重厚なオートロックの扉の前で腕組みをして、はてさて一体どうやって開けさせようかなどと思っていたのにインターホンの先から聞こえてきた「幸村〜?ピンポン鳴ってるよ〜?開けちゃうよ〜〜〜?」というあからさまに頭の軽そうな声の主が難なく鍵を開けれくれたもんだから思いの外拍子抜けしてしまった。そのせいでその声の主と玄関先で鉢合わせてしまい、舐めるような随分と不躾な視線を投げられた挙句、フフンと鼻で笑われたのだが、当初の計画では頗る手間取るはずだったオートロック解錠をなんなくクリアさせてくれたという点ではその女には感謝するべきなのだろう。ビールとやけに甘ったるい煙草と安い香水の臭いのする女だった。有名ブランドのポシェットがやけに気取ったように見えるのは持ち主の所為だろう。薄化粧に黒服といった格好の私は彼女の目には「相手にするまでもない女」に映ったようで「ククッ」と一応は堪えるように喉の奥で笑うような声がやたらと響く。はっきり言って顔の造形は彼女の方が優れているので、このような場合、外見至上主義の人間が傲慢な態度をとることは経験上仕方がないことだと分かっているので諦めている。それに加え、相手に直接噛み付かない代わりにどこまでも劣等感を植え付けて快感を得るタイプであるようで、私が靴を脱いだ途端、あたかも「つまらない靴」と言うように鼻で笑った。そして見せつけるかのように長い髪をかき上げ、上目遣いでニッコリと笑いながらこちらを見ていた。ちゃあんと自分の顔が整っているのを分かっている人間がする仕草。それを武器にと思っているのかもしれないが、自ら安っぽい女に成り下がっていることには気付いていない馬鹿な女。その一連の動作に思わず溜息が出そうだったが、この場面では事なかれ主義に徹するに越したことはない。勿論気後れしたような表情も忘れずに。それに満足したのか、片方だけやたらと踵の擦り切れた高いヒールの靴を履いて部屋の主人に「また来るね〜」と声を掛けた後、カツカツと大袈裟に音を鳴らしながらそれは嬉々としてエレベーターの方へ向かったようだ。徐々に小さくなる下品なヒールの音が妙に響いたので哀れみすら感じてしまった。今の自分がどんなに虚しく恥ずかしいかを彼女が知る日は来るのだろうか。まぁ、そんなことは私にはどうでもいい。 久しぶりに足を踏み入れたそこはマンションにしてもそこそこ広い廊下であったはずなのに端に置かれた大量のゴミで随分と狭く感じた。一体いつからゴミを捨てるという行為をしていないんだろう。辛うじて大方の物はゴミ袋に入ってはいるものの、使用済みの割り箸の片方だとか煙草の吸い殻が溜まっているであろう缶ビールだとか開封して何日経ったのか想像もしたくもないコンビニ弁当の中身だとか、兎に角放置すべきでないものだらけで言葉通り部屋に溢れていた。これ、下手したら何処の馬の骨とも知らない女の使用済みナプキンなんかもあるんじゃないかと懸念し身震いする。念のためと思い、簡易マスクと手袋は持ってきたが、残念ながらあまり役には立たなそうだ。 「いやぁ、すごい有様ですな」 キッチリと遮光カーテンに遮られた部屋の奥、大学生の一人暮らしでは中々お目にかかれないような大きさのベッドの上で煙草を蒸かしている人影。薄暗い部屋の中でも分かるくらいには無精髭がのびており、美しかった髪も手入れとは無縁のようであった。入室前の状況からもしや全裸なのでは、との危惧は幸い杞憂となり、辛うじて下衣にはジャージを着用していた。自堕落な生活だと聞いていたので多少は肥えたかと思っていたが、走り込みだけはしているのか、精悍とした肉体はそのままだったので、それについてはつい安堵の溜息が出そうだった。 