――嫁に来い。この一息で足るたった一言が、もう随分前から言えずにいる。

「ねぇ、今晩のお祭り行くんでしょ?」

 畳に肘をつきながらもう片手でうちわを扇ぐ俺の背に向かってかけられた実体のない言葉さえも真夏の熱気に溶けてしまいそうだった。こめかみから首筋、背中から腰に向かって汗がつぅっと皮膚を伝って流れていく。濃紺の浴衣がじわりと汗を吸っては一段と色濃くなっていくのが分かる不快さと言ったら。蝉が盛んに泣いている中、昼過ぎの一際蒸し暑い風が気休め程度にぬるく前髪を揺らしていく。今年の夏は一等暑い。

「お前も行くんだろ?」
「もちろん!今年のお祭りに間に合うように新しい浴衣を縫ったの。着るのを楽しみにしていたのよ」

 「それにしても今年の夏は暑いのねぇ」と俺と同じことを言いながら隣に腰を下ろすと、持っていたガラスコップの中身を一気に飲み干した。男のそれとは比べ物にならないほど控えめな突起が気持ちの良いほどにごくりと動いた。

「はい、晋助の分。今年浸けた梅だから風味は軽いけど、丁度良い甘みよ」

 目を凝らさなければその琥珀色に気づけないであろう色の液体の入ったガラスコップを受け取る。コップのかいた汗が指先からつぅと手首を伝い、その一筋がやたらと冷たく感じる。シュワと小さく炭酸が弾けるその音が余計に喉の渇きを増長させた。キンとよく冷えた炭酸とさっぱりと軽い梅の口当たりが火照った身体の隅々まで行き渡っていく。

「酒はねぇのか」
「夜になったら出してもいいけれど、真昼間には出さないわよ。晋助はもう少し自分の酒癖の悪さを自覚なさいね」
「つまんねェなァ」
「昼間のうちにやることやらないと。うちにきてだらだらしてるのに、ジュースをもらえるだけ有難いと思いなさいな」

 乱れた髪を結い直しながら、まるで子どもに言い聞かせるような口調で笑う。うなじに滲んだ汗がゆっくりと浴衣の襟に吸い込まれていく。首を動かす度に地肌の白さと日に焼けた皮膚の境目がちらりと見えた。

「今晩何時に迎えに来ればいい?」
「あら、てっきり入り浸りかと思ってたわ。それじゃあ一度帰ったあと、わざわざ迎えにきてくれるの?」
「気が向いたらなァ」
「なんだ。約束してくれるわけじゃないのね。いいわよ、晋助が来てくれなくても銀時と小太郎とは約束してるから」
「ア?」
「今晩のお祭りで辰馬が屋台出すからって、その手伝いの時に約束したの。辰馬の屋台に寄ってから花火に間に合うように出れるようにって」
「なんで俺には言わねェんだよ」
「だってそれからしばらく晋助に会わなかったんだもの。家に行ったらずっと留守だし、聞けば松陽先生のお手伝いで忙しくしてるみたいだから声かけ辛くて。そしたら今日は急にフラッと来るし」

 少しばつが悪そうに、そして拗ねているようにも見えるその顔は妙齢の女というよりは妙に幼く見える。確かにこのところ先生の手伝いや手習いのガキ共の世話をしていて、とんと顔を出していなかった。加えて、決して友人とは言えず、強いて言うなら悪友と称するにふさわしい間柄の連中であっても、ガキの頃からの仲間内で意図せずとも疎外されていたと知ればよい気分はしないものだ。
 そもそもそれは、今日こうしてゆっくりとその顔を眺めるためのものだったのだが、その旨の一言も無しにめっきり顔を見せなくなれば付き合いが悪いと思われるのも分からないでもないのだが。

「今晩のお祭りも来れないのかとばっかり思ってたのに…」
「そいつァ悪かったな、なんの前触れもなく来ちまって」
「そうよ、来るなら先に一言言っておきなさいよ。でもね、今日いきなり顔を出されて大体は察しがついたわ。晋助のことだから、今日のために忙しくしていたのね」

 立つ瀬がないとはこのことか。元来美雨は察しの良い女だが、こうも全て見透かされてしまっては、どんな顔をしたらいいのか分からず、思わず顔を背けてしまう。我ながらガキくさいと思わずにいわれない。

「今晩はみんなで行きましょう。一緒に辰馬の屋台に行って、花火も一緒に見ましょう」
「…俺は別に花火なんて、」
「私が一緒に見たいの。いいでしょう?」

 何かを思い出したのか、ウフフと口元に手を添えて少し恥じらうように笑う美雨。

「だって、とんと顔を出さないでいた誰かさんがお祭りの日にはちゃんと隣にいてくれるんだもの。そりゃあ嬉しくもなるでしょう?」

 何も言えずにいる俺をよそに「さてと、夕方までに諸々と済ませておかないと」とさらりと立ち上がり襷をかけるその横顔が見えなくなってしまわないうちに。考えるより先に身体が動いて華奢な肩を出来るだけ丁寧に掴んだ。ほのかに頬を染めて、目を丸くして俺を見つめるその人に今言わなければ。一息で足りる、これまで言えずにいたあの――。
 息を吸った時、一筋の汗が喉を伝ったのを感じた。今年の夏は一等暑い。






202100310