秋が終わる雨の夜に、元彼を拾った。

(何やってんだあたしは……)

 ふと、リビングよりもやわらかい光が漏れる浴室のドアを眺めて溜め息を吐いた。目に見えるはずがないのにずしりと重たいそれが床に落ちて足元に纏わり付くような気がして無意識に左足で払う仕草をしてしまう。そんなことが無意味なのは、私が一番よく分かっている。
 パシャパシャとシャワーの水が流れのままに排水溝へ落ちて行く音がいやに鮮明に聞こえてくる。そこにいる人物、伊達政宗。もとい元彼に先程偶然に出くわして懐かしさのあまり家に招いたと言うよりは、やはり“拾った”という表現が一番しっくりきてしまう。

『――美雨』

 政宗とはゼミの友人が所属していたサークルの飲み会で知り合った。向かいの席に座った政宗の第一印象は人目を引く外見である上に妙に英語の発音が綺麗できっとこの人は随分女の子に好かれるんだろうなと思った。それは私だけでなくきっと周りにいる誰もがそう思うことが当然であるくらいに政宗は特別に見え、それ故に少し面倒くさくもあった。これだけスペックの揃った男の子がいるのだ。年上年下関係なく、年頃の女子が放っておくはずがない。最初の乾杯を済ませたら頃合いを見計らって端の席に移ってしまおう――。そう思っていたのに会話をしているうちにお互いの趣味が読書だとか映画鑑賞だという事で意気投合してしまい、気付けば何度かのデートの後に付き合うことになっていた。それからはバイト終りに時間を合わせてレイトショーを観たり、その後に一杯だけ飲んで帰ったり、終電を逃したと言うのにタクシーにも乗れなくて深夜の細い道を2人で映画の原作本の感想を言い合いながら歩いたり。お金が無いなりに、楽しいことをたくさんした。
 しかしそれも就活が始まる頃にはお互い忙しくなり、私が政宗からの電話より就活先からのメールを気にするようになる頃には彼氏というの存在さえ煩わしく感じてその勢いのまま私から別れを切り出した。政宗ははっと息を呑んだが、弁明をすることも怒る事もせず、ただ一言「分かった」とだけ言って、私たちの関係はいともあっけなく終わった。このご時世、どこにでも転がっていそうな話である。
 それから数年してゼミ飲みをした時、あの飲み会に誘ってくれた友人があの頃の政宗は同じサークルの後輩と妙に仲が良かったのだと話していた。別れたのはそれが原因だったのかと訪ねてきたので、それとなく頷いておいた。もし政宗が浮気していたとしても私にそれを責める権利は無いし、その頃は楽しかったたくさんの思い出も色々と面倒に感じるくらいには政宗は過去の人だった。
 その記憶もふとした瞬間に思い出して、あの頃は楽しかったなぁ、若かったなぁなんて懐かしむくらいには大人になった秋の終り。そろそろ時雨と言ってもいいような冷たい雨の降る夜。仕事帰りに寄ったコンビニの入り口で傘立てに置いた傘に手をのばした時。ふと視界に入った喫煙所にいた男と目が合った。

「……美雨」

 その目は見覚えのある懐かしい色をしていた。ここ数日はどのメディアも挙って雨天が続くと言っているのにその肩は履いているスキニーデニムと同じ色に見えるくらい深く濡れていて、想像に容易いままに傘を持っている気配が微塵も感じられない。そんな政宗はまるで初めて会った時と同じように特別に見えた。少し短く切った髪もしっとりと濡れていて口元に寄せられた懐かしい煙の匂い、それになんといってもその煙草を持つ左手の薬指には鈍く光る指輪が見えて、しかしそれさえも妙に魅力的だった。
 それだけで政宗の肩書は明確にひとつ分かっているのに自分の名前を呼ばれた後に私が言ったのは「風邪ひくよ」という言葉だった。

「…だよな」
「……」
「…」
「どうするの?」

 ふ、と小さく息を吐いて煙草の灰を落としながら苦笑交じりに笑う政宗の目元の皺が見えた。

「どーすっかなぁ…」

 ――どうする?と、傘の柄を握り自問自答した。
 私には、どうする事も出来た。そのまま知らん顔をして自宅に向かう事。そこまで非情になれなくとも元恋人の情けと思って自分の傘を渡して別れる事。――そして、自分の家に迎え入れる事だって。
 ふと、政宗の睫毛から小さな雫がぽたりと落ちたのが見えた。無意識に長い溜め息が口を吐いて出た。

「うちに来る?」

 その言葉に目を見開いたのが良く分かって少しだけ優越感に浸ってしまった。



「一応言っとくけど、変なことしたらぶん殴るからね」
「…I know.」

 些か行間のあるやり取りをした後、バスルームに政宗を向かわせ着ていた洋服を洗濯機にかける。しっとりと濡れたデニムは夜の雨と記憶の向こうにある懐かしいにおいがした。まだあの煙草を吸っていたのかと妙な安心感を覚えた自分にハッとして乱暴にデニムを洗濯機に突っ込んだ。