「何しに来た」 口を開くのと同時にモワッと効果音が付きそうなくらいの紫煙で一瞬その顔が隠れる。この間まで良く食べ良く笑う子どもだったくせに、いつのまに煙草の味なんて覚えたんだか。 「いやね、ご様子を見に来ただけですよ。充実のキャンパスライフを送ってるのかってね。まぁ、そんなもの見る影もないですけどね」 「帰れ。真田の家から言われて来たんだろう。小言は沢山だ」 「そうしたいのは山々なんですが、私も仕事ですからねぇ。坊ちゃんには体裁だけでも名家・真田の名前に恥じないキャンパスライフを送っていると周りに思わせてもらわないといけないんですよ」 「失せろ。真田の家など、兄上がいる限り安泰だろう。次男の俺が何をしようと構わぬ」 「個人的にはブタ箱行き以外なら好きにしてくれと言いたいところなんですが、なんせ世間様の目がねぇ。次男だろうが三男だろうが“真田の家の”と言う目で見られるのは必至なのでこうして私が来る羽目になったんですよ」 「単位は足りているだろう。文句は無いはずだ」 「学業に関しては大変結構なんですけどね。それに避妊さえしてくれれば女遊びも火遊びもするなとは言いませんが。ただ、少しくらい体裁も気にしてもらわないとねぇ。あまり自堕落が過ぎるのも如何なものかと」 「真田の家の為に、という大義名分で俺には自由も与えられないのか?今お前も自由にしろと申したではないか」 「ハァ……。面倒ですからはっきり言いますが、幸村様ももういい大人なんですから物分かりの悪い子どものフリするのはやめてもらえませんか?猿飛が結婚するのかそんなに嫌――」 「黙れ」 言いたいことを言い終わる前に左顔面スレスレに灰皿が飛んできて存分に壁を凹ませて、これまた無防備なフローリングに容赦なくゴトリと落ちた。私が避けるのを予想して投げたのだろう、確実に顔半分は的にされていたようなのでまさに危機一髪であった。因みに灰皿は一体どこで手に入れたのか、一昔前のサスペンスで凶器に使われていそうなガラスの重たいタイプのものだ。足の指の上に落ちなくてよかったと思う反面、こんなガキじみた主人と腹を割って話すには時期尚早過ぎたよなぁ、と少々後悔した。面倒ごとを避けたいが為に選んだ道がその何倍も面倒だった時のパターン。しかし元々は結局この話をしに来たのだから、遅かれ早かれ同じ状況ではあったはずなのでこれは不可避というやつだ。 「何もそんなカッカしなくても。仕方がないんですよ。猿飛は真田お抱えの従者の中で最も優れています。その優れた種を残すのも奴の務めですよ。言わば真田に仕える者の使命です。代々そうであったように奴はそれを全うしてるだけです。あなたのためにね」 「黙れと言っている」 「これ、奴の式の日程表です。大旦那様から必ず出席せよとのお達しです。確と伝えましたからね。それでは私はこれで」 言い逃げするが勝ち。そう思ってそそくさと部屋を出る。今回は空飛ぶ灰皿だけで済んだものの、幸村様が本気で掛かってきたらもう私は敵わない。この人は武道・スポーツと名のつくものは一通りこなしてしまう恐ろしい身体能力の持ち主である。初めは真田家の風習で護身術ぐらいは、程度のものだったのだが、如何せん、幸村様の運動センスは飛び抜けていた。小学校に上がる頃には大会と名のつくもののトロフィーを片っ端から総ナメにしていまい、その勢いは中学・高校と衰えることを知らず、その類稀なるセンスで大学の推薦も易々と得ることが出来た。昔はよく猿飛と3人で稽古をしたものだが、成人男性の中でも群を抜いて身体能力の高い幸村様には例え武器のハンデを貰ったとしても勝てる気がしない。念の為にとスタンガンと小刀は仕込んできたが、勿論使わないに越したことはないわけで。