だっつってんだろ!馬鹿言ってんじゃねえよボゲ!!」
「アイテテテテ!痛い!痛いよ岩ちゃん!」
「痛くしてんだよ!」
「あいたぁ!・・・もー・・・じゃあせっかくだしお昼一緒しない?」
唐突に駄々をこね始めた及川と、その耳を引っ張る岩泉。
ぎゃあぎゃあとじゃれあう二人を半ば呆然と見ていた大野は、俺達午後練までもう少し時間あるんだよね、という及川に、はっと我に返って首を振った。
「あ、す、すみません、人を待たせてるので・・・」
「えー彼女?可愛い振りして意外とやるねぇ。負けてるよー?岩ちゃん」
「余計なお世話だ!!」
「え、や・・・!」
慌てて違うと否定しようとした大野だったが、それに被せるように遠くから控えめな声が届く。
「圭吾ー?・・・あ、ごめんなさい。邪魔しちゃった?」
「あ、や、えと・・・!じゃ、じゃあすみません、失礼します・・・!」
「「・・・・・・」」
ペコリと頭を下げてパタパタと母のほうへ走っていった大野の背中を、引き止める言葉も出せずに見送る及川と岩泉。
母と合流した大野がその背中を押して棚の向こうに姿を消したところで、二人の時間はようやく進み始めた。
「・・・まさか、年上キラーだとは思わなかったなぁ・・・」
「・・・いや、意外と合ってんじゃねえか・・・」
盛大な勘違いをしたままの二人は、どことなく居心地の悪い思いで顔を見合わせるのだった。
一方、結局何も買わずに店外へと飛び出した大野親子。
「よかったの?友達?」
「他校の、バレー部の人・・・びっくりした・・・」
車に乗り込むなりはあああぁ・・・と大きな息をついた大野に、母は「ふーん」と特に気にする風でもない相槌をうつ。
息子が人と関わることを苦手としているのは、今に始まったことではないのだ。
「昼食べて、帰ろっか。何にする?」
「んー・・・パスタ食べたい、かな」
黙っていると考え込んでしまう性格も熟知しているからこそ、それとなく気を逸らせて車を発進させるなんて手馴れたもの。
パスタか、と店までの道順を脳裏に描いて、二人は再びドライブへと戻った。
=〇=〇=〇=〇=〇=
後半に続く
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