決意を笑みに


授業で借りた本を返しに図書室に向かうため、自室から出て一歩。
はぁ、と吐く息が白くて、目にくっと力が入った。


「(・・・、寒い)」


霜月に入ってしばらく、急に冷え込むようになった朝の空気は肌を刺すとまではいかずとも肩が強張る程度には冷たい。
意図して肩の力を抜き、背筋を伸ばした。
これから図書室に行くのに、丸まった背中なんて見られたくない。
胸を張ったことで入りすぎた空気を軽く吐き出し、後ろ手に戸を閉めて歩を進めた。
図書室は火気厳禁であることに加え、湿気も大敵だから風通しもよくなければならない。
夏場は人気なその場所は、同時にこの時期から春まではほとんど人が来ないことを指す。
そしてあの人は、そんな図書室を下級生に任せることなく、季節の変わり目なんかは特にほとんど一人で当番の仕事をこなしていた。
なるべく足音を立てないように、けれど普段よりも少し早い速度で。
あっという間に目の前まで来た図書室の扉に、駆け足になる鼓動をできるだけ静めた。


「・・・・・・」


からり、と軽い音が鳴るように細工してある戸を開き、すぐ中に入って戸を閉める。
部屋にこれ以上冷たい空気が入らないように、という配慮のそれは、次の瞬間あまり意味がなかったかもしれないと思い直すことになった。


「あれ・・・」


入ればすぐ見える図書室の受付は、誰もおらずひっそりとしている。
鍵が開いていたのだから閉館している、ということはないはずだけど・・・と思ってそこに近づくと、一冊の本がおいてあることに気付いた。
これは、あの人が以前読んでいた、


「・・・・・・」


机に自分の持ってきた本を置き、しおりの挟まっているその本の表紙をそっとなぞる。
なんとなく周りをきょろきょろと見渡して誰も見ていないことを確認し、そろりと持ち上げた。
そのままぱらり、ぱらりと数頁読み進めて、どうやら恋の物語らしいと見当をつける。
意外なようで“らしい”本の内容に、ふ、と頬を緩めた。
物語は、一人の男が高嶺の花に魅了されて手を伸ばすが、山は険しく登ることができなくて、どうしたらあれが手に入るか、と手を代え品を代え奮闘するといった内容だった。
なるほど、と思うような方法からやけっぱちのような笑いを誘う方法まで、内容は興味深くてついぱらぱらと読み進めてしまう。
いつこの本の持ち主が帰ってくるかもわからないという緊張感と、本の面白さに心臓が早鐘のようになりつつ、手は頁をかなりの速度でめくっていく。
おそらくこの本は、身分の低い男がどこかの姫に恋をして、何とか振り向かせようとやっきになっている姿を書いたものなのだろう。
男が花に愛の言葉を投げかけ続けるという、表面だけなぞれば滑稽な、しかし本質はこの本の醍醐味という頁に差し掛かり、ふと、本の紙と違う色が挟まっていることに気付いた。
・・・何かの、包み紙?
皺のついているその小さな紙は、几帳面なあの人にしては違和感を覚える。
一見ゴミにしか見えないそれが本に挟まっていたことも、しおりにしていたとしても端をはみ出させることもしていなかったことも。
もしかして同室の彼が?とも思ったけれど、彼はあの人がどれだけ本を大切にしているか身をもって知っているし、わざわざ皺を伸ばして本にはさむような性格でもない。
ちらりと本の上部に目をやれば、やはりそこにはもっと後ろの頁に挟まっている普通のしおりがある。
これは一体?と疑問に思いつつも、一先ずその頁の文字に視線を落とした。

カラリ。

不意に静かな図書室に響いた乾いた音に、完全に意識が本に向かい気を抜いてしまっていたことで、大きく肩が跳ねた。
その瞬間、手から本が離れ、受付の机の上に落下する。
幸いそこまで持ち上げていたわけでもなかったため、本が傷つくようなことはなかったが・・・
バサリ、と落ちたそれを慌てて整え、元あった場所にピタリと戻す。
こんなことをしたところですでに一部始終目撃されてしまっているのだから、何の意味もないのだけど。


