換気扇の唸るような低い音とドア越しにぼんやり透けるオレンジ色の明かりと影が見えて、隣に寝ているはずの彼がいないことに気が付く。不規則に口元に寄せては離れる長い腕がドアに埋め込まれたガラス越しに動いている。眠れなくなってしまうから、こんな時は時計は見ないほうがいい。そんなことは寝ぼけた頭でも分かっているのだけど、悲しいかな、いつでも時間を気にしてしまうのが現代人の性である。

(2:36……)

 寝付けない真夜中に一くんは時々こうやって煙草を吸う。嗜む程度、という言葉がピッタリなくらい煙草を適度に吸う一くんはそこそこの喫煙者らしいけど、それこそ出会い頭から何かにつけて煙草を吸うような人ではなかった。煙草とは私より付き合いが長いと言っていたから少なくとも6年以上前から嗜んでいるはずなのに、付き合いだして初めて彼のアパートで丸一日過ごした時も、そして同棲を始めて一緒に生活をしていても一くんの日常に煙草は思ったよりも薄く色付いている。当時は非喫煙者の私に気を遣っているのだろうと思い喫煙しても構わないとの旨を伝えたのだが「煙草は吸いたい時に吸ってるだけだ」と喫煙者らしからぬ発言(これは私の偏見だが)をされたので、それに関しては特に揉めることもなくこうして無事に6年目の記念日も過ぎて行った。

(6年目ねぇ……)

 学生の頃からの付き合いで無事に社会人となったもの同士、まして6年目の同棲済みカップルなら結婚して然るべきだろう――。この数年間、友人をはじめ親や同僚、挙句同じ敷地に住んでいる大家のおばさんにまで言われてしまう耳タコな言葉が頭を巡る。自分でもいい大人だと思うので、思春期の子供みたいに「普通ってなんだろう」なんて今更思わないが、普通なんて言わば世間の多数決みたいなもんで、その多数決だけで普通が決まってしまうのは正直納得がいかないのだ。「結婚はまだしない」と答えれば「結婚したくないの?なんで付き合ってるの?」と矢継ぎ早に問われるのにも嫌気を通り過ぎ呆れてしまうようになった。世間の人間は世のカップルが結婚する為だけに付き合っているとでも思っているのだろうか。

(結婚したくないわけじゃないけど…結婚しなくても不自由がないというか…)

 子どもが欲しくない訳でもないけれど、タイミングは今じゃないのだ。私はまだ時々真夜中にこうしてベッドからキッチンの換気扇の下のオレンジ色の明かりの中で煙草を吸う一くんの影を見ていることがとてもしあわせなのだ。今の生活に不満はない。
「こんなことは言いたくないけど、…愛が足りないんじゃないの?」と遠慮がちに伝えてきたり「そんなにうかうかしてると岩泉くん他んとこに行っちゃうかもよ」と、あくまで私の為だろうと思しき言葉でも数年も聞かされ続けて流石に飽き飽きしているのだ。もしも愛がメーターで見えるものだとしたら私から一くんへの愛は100の目盛りを指していると断言出来るし、一くんが私から離れることなんてきっと出来ないはずだと、どうにもこうにも根拠の無い自信がどこからともなく溢れてくるのが現状なのだ。この6年間、喧嘩をすることは数あれど、この人と離れるなんて考えたこともなかったので、しかもそれは彼も同じだろうと考えてしまうような、どしんと構えたスタイルがいけないのか。
 こうした周りの反応を見る限り、私の愛は本来の重さよりも軽く見られがちなようだが、私は一くんを愛しているし、長年共に過ごせる掛け替えのない恋人だと思っている。だからこそ6年目の記念日も無事に過ぎて行ったと思っているのだ。一くんではない誰かと暮らすことなんてこと、私には土台無理な話だ。

(――となると、)

 カチリと小気味いいスイッチの音と共に視界が一瞬にして闇に包まれる。代わり恐らく床を照らしていると思われるスマホの液晶がぼんやり光っているのが見える。近付いてきたそれは彼がベッドに辿り着くとフッと消えた。

「お、なんだ。起きてたのか」
「…明かりが見えたから」
「悪ぃ、起こしたな」
「大丈夫」

 布団を捲りあげて隣に滑り込む一くんは鼻がスッとするシャンプーと煙の匂を纏っていてそれらが一緒にベッドに滑り込んでくる。一くんのにおいがしないのが残念だ。

「一くん」
「あん?」
「私のものになって」
「……は?」
「んふふ」

 口が空いたままの一くんが可愛らしくてその胸板に顔を埋めて抱き締める。シャンプーと似たボディーソープの香りとTシャツに移った一くんのにおい。今夜は朝までこのままでいよう。なんだか少し眠くなってきた。

「寝ぼけてんのかよ」
「いや……う〜ん……」
「オイ美雨」
「ん〜〜…」
「…言い逃げかよ」
「……」

 無言を貫き通せば溜め息と同時に柔らかな毛布の感触が頬に触れて、いよいよ気分は夢の中に戻るという直前に一くんがキスをしてくれたのは分かった。

(私はこの人にもっと執着して見せればよかったのだ)

 どうやら私の他人への執着心と独占欲は人のそれより些か薄く見えるらしい。それなら周りが喧しくなれぬほど、これから見せつけてやればいいのだ。一くんはこの私が選んだ人だということ。そしてずっと一緒にいたいと私に思わせてくれる唯一の人だということを。
 その後、完全に夢の中へ落ちた私が翌朝の洗顔時に左手の薬指に見たことがない指輪がはまっていることに気が付いて腰を抜かすのはまた別の話。


あなたとわたしのやさしい生活



20170805