”ありがとう”は最強だ!


町には、腕は良いがバカ高い値段をつける薬師がいる。
特に新薬を作るのに長けているそいつは、その薬がもっと安く作れるようになるまで元手の10倍ほどする値段で売っていた。
その薬師が今回作った薬が、今まで不治の病といわれていた胃の病気に対する薬。
そして食満の頭を悩ませているのが、その薬を欲しがっている男の考えている行動だった。


「…男には、その病を患っている母がいるそうです。だが、金はどんなにかき集めても値段の半分ほどしか手に入らなかった。俺が見たその日、男は薬師に薬をもっと安くするか、後払いにしてくれるよう頼んでいたらしいのですが…」


薬師は、首を縦には振らなかった。


『だめだ、私が作った薬だぞ。それで金儲けをして何が悪い!』


下見に、と耳そばを立てていれば中から聞こえてきた怒声。
その時はがめつい男だ、としか思わなかったその言葉が、意味を持って襲い掛かる。


「…男は、その薬屋に、盗みに入ろうと、している」


暮れかけた夕日がヒロさんの後ろから光を放ち、ヒロさんの表情を隠す。
目を凝らせば見えたかもしれないそれから、目をそらした。


「…止めるべきか、…悩んで、いるんです」


本当は、手伝おうかとも、考えている。
授業で城から訓練用の密書を盗み出すこともあるのだ。町の薬屋の警備など、たかが知れている。
だが、それをして良いのか、…迷う。
自分が受けた忍務は、“毒草の情報”を探ること。“薬を盗む”ことなど、紙の裏にも書いていない。
文次郎のアホが馬鹿みたいに言い続ける、“正心”。
正しくあるべき心だと吠え続けるそれが間違っているとは思わないし、あいつなら迷わず毒草の情報だけを探るだろう。
…そう。
本当は誰にも相談なんて、したくなかった。
特に伊作に相談なぞ、できるはずがない。
人を助けることを第一に考えているあいつに「人の命を見捨てようか助けようか迷っているがどう思うか」なんて、馬鹿の聞くことだ。
そしてまた、“ヒーロー”を名乗り、正義を貫くこの男に、“盗み”なんていう概念が存在しているはずもない。
各自の考え方ははっきりしていて、結果がわかった相談などしても無意味。
自分だけがふらふらと意志をもっていない気がして、歯がゆかった。
だがここで心を決めずに薬屋に侵入して、毒草の情報のすぐ傍に問題の薬があったら―――
―――俺は、迷ってしまう。
忍者の三病のうちの一つを、愚かにも潜入先で露呈してしまうのだ。
目の前にある薬。手を伸ばせば届く。何の造作もない。ほんの一歩踏み出せば。一人の命が助かる。一人が罪を犯さずに済む。
だが。
ぐ、と拳に力を入れる。
短く切りそろえられた爪は血を出すことこそなかったが、深く掌に食い込んでその痕を刻む。


『“正心”はどうした』


ふっと浮かんだ文次郎の顔に、眉間に深く皺を刻んだ。
うるせぇ、出しゃばるんじゃねぇよ。
わかっているんだ、そんなこと。
“忍務”という枠を超えた忍術は、盗賊となんら変わらないのだ。
真っ直ぐに見つめてくる視線に耐え切れずヒロさんの草履を無意味に見つめる。
来るのは、罵倒か。それとも、説教か。


「よし!まずは下見だな!」


“草”に理想を説いても…は?