「お、おかえりなさい。何処に行っていたの?」

「・・・そろそろ来る頃だと思って、茶を・・・」


確かに、その手には温かそうなお茶が湯気を出している。
けれど、そう言いながらも視線が机の上の本に釘付けだ。
これは、確実に。


「(ばれてる・・・!)あ、あの。お茶を頂いてもいいかしら?」

「・・・あぁ・・・」


小さい声で返事をして図書室の戸を閉める動きに合わせて、本棚から離れた場所に腰を下ろす。
こんな些細なことで誤魔化せるとは思えないけど、こちらが誤魔化したがっていることを感じれば彼はきっと追及しないでくれる。
・・・よく考えれば、別に人の本を勝手に読んでいたことをそこまで後ろめたく思う必要はないのだろうけど。
でも、何か悪いことをしてしまった気がして・・・


「・・・・・・」

「・・・あ、ありがとう」


無言で差し出された茶を受け取って礼を言えば、こくりと頷いて彼も向かいに腰を据える。
たったそれだけの動作を見続けるのも気恥ずかしく手元の茶に視線を落とす。
あぁ、不審に思われていないだろうか。
普段は気にならない沈黙が妙に耳について、その沈黙を壊すこともできなくてじっと水面を見つめることしかできない。


「・・・どこまで、読んだ?」

「っ・・・」


ちゃぷり、と水面が跳ねた。
沈黙を壊す、というよりはするりと間を縫って響いた声は、彼のもの。
咎めるような響きではなく、確認するような声に恐る恐る視線を上げる。
彼は声と同じく、不機嫌そうな様子も見られない。
不安なような、不思議なような気持ちになりながらそっと口を開いた。


「・・・、包み紙の、頁まで」

「・・・、相変わらず、読むのが早いな」


呆れたように息を吐く様子に、本当に気にしていないのだということが分かってほっと肩の力を抜く。
怒らせてしまうと、本当に怖いのだ、この人は。
昔っから、変わらない。


「・・・、叶わない、恋をしているのですか?」


そう問いかければ、彼は目を伏せて先ほどの私と同じように水面に視線を落とす。
珍しく答えに窮した様子に、少し面白くなって上体を前のめりにした。
恋の話は女人の活動源になっているのではないかと思うことがあるくらいだ。
私も、例に漏れず・・・特に、身内の話は滅多に聞かないから余計に興味をそそる。


「身近な女人に相談してみてはいかがですか?・・・たとえば、私のような」

「・・・妹に恋愛相談するほど、甲斐性がないと思われたくないな」

「あら、そんな」


珍しい拗ねたような反応にころころと笑えば、気を紛らわせるためか彼は茶を一啜り。
ふぅ、と一息つく様をじっと観察していれば、居心地悪そうに眉を寄せて、それから少しだけ口の端を吊り上げる。
その表情に、前のめりになっていた上体がぴんと伸びた。


「・・・五年は今日、野外実習で帰りが遅いぞ」

「えっ・・・、っ!」


ばれていないなどとは思っていなくても、こうもはっきりと私の気持ちをお見通しにされるのも非常に恥ずかしい。
というか、仕返しされてしまった。


「・・・お前こそ、通い詰める程度では不破は落ちんぞ」


さらに、ほぼ読みつくした図書室に来る理由までばれているとくれば。
真っ赤に染まってしまっているであろう顔を隠すように、額に手を置いて俯く。
これは、やはり彼には敵わないということだろうか。
・・・いや、何一つ敵うところがないなんて、そんなのただでさえ儚い私の自尊心が脆く崩れてしまう。
気持ちを切り替えるように茶をぐいとあおり、不敵な笑みを作ってみせる。


「・・・まぁ、私は私の速度で頑張ります」


同じように空になっている湯飲みを彼の手から取り上げて、盆を脇にはさむ。
準備をするのが彼なら、片付けるのは私の役目。
逆もまたしかり。小さい頃からの私たちの約束。
でも、こればかりは一人で・・・いえ、相手と作り上げませんとね?


「・・・では、頑張ってかやを落としてくださいね、兄上」

「・・・!」


思い出したのだ。一つ下の後輩に、和菓子屋の一人娘が行儀見習いできていることを。
あの包み紙が、その和菓子屋で使われていたのを。
そして、随分前に上手くできたから、と可愛い笑顔でおすそ分けしてくれたことがあったことを。
反応を見て自分の予想が合っていたことを確認し、満足してその場を後にする。
さぁ、あの人に発破をかけたのならば、私も頑張らなければ。


xxxxxxxxxxxxxxx
back