明るい照明の元に出たら、そこは一面美しい青だった。 「最高、」 「知ってる」 後ろにいる遙はきっと微笑んでいる。ぐっと濃くなる塩素の匂いと照明に照らされた水面がキラキラと光っている。ここのプールの深さは約3メートル。緊張と期待で胸が苦しい。浅くなる呼吸を落ち着かせようと、ゆっくり大きく息を吸い込んだ。深くて広い静寂なそこはどうしようもなく神聖に見える。 「どうしよう…早く入りたい…!」 「今は俺たちしかいないんだから念入りにストレッチしろよ」 「はぁい」 言われた通りにゆっくりしっかり、入念に準備をする。もしもここで溺れて事故なんか起きてしまえば遙にも迷惑がかかる。なんと言っても、今回のことは七瀬遙という将来的にも有望な選手だからこそ許された我が儘なのだ。 ――競泳用の深いプールで泳ぎたい。 私の密かな夢だった。子どもの頃からテレビの画面越しに見ていた深く透明な青の世界。学校やその辺のプールとは比べ物にならない深さ。聞けば競泳用プールはその深さゆえに波が立ちにくく、泳ぎやすいとのことだ。足の付かない解放感と自由を感じてみたくて、遙に無理を承知でお願いしたのだ。それでも、まさか本当に実現するとは思ってはいなかったのだけれど。 「そんなに泳ぎたいならお前も泳げば良い」 いつも遙に言われていた。深いプールで泳ぎたいなら、お前もタイムにこだわって泳げば良い。結果次第ではあるが、食らいついていればそれ相応の場所で練習くらいは出来ると。「お前なら上を狙える」だとかの下手なお世辞ではなく、「食らいつけば」とありのままの表現するのが遙らしい。 遙や真琴とスイミングクラブに通い始めたころから今でもずっと水泳はすきだ。中学でふたりが部活の水泳から離れても私は続けた。高校でも部活は水泳一択。だからこそ分かるのだ。自分には世界に挑める選手になり得る力がないことを。 文字通り入念にストレッチは済ませた。緊張と期待の感度は変わらないのに、不思議と身体が軽い。プールサイドに立ってゆっくりと深呼吸。塩素の匂いが肺を満たす。隣を見ればやわらかい表情の遙がいて、頷いてくれる。好きにしろ、とその顔が語っている。照明に照らされて穏やかに揺れる水面。瞬く間に形を変える水の文。一面の青。こののどかな揺らぎをこれから私が思い切り乱すのだ。 深く、息を吸った。スタート台を蹴る。ひやりとした感覚に包まれて軽くなる。皮膚に触れる水の感覚に気泡が身体を包む。水の揺らぎを全身に感じる。その泡が消えれば私は水と一体になる。流れに任せて手をかけばすぅっと進んでいく心地良さ。見たことのない深く青い水底がはっきりと見える。肌を滑らかに撫ぜるような水はこれまでのどのプールよりも泳ぎやすい。波が立ちにくいというだけでこんなにも違うものなのか。病みつきになってしまいそう。 「わりと泳げるんだな」 50メートルをどうにか一度で泳ぎ切り、息も絶え絶えながらも勿体無くてプールからは出たくない。水面に仰向けで浮かぶ私に存外だと遙が言う。私よりもワンテンポも遅く飛び込んだはずなのに数秒速くゴールへ到着し、さほど息も上がっていないのは流石である。 「この日のために泳ぎの練習したんだ。折角のイベントに思いっきり泳げないんじゃ悲しいでしょ」 高校卒業と共に自然と離れた水泳。だから私はこの日のために市民プールで泳ぐ練習をしていたのだ。約1年ぶりに着た水着の素肌に吸い付く感覚に大袈裟ながら郷愁じみたものを感じて、これではイカンと今日のこの日のために感覚を取り戻し、水を楽しめるように準備してきた。その努力が実って、私はとても楽しめている。 遙が水底を目掛けて潜っていく。その後を追って深水する。これが水圧か、と思うのと同時にもぐることへの快感を思い出す。幼い頃に初めて水の中に埋もれた時のあの感覚。それまで感じたことのない心地良さ。小さな気泡に包まれながら私を見つめる遙は笑っている。 ――なんて、良い顔をするのだろう。タイムに拘ると決め、それを指針として生きていく遙は素直に格好良いと思う。そして、それだけの才能に恵まれていることも、ただただ羨ましい。 けれど、タイムとか才能だとか、そんなしがらみに囚われず、自由に優雅に水の中で生きる遙のなんと美しいことか。この人は前世は本当に人魚だったのだろうと思わずにはいられない。 水をかき分けて遙が近づいてくる。ゴーグルを着けていない裸眼でもはっきりと見える距離にあるその穏やかな顔。頬を撫でると目を瞑り、自ら摺り寄せてくれる。ああ、この胸に込み上がる感情を愛しいと名付けずに何と呼ぶのだろう。 20221206 |