一橋家が有する屋敷の広い庭。目下、江戸の町から一望できるそこから咽せるような紫煙を吐き出し余裕たっぷりにそれを見下ろすその背中。サムい感傷には浸りたくないが、あの日から私はこの背中を目印に生きてきたのだなぁと思うと、そのセンスがいいのか悪いのか分からない派手な着物の柄も妙に感慨深く感じてしまっていけない。 これから鬼兵隊は一橋派の徳川慶々を擁し、現将軍の徳川茂茂公暗殺を実行する。計画は綿密に、各地に散った影武者までも逃さぬ陣で確実に徳川の息の根を止める手筈である。我らが総督の高杉もその暗殺に直に手を下すのだというのだから、此度のそれがどれほどヤバいものなのかはきっと猿でも分かるだろう。現将軍派と一橋派と。もしかしたらその周辺の小さな組織も引っくるめ、数多の血が流れるであろうこの計画は正に戦さと呼ぶに相応しいのかもしれない。 そして此度の企てが計画通り終われば、世論は兎も角、我ら鬼兵隊は新しい天下の将軍を担ぎ上げた、まさに官軍のそれになってしまうはずなのだ。 「勝てば官軍、負ければ賊軍ってね」 「ハッ、なんだか胸糞悪ィことを思い出しちまった」 「奇遇だね、私も」 その昔、腐れ縁と呼ぶにふさわしい奴らと先の戦の折にそんな話をしたことを思い出す。もしも忘れることができるなら忘れたいと強く思うような、鮮明で胸が苦しくなるような、そんな記憶。今その沼に浸ってしまえば最後、これからの私の袖を引くには充分すぎるものである。 「ねぇ、もしこのまま一橋派が天下取ったらもしかして私ら官軍じゃん?」 「ハッ、バカ言えや」 馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに鼻で笑う男の笑みは、しかし嘲笑というには親しみがこもる笑い方をしていて、奇しくも私と同じことを思い出しているのではないだろうかと勘ぐってしまいそうになった。 「私も行く」 とっぷりとした深い闇が何もかも隠してくれそうな、そんな昏い夜だった。月のない朔の日。その闇に紛れることが許されないかのように、そこに浮いて見える黒地の水流紋に桔梗のあしらわれた着流は然るべき人間が着れば一層美しく見えるはずなのに、奴が羽織っては妙に哀しそうにしか見えない。 「鬱陶しいんだよ、てめェは」 振り向きもせずに静寂の中に低く響くそれは肌がひりつくような怒気を含んでいたが、私の覚悟はその程度で折れるようなものではなかった。四肢は震え、呼吸は乱れる。恐怖は確かにあった。けれど不思議なことに、この後間合いを詰められて斬り捨てられる覚悟も既に出来ていた。 今の高杉と共に在ることは丸腰で手負いの獣の檻に入ることと同じだった。いつ、自分の血飛沫を浴びることになるのか怯えながらそこに立つのは正直心底恐ろしかったが、しかし迷いはなかった。 「私も連れてって。もう行くところがないの」 「てめェなんざ足手纏いなんだよ。他の奴らンとこに行っとけ」 あの戦さの結末、――その場面に私は居合わせることが出来なかった。既に捕えられた仲間たち数名と牢に入れられ、事が終わると刀傷ひとつと負わずに解放されたのだ。まるで無防備な心臓を冷えた手で撫でまわされているようなおぞましく寒気のする不安を必死に殺しながら、仲間たちと感を頼りに先生を探した。 そして奴らを見つけたのだっだ。遠くを見つめる坂田と桂。そしてこの高杉という男が地に膝をつき、首を垂れる姿を初めて見た。 「私はさ、桂のような真面目さもないし、辰馬のように広い宇宙に飛び立つ度胸もない。まして坂田のところになんて、私が行けるはずもない」 高杉の間合いに入る。大胆になる身体とは裏腹に恐怖は一向に消えてはくれない。とは言え、たまたまこれまで悪運が強く出ただけで、一歩違えばあの戦さで死んでいたはずの命だ。今となっては奴に斬り捨てられるなら、もうそれでもよかった。 「それならアンタの後ろでその最期を見届けるのが一番楽しそうだから。私も一緒に行く」 斬ろうとすれば間違いなく一撃であろうこの距離で微動だにしない背中を眺めていられるのが不思議だった。如何にもこうにも、もう私はここからは逃げることなど出来はしない。奴に付いて行くか、ここで死ぬか。私の命運を握っているのは紛れも無く目の男。全ては奴の思いのまま――。 「ったく、酔狂なヤローだ」 その背中は確かに笑っていた。少し堪えるような、諦めたような小さな声で奴はクツクツと肩を揺らしていた。 「俺の最期を見届けるたァ、てめェみたいな小物にしちゃァ随分デカく出たもんだ。そんな大口叩くんなら余程の覚悟は出来てんだろうなァ?言っておくが、俺は後ろですっ転んだ奴にゃあ手は貸さねェ」 「死ぬ気で付いてく」 「アホか、死んだら終ェよ。俺の最期が見てェなら、血反吐吐きながらせいぜい俺より長生きするこった」 いつの間にか高杉は愛用の煙管を取り出して紫煙を燻らしている。気配だけを残して闇夜に消えるそれはさながら怨霊のようだった。 「俺は何にもなれねぇ。ただこの腐った世界を壊すだけだ」 「でもってそれは世直しなんかじゃないんでしょ?」 「そんなもんはズラにでも任せておけ」 そして高杉は歩き出した。月のない先の見えない暗い道をゆっくりと進んで行く。 「どこまで行こうが俺達ゃただの悪党よ」 怨霊のような煙の気配を頼りにその背中を追う影。やがてその足音も気配も全て、闇に紛れて消えて行った。 その淵に立つ月の背を喰む 20200808 |