深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。覚悟を決め、長い廊下を歩く。胸元には着物の中に隠した暗器。あの軍師がわざわざ厨房に出向き膳を運ぶのに直々に私を指名した。これはまさに青天の霹靂。ということは、間者とバレた可能性が高い。 ドクタケが腕の立つ軍師を囲っているとの噂は瞬く間に広まった。事実、以前のドクタケとは明らかに異なる戦略が顕著である。その軍師の正体を探ってこいというのが好奇心旺盛な雇い主からの依頼だった。内容によっては報酬もはずむと言われれば、フリーのプロ忍として腕が鳴るのは当然のことだ。渡りに船とばかりに募集されていた飯炊きのパートとして潜入し、そろそろと内部を探る。軍師とは何度か食事を部屋に運んだことぐらいで直接的な接触はなく、上手くやっていたつもりだった。それなのに、どこでバレたのか。 とは言え、軍師も男は男。微塵の可能性だが、パート仲間が言うように軍師が私を気に入ったということもあり得なくはない。そうなればウブな小娘のふりをしてやりたい放題なのだかなぁ、と思っている間に軍師の部屋の前に着いていた。大丈夫、軍師の出方次第で上手くやれる。 入室の許可を得て戸を開ける。書物やら地図やらが散乱した部屋の中で灯りに照らされた横顔が浮かぶ。 「こちらに」 私に一瞥もくれず端的に話す軍師の側に膳を運ぶ。書物の積まれた床を見渡し比較的安全そうな場所に置くと、近くにある書物が目に入った。見開きのまま置かれた文字をそれとなく追う。どうやら仏の道を説いたようなものらしい。ドクタケの軍師もこのようなものを読むのか。少し意外だったが、瑣末なことでも何かしらの糸口になるかもしれぬと心に留め置き、戸の方へ体を向けた時だった。 「貴様、何者だ」 切り裂くような鋭利な声に背中から刺されたと思った。咄嗟に振り向くが身体が強張る。しまった、と思った時には身体が後方に倒れた。反動で身体は動くものの、十分な抵抗が出来ず激しい音とともに背中を床に打ち付ける。逆光で軍師の顔はあまり見えない。 「その動き、やはりただの飯炊き女ではないな」 あぁ、しくじった。刀の鋭さが首の薄い皮膚越しに伝わってくる。背後には固い床。そこに縫い付けられた背中を冷えた汗が一気に駆け降りる。鋭利な視線と圧倒的な殺気にあてられ、まさしく冷汗三斗。 「懐から手を放し床に両手をつけ。そのまま私の問いに答えろ。妙な動きをすれば殺す」 冷静さを欠かないよう深く息を吸ったつもりが、口から洩れるのはあまりに浅い呼吸で嫌になる。軍師の顎を狙った左手は拘束され、右手は懐の手裏剣を掴んでいるのに放つことができない。片膝立ちで組み伏せられた胴体も動かすことは叶わず、言われるがままに両手を下ろすしかなかった。 「下手に抵抗せず身を庇っていればバレずに済んだものを…。忍びにしては見極めが疎かだな」 呆れと嘲笑を含んだ物言いにその手に乗るものかと唇に力を入れる。術に嵌れば終わりだ。大人しく従い機会を伺うのが最善だ。 そこからは展開が早かった。どの道この状況では軍師の言いなりになるしかない。私がフリーの忍者であること、雇われ主からドクタケの軍師の正体を探るように依頼されたこと、単独での潜入であること。全てを話すしかなかった。 「……以上だ」 「それだけではあるまい。全て話したほうが身のためだぞ」 「話したことが全てだ。他に目的も情報もない」 「私を始末することは目的ではないと?」 「現時点では正体を探ることのみ依頼されている。お前に危害を加えるいわれはない」 「……言ったはずだ。隠し事は身のためにならぬと」 「うっ…」 首の左側になめらかな痛みが走る。薄い皮膚がゆっくり裂けていく感覚。同時にそこからあふれた液体が皮膚を細く伝って着物に染み込んでいく。更に冷えた汗も背を伝う。得物でやり合う勝負ならこの程度の怪我で怯むことはないが、拘束された相手にこれだけの実力の差があるとどうにも恐怖の方が勝ってしまう。このまま首を掻っ切られて死ぬかもしれないという観念に支配されそうになる。 