父の実家は長野は上田の、小高い山の上にある。私は幼い頃から盆暮れ正月に家族とそこに帰省するのをとても楽しみにしていた。生まれも育ちも東京の私はその自然豊かな土地がとても特別に見え、そこで妻(つまりは私の祖母)に先立たれた後もその美しい土地で暮らす祖父がだいすきだったからだ。 祖父は優しく、穏やかで静かな人だった。このご時世には珍しく着流しを着こなし、白髪のわりに妙にハリのある髪をしていた。天気の良い日は縁側に座り、広い庭を眺めて過ごすのが日課だったので、私もお気に入りの毛布をお供に祖父の膝で昼寝をするのが至福であった。 「お嬢は素直で本当にかわいいね。旦那の血だねぇ」 「だんなのち?」 「お嬢のご先祖様の血がお嬢の身体に流れてるってことだよ。歴史と愛情のことさ」 そして祖母亡き後、年相応に足腰の弱った祖父の代わりに広い庭の手入れをはじめ、身の回りの世話をしているのがこの佐助だった。佐助は父以外で初めて出会った大人の男の人だった。祖父の家に行くと必ず居て、祖父のことを旦那と呼び、私のことをお嬢と呼んで、己のことは「佐助」と呼び捨てにするよう言い聞かされていた。その顔には薄っすらと痣のような模様があったけれど、オレンジに近い茶髪に背はスラリと高く、鼻筋の通ったその顔の、これまた困ったように笑う表情がなんともやわらかな人だっだので、子どもの私にもこの人は俗に言うイケメンだということが分かっていた。 祖父と佐助は大層仲が良かった。見た目はどう見てもおじいさんな祖父と、片やまだまだお兄さんと呼ぶにふさわしい佐助。けれど、ふたりは私の知らない昔話で盛り上がったり、時には真剣に囲碁をしたり、佐助お手製のお団子をお茶請けにしながら寛いだりして、とても楽しく暮らしているようだった。私も庭の手入れをする佐助を縁側に座る祖父と一緒に眺めたりもして、佐助を見守る祖父の表情に漠然とした安心感を覚えたりもした。 佐助が祖父の家にいることは、私にとって朝に日が昇り、夜には沈むことと同じくらい当たり前のことだったので、それについて改めて考えることなど毛頭なかった。 「ねぇ、お嬢。俺様は恥ずかしがり屋だからみんなには俺様のことは内緒だよ。それにお手伝いさんってのはみんなの前に出るもんじゃないからね」 「わかった!ないしょ、ね!」 佐助は時々幼い私に確かめるようにこう言い聞かせることがあった。素直な子どもだった私は佐助の言うことを疑いもせず律儀にその約束を守り、家族の食卓に佐助が一切同席したことがないことも、帰省終わりに祖父が家の門前まで見送りに来てくれる時にその姿を表さなかったことも不思議に思うことはなかった。 恥ずかしがり屋なお手伝いさんとはそういうものなのだと、ずっとそう思っていたのだった。 そうするうちに月日が流れ、私が小学校に上がるのを見届けて、梅雨の走りに祖父が亡くなった。私たちが上田に着いた頃は祖父は棺の中に入れられていて目を閉じて眠っていた、ように感じた。その頃は私も人の死というものがそこそこ理解出来る年頃だったから、祖父が穏やかな表情をしていたのがやたらと鮮明に残った。 「――さて、この家をどうするかだが」 葬儀が一通り終わると、父を始め、親戚一同が会し頭を寄せ合って居間で何やら話をしていた。「子どもが聞く話じゃないからあっち行って遊んでなさい」と私を含む従兄弟や兄妹たちが適当なお菓子を与えられその場から追い出された。けれど大人は、子どもだからと言って私を見くびらないほうがいい。私はちゃんと、大人たちが祖父の住んでいたこの家を壊そうとしていることを知っていた。 「ねぇ!おじいちゃんのお家こわしちゃうの!?」 「……そうするしかないんだよ。もう誰も住む人がいなし、それだとお家もさみしいだろう。だから、自然に返してあげる方がいいんだよ」 大人たちの輪に割って入り大声を出す私はきっと子ども特有のわがままを言う、大人にとって少し面倒な存在に思えただろう。それを父は優しく諭そうとしたけれど、祖父の家が無くなることもさることながら、そこに住んでいる佐助のことがとても心配で私は焦っていた。この家が無くなってしまったら佐助の住む場所も無くなってしまうのではないかと思い怖かった。 「それじゃあ佐助はどうするの?住むところがなくなってひとりになっちゃう!」 「さすけ?