いつでも再戦待っているぞ!


ガツン!と重い音を立てて黒い巨体が止まる。
遅れてふわりと届いた風に熊の腕の風圧を感じて、驚愕に目を見開いた。
だってそれは、一回りも二回りも小さな、人の手によって捕らえられているのだ。
赤い飛沫を上げることも紫の髪を薙ぐこともなく、ただしっかりと捕まえられているそれはブルブルと震えていて、込められている力の程を窺わせる。
思わぬ邪魔に、熊が苛立って唸るのが聞こえた。
茂みから聞こえてきただけで一瞬背骨に棒が入ったようになるその声。
例に漏れず数馬の肩がびくりと震えるのが後ろからでも分かる。


「ふっ!甘いぞ!」


しかしそれに何の意味があるのか、とでも言わんばかり余裕綽々なヒロさんが、受け止めた腕を横に引く。
突然力の向きが変わったことについていけなかったのか、熊の身体が前に傾く。
その瞬間を逃さず、ヒロさんはあいた熊の懐にするりと潜りこんだ。
くるりと身体を反転させて熊の腹に背中をつけたかと思えば、拘束していた手を離して、


「ふん!」

「グォッ!?」


―――強烈な肘鉄を、鳩尾にお見舞いした。
熊も溜まったものではないのか、低く呻いて背中から後ろに倒れこむ。
打たれたところが痛いのか、そのままの体勢で暫く暴れた。
腹に手を置いて右に一回、左に一回。身体をくねらせて痛みから逃れようと奮闘する。
まるで駄々をこねる子どものようにも見えるそれを、もはや怯えることもできず数馬と二人で呆然と見つめる。


「…君が悪くないことも、分かっているぞ」


ぽつりと、止めを刺すでもなくその様子を見ていたヒロさんが、少し沈んだ声で熊に語りかけた。
…彼は、熊の身を案じているのだろうか。
獣が凶暴化する冬眠前にのこのことやってきた僕たちを助けるために、傷つけたことを憂いているのだろうか。
く、と唇を引き結ぶ。
僕は、守るつもりだった。
守りたかった。
けれど、結局はそれもただの思い上がりで、結果がこのざま―――


「山の食料が尽きてしまいそうで腹が減って力が出ず、私と最高のパフォーマンスで高みへ登ることができぬ悔しさよ!私は運よく善良な学園に拾っていただけたが、もしかすると今君の立っている場所には私の屍があったのやもしれん!あぁ、なんと自然の摂理の無情なことか!誰も、悪くなどないのだ!熊の青年よ!今は眠り、冬を越えて強くなれ!春になったら、子をつくれ!親としての役目を終えたとき、今ひとたび拳で語り合おう!!」


…くぅっ!と涙でも拭うかのように袖を目元に当てる男には、一体何が見えているんだろう。
滝夜叉丸もびっくりな口上が続く間に、熊は回復したのか四本の太い足でしっかりと立ち上がっている。
それでも怯えなくて済むのは、強烈な一撃を食らったせいで熊のほうがヒロさんを恐れて逃げ腰になっているからだ。
…なんか、無性に熊を応援したくなるなぁ…。
ほら、今ならヒロさん、君が見えてないだろうから逃げるなら今だよ。


「あぁ、きっと君はバトルフィールドに息子も連れてきてくれるに違いない。熊の青年ジュニアよ、よく見ておけ!これが父の背中だ!」


もう、彼の脳内がどうなっているのかさっぱりわからない。
とりあえずきっと、有り得ない未来が繰り広げられているんだろうと予想して、未だ逃げる機を図りかねている熊のほうに視線をやる。
あと一つ、きっかけがあれば行ってくれるんだろうけど。
きょろ、とあたりを視線だけで見渡せば、丁度手が届く位置に団子程度の小石が一つ転がっている。
それを掴み、腕だけで勢いをつけて投げれば、熊は鼻先に当たったそれにまるで猫のように大きく上半身を飛び上がらせた。


「さぁ!熱い抱擁を交わし、リベンジの約束を!」


そう言いながらヒロさんが顔を上げたときには、深い足跡だけが残っていて。
ヒュルリ、と冷たい風が吹き抜けた気がするのは、きっと僕だけではない。


「ふ…何も言わず去るか。それもまた、潔くて好感が持てるぞ!」


…彼は多分、感じていない方の人間だろうけど。
ざ、とヒロさんがようやくこちらを振り返る。
学園の中でも見かけるようになったとはいえ、お互い自己紹介すらしていない関係。
こちらから当たり前のように声を掛けるのは憚られた。
いや、掛けたくてもさっき無理に出したせいで全く音が出なくなっているのだけど。


「あの!…ヒロさん!」


特に近づいてくる気配もないヒロさんに、先に声を掛けたのは数馬だった。
その声が相当な喜色をはらんでいるのを感じて、当然か、と思いつつもどこかで引っ掛かりを覚える。
チクリと胸に引っかかるそれに、何だろう?と内心首を傾げていると、ヒロさんがばっと腕を真横になぎ払った。


