なあ、猿飛。お前には分かるまい。お前が今どんな顔をしているか。 忍びにとって、主の為に死ぬということがどんなに愚かなことか。生き抜いてなんぼの生業だ。どんな手を使ってでも生き延びる。金さえ積まれればなんでもする。それがひとりの主の為に命をかけるどころか、落としてしまうなんてことがあれば。それは全く愚かの極みであろう。 忍びにとって主従とは、金で結ばれた、干菓子よりも脆いものだというのに。主従は三世なんて笑わせる。私たちは利害の一致でのみ全てが活きる関係だろう。 夜の闇を孤独に駆けるのが忍びである。日差しの元でなど生きてはいけない。陰にて影であれと、里で一番初めに教えられた矜持だったよな。お前もその矜持を忠実に守っていたよな。 それなのに、そのお前が今やこんなことになるなんて。目を細めるほど眩しく、激しい業火に惹かれ、あろうことかひとりの主に傾倒しているなんて。ふふっ、あの頃のお前が見たらなんて言うかな。 かすがが里を抜けた時、その理由もさることながら、お前が失笑するふりすら出来なかったのを今でも覚えているよ。恋なんてものに身も心も焦がしたあの子の行く末を案じていたからこそ、嘲笑うことすらも出来なかったお前のあの表情。 なあ猿飛、お前には分かるまい。お前という存在がどれほど私を奮い立たせてきたか。 幼童といえど、十も過ぎれば子忍として戦さ場に駆り出される。まして私たちのような異能持ちであれば尚更。泥か血潮か判断がつかなくなるまで刃を振るったあの日々。切り捨てた者たちの怨念の幻覚に引きずられそうになった夜半の夢。小刀を握る力さえないのに放り投げられたあの合戦。しかし年々確実に手応えを感じていく、首の急所を切り裂いて骨を割る感覚。肚から出てくる臓腑の鮮明な色。血反吐を吐きながら我武者羅に駆けた記憶にはいつもお前がいた。広大な戦さ場でどれほど離れていようとも、お前の闇の気配を感じる度に私が何度刀を握り直すことが出来たか。 なあ、猿飛、お前には分かるまい。 私にはこれまでずっと頭の隅に巣食っている思惑があるのだ。忍びとしての己を手放してしまえば、すべて終わりに出来るのだと。忍びではない己の人生すべてを諦めて、事切れてしまえたらどんなに楽になれるかと。切り裂いた相手の生温かな血潮を浴びることも、下品な暴漢に色目を使って身体を弄られることも、任務に忸怩って暴力を受けることも、それですべて終わると、いつも意識のどこかで考えていた。血濡れた屍の上に生きながらえるなんて、うんざりだと思っていた。 だからあの時、本当は安堵する気持ちもあった。戦況を見誤って、雇われとは言え主の軍の為と思って余計な手出しをして深傷を負った挙句、足手纏いと捨て置かれた。全身がさぁっと冷えて身震いが止まらなかった。霞む視界の隅で人から流れる見慣れた大量のそれが己の胎から出ているのを呆然と見ていた。何度か頭を打っていたし、死体の生臭さに耐え切れず何度か吐いた。それでもその時は「これで終われる」と思っていたのに。 何処の馬の骨とも知れない死にかけの忍びを介抱するお武家様なんて聞いたことがなかったよ。目が覚めた時、まさかお前がその方に仕えていると知った時は、あの世で見る都合の良い夢だと思ったものだ。 お前の闇の気配を今生で再び察することが出来るとは。忍びとして生き延びるのも悪いことばかりじゃないと思ったよ。 それにあの主ときたら。飛び道具である忍びを自分と同じ人として扱うのだから困ったものだよ。真田に仕えて初めての戦さで、朦朧とした意識の中で腕の止血をする私に「見せろ。某が布を巻く」と自ら手当をしてくれたのにはひどく困惑したさ。お武家様が忍びの手当てなど。 この邪気のなさそうな青年も結局は忍びを飼うお武家様で、女を蹂躙する男で。一体見返りに何を求められるのだろうと、しかし、はなから断ることなど許されないのだと思うとその恩情がひどく恐ろしかった。他とやり方が少し違うだけで、男が女にすることは同じだと。先に恩を与えておけば私の情もより御し易いと思ったかと。若しくは女の戦忍が珍しいとか、お武家様の気紛れで乞食に餌をやるようなものだと思っていたのに。 今ではお前がそんなふうに笑えるようになってしまった理由が分かる気がするよ。 お前とあの方の所為で、私はこの忍びとしての定めを受け入れてしまった。以来ずっと何があろうとも真田の陣へ帰ることを諦めずに、歯を食いしばり、死なないように生きてこられた。けれど、あの方が与えてくれた人の情というものは、私にはあまりにも大きすぎたよ。 なぁ、猿飛。お前には分かるまい。 こんな時代だというのに、主にも同僚にも恵まれた私がどれほど満たされていたか。忍びのくせに、私という容れ物はどこも空っぽでなければならないのに、とっくに失くしたと思っていた私の心はこんなにも生きがいで満たされていた。 だから罰が当たったんだ。忍びのくせにしあわせな人生を送ってしまったから。感性が鈍っていたんだろう。あの主であるならまだしも、あろうことかお前を庇ってしまうなんて。そんなことをしなくとも、あの一撃くらいお前ならば避けられただろうに。愚かなことをしたと思っているよ。言葉通り無駄死にだろう。 「バカ!目を閉じるんじゃない!」 それなのに、お前が任務をよそに私を抱えて本陣へ向かっているだなんて信じられないよ。まさか、お前が介抱をしてくれているなんて。 ふふっ、冥土の土産に良いものを見たな。お前も私に向かってこんな顔をすることがあるんだな。主のそばなら困ったり焦ったり怒ったり笑ったり、無垢な人らしい顔をするのは知っていた。私もそれを近くで見ることがあったから。ただ忍隊の長という肩書きもあって、主に関わること以外でお前がそんな顔をすることなんてあんまり無かっただろ。だから、まさか私の為にそんな顔をすることがあるなんて、俄には信じられないよ。その柳眉を歪ませて、僅かに見える皮膚には汗を滲ませて。鎧越しだというのにお前が触れているところはあたたかいよ。 なあ、猿飛。本当はお前は己が思っている以上に人間らしいんだよ。主やかすがに留まらず、私にもそんな顔を見せるなんて。けれど猿飛。この先もきっとお前には己がどんな顔をしているかなんて分かるまい。そんなお前のことが私は結構すきだったよ。 「余計な仕事増やしやがって!旦那になんて言えばいいんだよ!お前のせいで滅茶苦茶だよ…!」 地獄より綺麗 20240807 title by 惑星 |