しかしここで諦めれば間違いなく全てが終わる。ろくな死に方はしないだろうが、かといってこんなところで死ぬのは嫌だ。言葉の語尾が震えて声が掠れぬよう、恐怖で絞られた喉を開いて明瞭な声を意識する。視線をそらさず、その冷めた目線を迎え撃つ。 「言ったはずだ。話したことが全てだと」 軍師は私を見下ろしたまま、その視線を外さない。どうすべきか迷っているようだった。しかし、しばらくして口元の力がが少し緩んだかと思うと一斉に降り注いでいた殺気が霧散した。 「私の正体か……。笑わせる」 乾いた声で軍師は言った。 「そう言うことなら構わん。だが、お前を野放しにするわけにも出来ぬ。私の側仕えになれ。丁度雑用をこなす者が欲しかったところだ。部屋が汚いと小言を言われるのも鬱陶しくてかなわん」 この男、今なんと言ったのか。殺気は消えたが首元の刀は依然としてその矛先を変えない。傷の浅さにしては大袈裟に溢れる血の流れを感じる。焦りから更に困惑を隠せない。 「お前の側仕えに…?」 「言ったとおりだ。お前は私が監視する。その間せいぜい小間使いとして使ってやる」 「そんな甘い条件を私が飲むとでも?仮に承諾したとして、機会を伺って逃げ出すやもしれんぞ?」 「逃げを選ぶ者であるなら初手で逃げ出しとっくに私に殺されている。つまりお前は後先考えず後退するよりも、状況に応じて任務遂行するタチだろう。己が危機に瀕していようとも虎視眈々と獲物を諦めず狙う。片手間にそんなお前の相手をするのも悪くないと思ってな」 「物好きな」 「興味深いものは追及するタチでな」 「ならば飯炊きのままでも構わぬだろう。私は逃げないのだから、わざわざ側仕えになどにしなくとも」 「流石に目の届かぬとろこにやるほど私も好事家ではない。こうなった以上、お前にそれほど自由を与えるつもりもない。つまりお前に拒否権はない」 理解が追い付かないというのに、話だけがとんとん拍子に進んでいく。しかし拒否したところで何もかも上手なこの男に切り捨てられるだけだ。ここで下手に抗って死ぬか、満を持して機会を伺うか。問われるまでもなく、答えは決まっている。 分厚い書物をめくりながら手に墨がついていることも厭わず、夢中で何かを書き記す姿はまさに一心不乱というべきか。件の軍師はこちらが声を掛けなければ食事も入浴も睡眠でさえ忘れてしまうような人だった。 側仕えを始めて十日余り。世話をしながらその正体を探る機会を伺っていたが、この男、特別切迫された状況ではないにも関わらず、一度入り込むと自意識の底へ深く沈んでしまう。そうなると部屋の乱雑さに始まり、身なりも一日の予定も総て狂い出す。城主も出席するという大事な軍議があるというのに、その半刻に人前に出せない身なりをしていた時はさすがに引いた。つまりは自分に無頓着でだらしがない。花でもあれば少しは気にするかと菖蒲の花を活けてもみたが、目もくれず惨敗に終わった。 「軍師殿はここに来る前はどんな生活を?」 「それを探るのがお前の仕事だろう」 そして世話をする隙間に何気なさを装って情報を得ようとするも見事に躱されてしまう。山田利吉ほどじゃあないが、私だってそこそこ腕の立つフリーの忍びである。あの時も特段落ち度はなかったはずなのに軍師はすでに殺気を放って私の背後をとった。すなわちその前に私が忍びだと見抜いていたということだ。となれば、私に失態があったということ。それすら自覚できず、こうしてのうのうと過ごしている己が情けなく許せなかった。 一方で様々な理屈を並べて私を側仕えにすることにした軍師はその言葉通り淡々と部屋の整頓を言い渡す。その部屋は毎度整頓しているはずなのに、一晩経つとあまりの乱雑さで値の張るような書物ですら見開きで床に投げ捨ててある始末。呆れながらそれらの整理整頓と掃除、武器や筆の手入れをこなしていく。けれど部屋の掃除だけでは徐々にやることが少なくなってくる。もともと軍師との会話らしい会話は少なく、しかもここぞというカマかけも躱されてしまう。軍師の正体を探るのにこの一室で過ごすだけでは限界が来ていた。