「私はヒロなどという名前ではない。ヒーローと呼びたまえ!」


…そういえば、直接見たのは初めてだったけど…
肩から掛けられた風呂敷(まんと、と言うらしい)、顔の上半分を覆っている黒い硬質なもの。
会合のときに聞いた特徴と寸分違わぬそれに、あぁ、今の彼は”ヒーロー”なんだ、と納得した。
そしてそれと同時にもう一つ納得する。
さっき数馬の声に引っかかったのは、情報とずれがあったからか。
得心がいってうん、とつい一つ頷けば…刺激してしまったのか、思い出したように突然痛みを訴え出した喉に思わず息が詰まる。
かすかにも音にならないそれに背中を向けている数馬が気付くこともなく、戸惑いつつも熱の入った声が続いた。


「わ、わかりました…ヒーローさん、助けていただいてありがとうございます!」


咳き込みたくてもそれもできず、ぐぅ、と音も出せずに痛みに耐える。
いたたた。どうしよう、痛すぎてもう喉が痛いんだか胸が痛いんだかわかんない。


「何、礼にはおよばん!助けの声あれば、いつでも参上してみせよう!」


堂々と言い切るその姿に、なんだかな、と内心で苦笑を漏らす。
できもしないことは、口にしないでほしいなんて…そんなことを決める権利なんて、僕にはないんだけど。


「…ヒーローさんはさっき、偶々近くにいたんですか?よく、あんな小さな声がきこえましたね」


数馬も引っかかったのか、少し落ち着いた声で疑問を投げかける。


「声ではない。心が届くのだ。より強く、“助けて”と願えば、それは心の叫びとなって私のもとへと届く。口先だけではどれだけ大きな声で叫んでもささやきにしかならないのだよ」


口上を述べていたヒロさんの視線が、数馬から僕に移る。
かち合った視線に目を見開けば、ヒロさんは口元だけでふっと笑った後数馬の横を通り過ぎて僕のところへ近づいて来た。
なにをするつもりか、と警戒して気持ちだけでも身体を後ろにやれば、ヒロさんは無駄に様になる感じに膝を付いて僕との距離を詰める。
…なんでこの人はこう、人に見られていることを前提とした動きをするんだろう。
若干呆れていると、ヒロさんはまた口元だけの笑みを見せる。
これは、安心させようとしている、のか?
板のせいで目元が見えず、感情が読み取りづらい。


「そんなことが…」

「ヒーローとは、かくあるべきなのだ」


未だ若干状況についていけていない数馬に応えながら、ヒロさんは僕の腕を取り、そのまま肩に抱き上げる。
抗議の声を上げかけたけど、もう息をするのも精一杯で、大人しくすることにした。
視線で抗議するとやっぱりにっこり微笑まれて、「学園の生徒だろう?そこまで送ろう」といわれてしまえばもう抵抗する気もなえてしまう。
お願いします、と言う代わりにぺこりと頭を下げれば、今度はキランと効果音が付きそうなくらいかっこよく笑った。


「…つらくは、ないのですか?」


数馬が、続けてヒロさんに問い続ける。
普段ならこのあたりで入り込みすぎだ、と制止の声をかけるけど、今回ばかりは止めに入ることもできない。
…いや、僕も気になっていたからこそ、ここまで数馬に視線をくれることも、しなかったのかもしれない。
ヒロさんは、優しすぎる。
いや、優しすぎるというより、いっそ異様なほど他人に尽くす。
それは、町で彼のことを調査していたときからずっと、学園に来てからもそうだ。
あるときは影から、あるときは表から、周りの人を助け続ける。
見返りを求めたのなんて、それこそ一年は組の三人組から聞いた、始めてヒロさんの存在を知った時くらいで。
引ったくりを捕まえても、迷子探しを手伝っても、山賊を更正させても、命を助けても、それが当然のように彼は笑う。
今もほら、数馬の率直な疑問に、彼は笑って応えた。


「つらい?人を助けて、「ありがとう」と心からの言葉を貰ったときこそ、私が生きている意味を正しく感じられる一番の幸せなのだ!」


今度は、担がれているから口元すら見えなかったのに。
声に込められた感情は、彼が笑っているとわかるのに十分なほどだった。


「…貴方は、優しいんですね」


力が抜けたように、数馬が呟く。
その声色に、今度こそ続く言葉を止めようと顔を上げた。


「ここに、向いてない…」


だから見えたのは、ヒロさんの背中ではなく、数馬の「しまった」という顔。
ぼそりと呟かれた“ここ”とは一体どこのことなのか、考えなくてもわかった。


「そうかね?」

「…え?」


だからこそ、当然のように返された返事に、数馬と二人して目を丸くしてしまった。


「私は満足しているよ。この世に来れたことに。どうやらこの辺りでは、私は“強い”部類に入れるらしい。だから、“助けて”の声に応え、そして助けることができる」


忍術学園で教えられることの中には、人を殺す術もある。
そんな僕らは、彼にとっては最も排除すべき“悪人”であるのだろう。
彼のような人と僕たちでは、住む世界が違うといってもいいくらいなのに。


「私は今、とても幸せだよ」


他人を助けることでしか自分の存在を認められない、少し歪んだその感覚。
是とするには少し悲しいけど…これはこれで、合っているのかな、と少し思った。



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