「その薬屋まで案内してくれないか!」

「は、い…?え…!?ちょ、な、何でですか!?」


俺の横を通り過ぎてずんずんと町に向かうヒロさんの後を慌てて追いかけながら声をかければ、前を見据えたままのヒロさんがいつものように自信に溢れた表情で応える。


「薬師の財政状況を見るのだ!」

「…え…」

「多少支払いが遅れても問題がなさそうであれば、侵入口の確認だ!」

「はぁっ!?」


あまりに予想外な台詞に、礼儀も忘れて声を荒げてしまった。
しかしそれも気にした様子もなく、前だけを見据えたヒロさんの表情に暗さはない。
自分がこれから行なおうとしていることが、一般的に“悪”と呼ばれることであることなど、一切頭にない、といった風で。


「支払いが遅れては困るようであれば、レシピをお借りしよう!それならば半分の金でも間に合うだろう!」


新野先生あたりに頼めばきっと良いものができる!と足取り軽く出て行こうとするヒロさんを慌てて追いかける。


「どんな背景があろうと、どんな問題が待ち受けていようと」


くる、と振り返ったヒロさんの表情は、先ほどまでとは間逆に夕日で赤く照らされていて。


「まずは生きてからだろう!」


その言葉に、不覚にもこみ上げてくるものを感じてしまい。
ヒロさんが再び前を向いたのをいいことに、一筋だけ本心を素直に表した。






伊作からもらった眠り薬を、屋根裏からそっと室内に充満させる。
次第に浸透していく無臭のそれに部屋の主が寝息を立て始めたところで、音を立てないように静かに侵入した。
何度か繰り返した、忍び込む際の手順。
普段となんら変わりないそれに、大きな違いが一つあった。


「〔留三郎、これか?〕」


物音一つ立てずに引き出しを物色していたヒロさんが、簡単に纏めてある紙の束を取り出す。
読み書きができないというヒロさんが差し出すそれを受け取り、ぱらりと極力音を殺してめくると、目当ての文字が並んでいた。


「〔…えぇ、間違いありません〕」

「〔写すには分量が多い。一旦持ち帰って、後日返しにくるとしよう〕」

「〔…わかりました〕」


聞きたいこと、諸々を紙束と共にぐいと押し込み、来たときと同じ道を辿って屋敷の外へと飛び出した。
後ろをついてくるヒロさんの格好はいつもより少し動きやすさを重視したもので、さらには自分と同じように顔の半分を隠す口布を当てている。
その姿は忍そのもので、普段は押さえ込めている疑念がむくむくと膨れ上がっていくのを感じた。


「(…なんでそんなに、気配を消すのが上手いんですか)」


まるで獣のような存在感のなさ、視界に入れているのにまるでそこにいないような感覚。
―――“ヒーロー”を演るのに、気配を消す技術は必要ですか?






ふらふらと、絶望を顔に描いた男が町を行く。
やはり、あの薬屋に忍び込むしかない。もし見つかったら、もういっそ―――


「―――よぉ、そこいくお兄さん。暗い顔してどうしたい」

「…ほっといてくれ…」

「当ててやろう。最愛の人間が、病気で死にそうになっている。違うか?」

「!何故、それを…」

「そんなやつ、そこらじゅうに五万と居る。お前さんだけが特別不幸なわけじゃねぇ」

「…っおまえに何が…!」

「そんなお前さんは、俺に会えただけ幸運だぜ」

「…?」


目の前に差し出された壺に、思わず目を奪われる。
行商人風の男が懐から取り出したそれは、つい最近、似たようなものを見た気が…


「胃病の薬だ」

「…!!!」

「どうだ?買うか?」

「か…買う!い…いくらだ!!」

「一貫文」

「一生かかっても…は?」

「一貫文だ、一貫文」

「…ど…どういうことだ?あの薬屋では、十貫文だと…」

「はっ、そいつぁひでぇぼったくりにあったもんだな。こいつぁ旨い伝手があったんで材料代だけだ。だから言ったろう、お前さんは“幸運”だとよ」

「ま…待っていてくれ!い、今、金を持ってくる!!」


わき目も振らず走り出した男の背を、壺を掲げたままの姿勢でじっと見送る。
その背が角を曲がって見えなくなったところで男はようやく腕を下ろし、「ふぅ、」とため息をついた。