ここで耐えてこそのプロ、と己を戒めながら過ごしていたが、悔しいことにそれも軍師には見透かされていたのだろう。 「読めない文字があるのか?」 急に声をかけられ、勢いよく顔を上げた。暇を持て余すあまり、整頓中の書物の表題や中身を目で追うことが多くなった。もともと書物は好きだったので整理をする傍らつい文字を追ってしまう。しかし私には読めない文字もいくつかあり、前後の文脈からその意味を考えているうちにその気配に気づくことが出来なかった。正座する私を見下ろすように立っているのに、軍師の気配をまるで感じなかった。ばつが悪く思わず視線を逸らす。これではいつものように「これに気が付かないとはプロが聞いて呆れる」と小言を言われるに決まっている。 しかし予想に反してその声は意表をつくようなものだった。 「……。なんだ、お前そんな顔もするのか。いつもは澄ましているのに」 「えっ…?」 「まぁ良い。読めない字があるのだろう。どれだ」 「……これですが」 すると仁王立ちの長身は流れるような身のこなしで私の右隣に片膝を着く。そして書物を覗き込むために体を寄せてくるので、自分の両手に力が入るのを感じた。 ――この人は咎めるどころか、私に文字の読み方を教えてくれている。 俄かに信じがたいことだが事実だった。そして読み方と意味を話すと「では悪いがこれはもらっていく。丁度探していたのだ」と私の手中にある書物を抜き取りそのまま文机の前に座った。 軍師はあくまでも間者である私に随分と油断した様子を見せる。危害を加えるつもりはないとはいえ、あまりナメるなと視線で訴えるといつも小馬鹿にした表情で「お前に寝首をかかれる私ではない」と一蹴される。その表情に似ているようで似ていない今の表情はなんとも筆舌に尽くしがたいものだった。ただ、今まで見てきた軍師の中で最も砕けたものであったのは間違いない。「お前もそんな顔をするのか」なんて、そのまま返してやりたい言葉だった。 「これはお前でも読みやすいだろう。読んでみるか?」 それ以降、軍師はこうして書物を勧めてくるようになった。軍師が選んだものは読みやすく、かつ分かりやすい内容の物ばかり。確実に私に合わせたものを選んできている。始めはただの気まぐれかと思っていたが、そんなこともないようで。 「読めない文字はあるか?仮名文字が必要なら言え」 「覚えたい文字は書き残しておくと良い。何度も見返せば覚える」 「切れ端だが書き置き用には使えるだろう。お前なら何度か書けば覚えるはずだ。墨は近くのものを使え」 あまつさえ読み書きを学ぶための環境を整えてくる始末だ。ここまでくると嫌でも世話を焼かれていると認めざるを得ない。あの日、この男は私に自由を与えるつもりはないと言った。しかしなんなのだろう、このザマは。もとはといえば私が側仕えという形であったにもかかわらず、今やその立場は崩れてしまっている。大きな括りで言えば師弟と言われてもおかしくない。 「ふっ、どうした。なんとも怪訝な顔をしているな」 「この状況に疑問も持たず甘んじて受け入れる方が異常では?」 困惑しながらも言われるがままに流されている私が愉快なのか、揶揄うように軽口を叩く軍師に本心を伝える。すると軍師は表情も変えずにはっきりと言った。 「プロであるなら読み書きできるに越したことはないだろう」 それが軍師との最後の会話になった。 『世話になった。それと任務の時は不用意に文字を読むのはやめた方が良い。』 その日もいつものように部屋へ向かうと軍師の姿はなく、妙に小綺麗に整理された文机の上にその書き置きはあった。紛れもなく私に宛てたものだった。 ――捨て置かれた。 そう思ってしまった。血の気が引いていくのを感じてそのまま座り込んだ。目眩がする。顔に触れた自分の指先が冷えている。その内容が俄かに信じられなかった。そして軍師が私の正体を見破った理由よりも、捨て置かれたその事実に動揺している自分にも。 城内外の様子から近々戦さになることは分かっていた。しかしそうとなれば、私ならそのまま側仕えとして従事することになるだろうと思っていた。きっと軍師の片腕として役に立てるだろうと自負していた。