なんだ、それは?」 「おじいちゃんてば、猫でも飼ってたのかしら?」 「ちがうよ!ここに住んでるお手伝いさんの佐助だよ!」 「誰のこと?ここにはおじいちゃんひとりしか住んでなかっただろ?」 「ねぇ、美雨、あなた何か勘違いしてるんじゃない?」 「このお家にはおばあちゃんが死んじゃってから、ずっとおじいちゃんしか住んでなかったでしょ?」 「そうだよなぁ、老人の一人暮らしじゃなかったら、俺たちだってあんなにしつこく同居の話なんかしなかったよなぁ」 父母を始め周りの大人たちが愚図る子どもをあやすよう、あくまで優しい口調で話しかけてくる。それでもその表情が怪訝だったことを私はずっと忘れないだろう。その視線に耐えきれなくなり、居間を飛び出した私は泣きながら暗い廊下を走った。混乱する頭で自然とひとりになれる場所を探しながら、佐助のことを思った。もしかしたら佐助はご近所さんだったのだろうか。いや確かにここに住んでいると言っていたのだ。それにこんな田舎では隣の家まで数百メートルの距離だってある。 言われてみれば、私と祖父以外での前で佐助がその姿を見せたことは無かった。思えば今日の葬式にさえ顔を出すことをしなかった。しかしそれは佐助が恥ずかしがり屋なお手伝いさんだからだ。みんなそれを知っていて、今まで佐助のことには触れなかっただけなんだ。 けれど、これまで一切、大人たちの会話に佐助がでてくることが無かったのは流石になんだか変なような……。 「お嬢」 いつの間にか日が暮れ、雨が降り始めていた。山での梅雨は冷える。昂った気持ちが徐々に落ち着いてきたこともあり、随分と肌寒く感じて身震いする。薄手のブラウスの袖で既に乾いている涙の跡を消すように頬を擦っていると佐助が目の前に立っていた。泣きじゃくるあまり足音も聞こえなかったのだろうか。どこからともなく現れた佐助はなんだかいつもより輪郭がぼやけて見えるようだった。 「佐助ぇ……みんな、佐助のことしらないって言うの…、なんだかへんだよ…」 佐助に会えて安心したのか、また涙が堰を切ったように流れた。ワアワアと泣きじゃくる私に視線を合わせるようにしゃがみ込み、優しく頭を撫でてくれる佐助が存在しないわけがない。現に今もこうして私の目の前にいるのだから。 「落ち着いた?」 「うん……」 一通り泣きじゃくった後、落ち着きを取り戻した私は再度佐助と向かい合っていた。目の前で片膝を付き、私をしっかりと見つめる佐助はいつものやわらかい雰囲気とは違って少し緊張してドキドキした。まだ7つの私にも、これから佐助が何か重大な、息を呑まなければならないような話をするということがその気配で分かっていた。 「お嬢。今から大事な話をしたいんだけど、ちゃんと聞けるかな?」 「うん、いいよ」 「ふふ、いい子だね」 そう言って口元を緩ませて笑うと、佐助はゆっくり息を吸った。 「俺はね、実は人間じゃないんだ」 普段と変わらない声色で、しかし瞬きもせずに佐助は続けた。 「戦国の世からこれまでこの世にしがみついてる亡霊なのさ。この時代には旦那が転生してきてすごく嬉しかったし、ざっと数えて400年ぶりに生きた心地がしたよ。だから今度こそ成仏出来ると思ってたのにさぁ。けれど今生の旦那も俺をおいて先に逝っちまった。全く人の一生ってのは短いね。まぁ、前の世よりは全然長生きしたんだけどさ。だから、もし、もしもだよ。お嬢がいいよって言うならさ、」 まるで一字一句話す言葉を決めていたように言葉を吐いた佐助はそこで、一旦言葉を切って息を吸った。私だけでなく佐助も緊張していることが分かって、少しだけ安心したのを覚えている。 「今度はお嬢に仕えようかな、って思ったりしてさ」 その瞬間の佐助は笑いながら、なのに少し泣きそうな顔をしていた。その時、全く不思議なことだが、何故だか私にはこれまでのことが全て分かっていた。祖父と佐助が不思議な縁で繋がっていたことも、ひとりで祖父を看取ったのが佐助だったことも。そして――佐助が私たち以外の人には見えない存在であることも。 だから思い出したのだ。初めて祖父の家に来た際、私が佐助に向かって「だあれ?」と尋ねた時のあの表情を。あれは多分、「こいつ、俺のことが見えるのか」と瞠目していたカオだったのだろう。 そのまぼろしは年をとらない
20200427 |