「…こういうのは得意じゃないんだがな…」


うまくいきそうで良かった、とぼやいた男はその壺を懐に戻し、客引きをするでもなくただぼんやりと人の流れを眺め続けた。






「―――ヒロさん、」

「むっ?おお、食満留三郎君!君から離しかけてきてくれるとは珍しくも嬉しいことだ!」

「…そうですね。ところで、お聞きしたいことがあります」

「何だね?何でも聞いてみるがよい!」

「…酒と肴、どちらに重きを置かれますか?」

「むっ?」






「―――いやぁ、嬉しい誘いだ!全く、こんなに楽しい夜は初めてだよ!」

「そんな、大げさな…」

「そんなことはない!酒を呑み交わすことは、少なかれ私を認めてくれた証ととれる!」

「忍は酔った振りで相手を騙すこともあるけどな!」

「何っ!?そんなこともできるのか!流石は芸達者な者たちの集まりだ!」

「ご安心を。今夜はそんな無粋なこと、いたしませんので」

「ぬあっはっは!嬉しい限りだ!」

「あ、でも飲みすぎは禁物ですよ?明日に響いてもあまりよくありませんし」

「そこはわきまえよう!私も頭痛で助けに行けぬ等という不名誉な者にはなりたくないしな!」

「…そろそろ、遅い…声の大きさは、控えめに…」

「おぉ、すまんな。ついはしゃぎすぎてしまったようだ」

「忍たるもの、少しの物音でも覚醒するようにしなければ。これはその訓練にもなる」

「馬鹿野郎。そのせいで下級生にお前みたいな隈ができちまったらどうすんだよ」

「それはいかん!子どもはよく寝、よく食べ、よく育つ!極力安眠の妨害は避けねばならん!」

「声が大きくなっていますよ」

「ぬ…」


静かな笑いが、空間を占める。
六年生長屋の一室で、七人の影が楽しそうに杯を煽る。
「ところで君たちは酒を飲んでもいい年なのかな?」という質問には、「特別な訓練を受けていますので」と濁した。
本当のことだが、年のことを言って子ども扱いされても癪だ。
…彼の前では、須らく子ども―――守るべき相手なのかもしれないが。


「話は聞きました。食満の阿呆がまた中途半端なことをしたようで…」

「仙蔵…」

「本当のことだろう。自分の課題を外部の者に手伝わせるなど…」

「いやいや、私は薬の情報を少々拝借しに行っただけだ。食満は自分の課題を見事にクリアしたよ」


素晴らしい!と控えめに感極まった声を上げるヒロに、礼を、と話を持ち掛けた時も同じことを言われたなと杯を傾けながら思い出す。


「しかし、一般人に忍の真似事をさせたのは事実。留三郎、詫びはしっかり入れたのか」

「…私が欲しいのは謝罪ではないのだ」


勿論、と文次郎に返すより早く、それまでの賑やかさからうって変わった不満げな声が場の空気を打つ。
らしくもない声色に全員の視線が向けば、珍しい、困ったような笑みを浮かべたヒロさんが杯を揺らした。


「“ありがとう”は、私の力の源だ。礼さえ言われないようなことしかできないようでは、ヒーローとしての力を揮う資格などない」


静かな声に、そういえば、と自分の言動を振り返る。
申し訳ない、という思いが先立って、謝ってしか、いない気がする。
“謝罪よりも礼がいい”―――言う人が言えば、強欲な言葉に聞こえるかもしれない。
だが、この人が言えば。


「―――ありがとう、ございました」

「うむ!またいつでも声を掛けるといい!」


たったそれだけの言葉一つで太陽のような笑顔をくれる。
勿論それだけではこちらの気が済まないから、こうして礼の場を設けるのだが。


「ひとつの心からの“ありがとう”があれば、私はそれで十分なのだ!」


嬉しそうに言うそれに、嘘はないとわかるから。
嘘ばかりな自分たちにまた申し訳なくなって、謝罪の言葉が出かかるのをぐっとこらえることになるのだ。



+=+=+=+=+=
back/top