驕りだった。あの軍師から見れば、私など片腕どころか足手纏いにしかならなかったということだ。思い上がりも甚だしい。 しかし――こうとなれば本来の目的を速やかに遂行しなければ。その後は必死で軍師の所在を探った。城内やドクタケが陣地としそうな場所を探り、あの軍師なら戦さでどう知恵を巡らすかを考え、走りに走った。 けれど、結局見つけることは出来なかった。私がそこを見つける前にドクタケは戦さを取りやめた。理由は探るまでもなく明白で、ドクタケの軍が城に戻ってきた時、そこに軍師の姿はなかった。不自然なくらいに、そもそも初めから存在しなかったかのようにドクタケの者は気にもかけていないようだった。唯一飯炊きどころの女たちが時折り「軍師さま今ごろどこにいるのかしら」などその名を口に出すことはあったが、戦さがなくなればひとりふたりと帰るべきところへ戻っていき、日が過ぎるごとに目に見えて軍師の話をする者は減っていった。 それでも私は情報を求め走ったが、有益なものは手に入らなかった。噂ではその正体は狐が化けていただの、本当は南蛮人で国に帰ったのだの、どこぞ忍術学園の教師だったのだのと、信憑性には甚く欠けるものばかりだった。 「女将さん、団子とお茶をひとつ」 「はいよ!お嬢さん旅の人?ゆっくりしてってね」 「どうも」 結局軍師の正体を暴けないまま雇い主の元へ帰った私が次の仕事をもらえるはずもなく。その後は新たな仕事を求めて転々とすることとなった。しかし軍師に教わった読み書きのおかげで以前よりも割りの良い仕事をすることが出来るようになっていた。今は密書の代筆と偽造、受け渡しを主な生業としている。特に偽造はしくじった際の損失は大きいが、その分の報酬もこれまでとは桁違いだった。軍師に出会う前は最低限の読み書きが出来ればそれ以上は必要ないと思っていたが、まさかあの時に学んだことがこれほど大きな武器になるとは。徒労に終わったあの一件で、これだけは嬉しい誤算であったと団子を食べながら思う。 首元に触れてもそこには平たい皮膚があるだけで、あの時の傷ももう随分と薄くなっていた。 「前を失礼」 私の前を横切り、向かいの席に男が座る。深く笠を被った長身の男で灰色の着物。今回の取引相手の身なりである。 「お嬢さんは旅の人?どちらから?」 「伊豆から」 「それは随分遠いところから。大変だったでしょう」 「ええ」 「そういえば隣村の菖蒲が見頃だそうですよ。旅のついでに見物に行かれては?」 「まあ、それは是非。よろしければご一緒しません?」 「勿論です」 会話の中に合言葉が全てが入っている。懐から密書の巻物を見えるよう少し傾けると男は頷く。取引相手に相違ないだろう。そのまま取り出し受け渡す。 「確かに」 笠から見える口元が上品な男だった。このような仕事をしている者としては珍しく、猜疑を感じない穏やかな話し方もどこか安心するような含みがあった。とは言え、この男も恐らく忍者だろう。見知らぬ同業との必要以上の接触は控えるべきだ。残った茶を一気に飲み干す。 「おや、もう発たれるので?」 「用が済めば長居は無用」 「ふっ、澄ました顔は相変わらずですね」 男の言葉にすかさず胸元に手がのびる。あまりに不審な物言いに警戒するには十分で、懐の手裏剣に手を掛けたその時。 「お久しぶりです」 そう言って笠を外した男の顔には見覚えがあった。輪郭や鼻筋、髪の質感に爪の形。重なるのはただひとり。 けれど、そのやわらかな笑顔にはなんとも言えない違和感があった。私の知っているあの人はこんな表情を――少なくとも私には見せたことがなかった。なのにその記憶とあまりにもちぐはぐなその男は少し眉を下げて私を見つめたまま、やわくはにかんだ。 その表情を見た時、私はあの軍師がもうどこにもいないことを悟った。 「よかった。あなたとはまたお会いしたいと思ってました。その首の傷だとか、色々と謝りたくて。その……お恥ずかしながら…私のこと、覚えてますか?」 とこしえにわたしがうめた春のこと ------------- 企画「救済」さま提出 20250813 |