(やっぱり家に連れてきたのはまずかったか…。……でも、あのまま放って置くわけにも……)

 自分に落ち着けと言い聞かせて先程の事を考える。冷たい雨の中、ラフな格好で傘も持たずにいた政宗。とりあえずコンビニであり合わせの下着は買わせたが、そんなに手持ちがあるようにも見えず、多分それなりの、そして面倒くさい事情があるのだろう。
 とは言え、しっかり結婚指輪をした既婚者と言えど、男性を部屋にあげたのだ。風呂は既に提供済みなので仕方がないが、実際何処までが所謂“人助け”のラインとして許されるのだろうか迷う所だ。万一、政宗に泊めてくれと言われたら私はどうしたらいいのだろう。

(――私は政宗とどうにかなりたいのだろうか?)

 深呼吸をしてもう一度自問自答する。はっきり言って、政宗の事情に首を突っ込むつもりはない。再会した政宗は以前と変わらず魅力的ではあるが、私にとって彼は既に思い出であって今更関係を持ちたいかと言われてもそれは現実味の無い白けた妄想そのものだ。それは政宗の薬指に指輪があった事も一役買っているのだろう。もしもこれがフランスの恋愛映画なら流れのまま男女が抱き合ってしまうのだろうが、現実的に考えてそんなロマンスは考えられない。ロミジュリ的な悲劇があれば別だが、就活で疲れた女とそれに飽きて別れた男の話ではあんまりにも色気が無さ過ぎる。

(答えはNOだ)

 そう思うと自然に肩の力が抜けた。私は自分が健全な良識を持ち合わせているのだと思えてひどく安心した。そうと決まれば政宗が湯冷めしない程度になったら迷わず帰宅を勧めよう。家に連れてきた手前、非情と言われるかもしれないがやはりこれが私が政宗にしてやれる事の限界だろう。私くらいの年齢になれば、無闇に人に優しくすることが必ずしも良い事ではない事を学習するのだ。もし手持ちが無いのなら餞別という名目でタクシー代くらいは出してやってもいい。
 そう思いながら紅茶を淹れる。ばたばたと雨が屋根を叩いては落ちて行く。

「美雨」

 ガチャリとドア開く音と共に嗅ぎ慣れたせっけんの香りとあたたかな空気が流れ込んで来る。温まった所為か先ほどよりも幾分顔色の良い政宗が立っている。少し小さめのシャツを着たその姿に心の隅でほんの少しだけまた懐かしいなぁと思った。

「紅茶飲む?」
「Thanks.」

 相変わらず完璧な発音だ。そう言えば、昔政宗が字幕で見たアメリカのミステリー映画の翻訳が酷すぎると悪態を吐いていたなぁ。そろそろ茶葉の浸出具合がいい頃だ。いい香りがする――。

「――、」

 ふいに香ったのは紅茶の香りではなかった。せっけんの香りと空気の温かさを感じて振り向く前に左手には湯気で湿った大きな手が重なっていて息をのんだ。腰に回された腕もそれと同じ温度をしている。

「ちょっと…!」

 それらを払うように振り返る。がちりと合う政宗の目。温かな右手が私の手首を掴む。

「手、冷て…」
「約束と違う…!」
「美雨」

 カーディガンの袖をいとも簡単に巻くり上げ、その長い指はすっぽりと私の手を覆っていく。自分の体温よりも高いそれが素肌を這う感覚にぞくりと肩が震える。せっけんの香りがする。向かい合わせた政宗の顔が近づいてきて反射的に顔を背けた。

「慰めて」

 耳元からダイレクトに聞こえた言葉が信じられなくて体が強張った。その隙を逃さず左耳に生暖かい感覚がして思わず目を閉じた。チュッと生々しいにも程があるリップノイズがダイレクトに響いてくる。

「美雨」

 甘ったるく私の名前を呼ぶ低い声。それとは裏腹に手を握る腕の力は強く、振りほどこうにも男女の力の差では出来るはずもなかった。

「な、いいだろ?」
「あっ、やだ…」

 いい訳ないでしょ、と喉まで出掛かった言葉は背中に回った左手がゆっくり背骨を撫ぜる所為でそのまま喉の奥に落ちてしまった。驚く事に私が背中が弱いのを政宗は覚えているようだ。皮膚の上を滑るその手つきに思い当たる節があるのが悔しかった。
 そんな私を見透かしたように、目の前の瞳が涼しげに薄く笑った。

「抱きたい」

 そのまま唇を塞がれて息も絶え絶えに呼吸をする度、胸に重たい何かが落ちていく。私より熱い手のひらの中で酷く冷たい薬指の付け根。私が気付いていないと思っている訳ではないだろう。となれば、ただ外すような気遣いすら無かっただけなのか。無駄な足掻きをせず、妙に潔い所は今も変わらないようだ。ぼやける思考の片隅で私の健全な良識は何処へ行ったのかと考えたが、それはゆっくりとモヤになってどこかへ消えてしまった。
 屋根を叩く雨の音がずぶずぶと深くなっていく。



 私




20161203