それもこれも、猿飛仕込みの技のせいで、そのおかげなのだが。 (あぁ、もう、おっかないったらありゃしない) 幸村様は猿飛のことを慕っていた。それは主従愛であり、兄弟愛であり友愛であり――そしてきっと恋愛に似たものも。はっきりとした名前のつけられない感情。しかし幸村様にとって猿飛は他の者とは別格であった。唯一無二で特別。私がそれにはっきりと気付いたのは幸村様が中学に上がる前だった。本当はきっともうずっと前から猿飛のことを慕っていたのだろうけれど、それが愛なのか恋なのか分からず、自分の中で整理しきれないまま大学進学での一人暮らしで距離が出来てしまい、ズルズルと踏ん切りがつかないまま今回の報せを知ってしまった。憐れなことに猿飛本人の口から。 ただでさえ己の中で踏ん切りどころか置き場所も名前も定まらない感情をそう易々と昇華できるはずも無く、荒れて自暴自棄になってしまうのも分からなくはない。とは言え、あの猿飛が幸村様の心根に気付いていない筈もないので、今回の事は猿飛なりの愛情であり、また荒治療であったのだろう。次男とはいえ、この人もいつかはお家の為に由緒あるところのお嬢さんと結ばれることになるのだろうから。 とは言え、仕方は無いとは思うところはあるものの、巻き込まれてしまった私の身にもなって欲しい。危うくゴミ屋敷の片隅で、あろうことか自分の主人の手によって死ぬところだったのだ。帰ったら猿飛に文句の一つでも言ってやろう。そう思っていた時だった。 「お前は悔しく無いのか」 気配を感じた時はすでに遅く、背後に立つ幸村様と目が合った瞬間,全身の毛穴から汗が噴き出すのを感じた。ついうっかり気が緩み、油断していた。まさかこれだけ接近されているのに気づかなかったとは。あれだけ幸村様の逆鱗に触れてしまったのだ。私はもう真田の家の敷居を跨げないかもしれない、と悟った矢先、幸村様がこちらを真っ直ぐに見据えて再度問うた。 「お前は佐助が他所の女と所帯を持つことが悔しくはないのか?」 それは強い視線とは裏腹に詰問、というよりも懇願するような声色であった。かく言う私はまるで鳩尾に重い拳を食らったような感覚になっており一瞬頭が真っ白になった。こう言っては無礼千万だが、まさか幸村様に腹の中を見透かされているとは思いもしなかったので正直ひどく驚いた。 が、今はそんな事はさほど重要ではないだろう、そもそもの目的を忘れるな、と頭の中でもう1人の私が叫ぶ。私は幸村様を猿飛の結婚式に出席させるよう大旦那様から仰せつかって来たのだ。その為に最善を尽くすことが私のすべきことである。場の雰囲気に呑まれず、本来の目的を見失わずにいられる部分は自分でも優れた能力だと常々思う。 自分の息を呑む音で瞬時に頭が冷静になっていく。 「お前こそ、佐助の――」 「何を仰いますのやら。あれは只の同僚です。私は生憎、それを除いた猿飛のことなんて歯牙にもかけちゃあいませんよ」 幸村様の心根が恐ろしい肉声になる前に乱暴に遮ってしまった。すると同時に幸村様の目の色が虚ろに揺れて、視線が徐々に低くなって、最後は汚れた廊下で蹲るように頭を垂れて見えなくなった。無残に髪が絡み合うつむじを見つめる。 こうして初めから泣けるようであったなら、この人もきっとこんなに荒むこともなかったのだろうけれど。 「それでは、私はこれで」 とは言え、いつまでもしおらしくいるのはこの人のガラじゃないわけで。ふと我に返ってブチ切れた幸村様に八つ当たりをされないうちに、と私は重たい扉をそそくさと閉め、そのまま走ってそのマンションから逃げた。 あなたの骸の傍で キレイに泣き してあげる 真 似 20190418 |