「だらしないな…」 薄いベールをかけたような柔らかな朝日の差す玄関にうつ伏せになって寝息をたてている男が一人。疑う余地もなくへべれけ状態であろうその男は酒の匂いをぷんぷんさせ、その着流しも左側が少し肌蹴ており、だらしのない事この上ない。これが酒の味を覚え始めた成人したての学生やストレス発散のためには呑むしかないサラリーマンであれば、まだ世間の目も苦笑い程度で済んだだろうに。 しかし今、私の前で寝転ぶこの男、世間一般には高齢者の分類に片足を突っ込んでしまっているのだから、色んな意味でみっともないことこの上ない。 「どんだけ呑んでたのよ、じいちゃん…」 そう、この玄関でだらしなく寝そべっている男、高杉晋助は私の祖父である。酒好きの祖父は時折、猫のようにふらりとどこかへ出かける事がある。そうして、もういい年なんだからと両親が遠まわしに呑み歩きを諌める声を右から左に聞き流し、気心の知れたご友人たちとこれまたどこかの気心の知れた居酒屋へ行ってはこうして真夜中にふらりと帰って来るのだ。私が物心ついたときからずっと祖父はこの調子なので、私はかれこれ二十年ちょっとは祖父の朝帰りを目撃していた事になる。 そんな訳で祖父の酒癖が良くは無い事はうすうす感づいてはいたが、流石にここまで酔い潰れて玄関でうつ伏せになっているのは初めて見たので些か驚いてはいるのだが。 「じいちゃんって坂田さんたちと一緒だといつも呑みすぎるよねぇ…」 今は気持ちよさそうに閉じられている隻眼。それはこの平穏な現代のどこにこんな眼光鋭い老人が居るんだっていうくらいの鋭さを放っていて容易に人を近付けない。幼稚園の頃に遊びに行った友達の家で庭の盆栽の手入れをしている友達のおじいちゃんを見た時、初めて私のおじいちゃんは世間一般で言う「おじいちゃん」の像に当てはまらないことを幼心に知った衝撃はきっと一生忘れられない。 しかしその眼光は祖父の人生そのものを雄弁に語っていると思う。その鋭さから、この人も昔は今の私のように若く、また色んな経験をしてのだろうということを容易に想像させる。戦争の事や戦後の日本の立て直しのために働いた事、それとおばあちゃんとはどのようにして出会ったのかとか。祖母とはあの時代には珍しく恋愛結婚だと聞いたが、実際に聞けた事は一度もない。興味が無いわけではないのだけれど、肉親の恋愛話などこっぱずかしくて、未だに正面切って話をすることは出来ない。 「んー……」 「え?なに?」 不意に祖父の口元から言葉にならない音が漏れる。ただの酔っ払いの寝言にすぎないのだが、何となくその言葉に耳を澄ませてみる。 「…、――」 今度ははっきりと聞き取れた祖父の言葉。それは、祖母の名前。 実を言うと、私は生身の祖母のことを知らない。私が生まれた時にはもう既にこの世の人ではなかったので、祖母のことは両親や親戚など人づてに話を聞くくらいで、実際の雰囲気や声など生身の姿を全く知らないのだ。また時代も時代であったので写真も劣化したものが数枚残っている程度で、唯一劣化せずに残っているらしい白無垢姿の写真は祖父ががんとして見せようとせず、今となっては実際に存在しているのかも疑わしい。 そんな訳で私にとって祖母とはなんとなく遠い存在であり、正直、何の縁もない他人行儀さを感じさせる人なのである。しかし、これまた血のつながりとは不思議なもので、私は小さい頃からずっと「祖母に似ている」と言われ続けてきた。その話をしないのは祖父くらいのものだったので、そう言われる度に私は両親をはじめ、親戚や近所の祖母を知っている人たちにどこのなにが似ているのかを問うのだが、これまた不思議とみな口をそろえて言うのだ。「なんとなく、似ている」と。 世の中には隔世遺伝という言葉もあるが、これまでの人生でこの手の話を周りに聞く限り、そういう理論的なものではないようなのだ。不思議なことに、どうやら感覚的なものらしい。 そんな訳で親族と言えども赤の他人のような距離を感じさせる祖母に似ていると言われ続けるのはなんとなく気分の良いものではなかったので、祖母の話題は私の中では気負いしてしまうものだった。 「あいつ、最近オメェに似て別嬪になってきやがった…」 「……」 きっと、祖父は祖母の夢を見ているのだろう。酔っているのもあるが、その表情はどこかやさしい。そして、あいつ、というのは十中八九私のことだろう。 しかし、周りが挙って私のことを「お祖母ちゃんに似ている」と話す中で、唯一祖父からはその類の話をされた事が無かった。だから自分の生涯の伴侶と孫娘を同じ扱いにはしたくなかったのだろうと私は勝手に解釈していたので、へべれけ状態とはいえ祖父がこんな事を話すなんて、とかなり面喰ってしまった。 「美雨が男連れてきた日にゃぁ、俺が一発殴って見極めてやらァ…」 「…物騒すぎるよじいちゃん」 寝言と言えども恐ろしく、またこの祖父なら確実に実行しかねないので一抹の不安を感じて苦笑する。残念ながら今のところその類の宛はないので、祖父が拳を振るう日はまだまだ先になりそうなのだが、なんとなくまだ見ぬ未来の私の旦那が頬骨の強い男であることを密かに祈った。 「だからお前は安心してろよ…」 そう言って軽く寝返りを打った祖父はまたゆっくりと寝息をたてはじめた。文字通りすやすやと眠る祖父はとても気分が良さそうで、風邪をひくリスクを考えても起こすのは憚られた。せっかくなので、今夜は夫婦水入らずで、祖父にはもう少し祖母と一緒に居てもらおう。 「お祖母ちゃんによろしくね、じいちゃん」 そうして私は寝室へと向かった。毛布があるのとないのでは、気休め程度には風邪予防にはなるだろう。 結局大酒飲みが祟って、私が彼を家族に紹介したころには祖父もこの世の人ではなくなっていた。なので彼の頬骨が丈夫かどうかは不明のままだ。きっと今頃、祖母に彼に拳をお見舞い出来なかったことを愚痴っているに違いないと思うと、自然と笑みがこぼれてくる。 しかし、何だかんだで祖父は私の結婚を祝福してくれていると思う。というのも、祖父が亡くなった後、遺品整理をしていた際に例の祖母の写真が出てきたのだ。唯一劣化せずに残っていた祖母の写真。その白無垢を纏った可憐な女性はモノクロにも関わらず、ふんわりと頬を染めているのが見てとれて、その瞬間がどんなにしあわせであるかを私に感じさせた。それは祖父が私に「しあわせになれよ」と言ってくれている気がして、こそばゆくも嬉しさでいっぱいにさせたのだ。 おいでよ、僕のやさしいカルマ 20140819 |