――4時前に着くと思う。ヘルメットとグローブと寒くない格好で。プロテクターも忘れないでね 杉元からのラインを見て、慌ててプロテクタージャケットを引っ張り出した。近年の猛暑や大寒波に加え、忙しさでしばらく長距離ツーリングをしていなかったこともありクローゼットの奥に追いやってしまっていた。杉元はツーリングでもタンデムの時も、必ずこちらの装備を確認してくる。彼の許容範囲の装備をしないと結構な迫力で凄まれる上にその予定は延期になる。杉元は学生の頃に普通二輪の免許を取ったあと、不幸な事故に巻き込まれて大怪我をした。けれど奇跡のような驚異的なスピードで回復し、その数年後には大型二輪の免許までとりに行くくらいのバイク好きになった。事故で顔面と身体に傷は残ったけれど、当時身に付けていたプロテクターが守ってくれたのだという。正直煩わしさはあったが、そんな杉元に感化されて一式とはいかないまでもバイク用の防具を揃えた過去が懐かしい。 真っ当な社会人とは異なる生活リズムで生きている私は夜通し起きていることもザラである。杉元も夜勤のある仕事をしているので、真夜中に連絡が来ることも珍しくなかった。けれど最近はあまり連絡を取ることもなく、恐らく2年ぐらい過ぎたように思う。だからパソコンを目の前にうんうん唸っていた真夜中に、久しぶりに杉元から連絡が来たのは幸いだった。起きていたらタンデムで朝日を見に海まで行こうという、青春ドラマや学生の夏休みみたいな内容のメッセージに秒で返信するとすぐさま準備に取り掛かる。フルメイクをして会うような仲ではないので、最低限の身だしなみだけ整えて、バイクの装備を引っ張り出して。それらを装着したらソファーで埃をかぶっていたヘルメットを拭き上げる。しばらくするとスマホが鳴り、マンション近くの通りに着いたとのメッセージが表示された。マンションに直接来ないのは流石だ。時刻は朝の4時前。薄暗い夜明け前の明かりも夜空に滲む前の時間。街灯に群がる夜蛾を尻目にエントランスを出る。真っ当な人間たちを起こさないよう、生活圏から少し離れたところにバイクを停める杉元の気遣いがすきだった。 「おはよう、久しぶり」 「おう。ちゃんと準備して来た?」 「ばっちり。でもジャケット着るの久々すぎてちょっと探した」 「最近バイク乗ってないんだ?」 「ちょっと忙しくて。気分転換で乗ればいいんだけど、なかなかね」 「じゃあ今日はいい気分転換になるよ。はい、乗って」 タンデムステップを下ろしてシートに跨る。少しだけ揺れる車体に久しぶりにバイクに乗っている高揚感でワクワクする。自然と杉元のヘルメットが目について、新しいヘルメットだ、と思いつつ2年も会ってなければヘルメットぐらい新調するかと思い直したり。腰に腕をのばすと、懐かしいフィット感に安心を覚える。 「しっかり掴まっててね」 エンジンがかかった後の大きな始動音とそれに続く小気味の良いパルス感とアクセルの音。バイクが動いたと思えば、すぐに走り出しのエンジンとシフトチェンジの音が過ぎていく。そのスピードに乗って風が全身を通り過ぎるのを感じながら、移り変わる薄暗い景色を眺める。杉元の背中越しに感じる風が強くなり、バイクの振動と合わさり心地良い。しばらく走ったあとの信号待ちで大丈夫かと聞かれたので「いい感じ」と返せば杉元は笑った。 健全な大人の友人同士でここまでの身体的な近さを経験することなんて他にあるのだろうかと、明けていく薄い空を見ながら思う。夫婦や恋人なんかを除けば、日常生活の中で誰かとこんなに密着することなんかほぼない。明らかな友人ではあるけれど、そういう意味では杉元はやっぱり特別だと思う。 その昔、初めて杉元とタンデムをした頃なんかはまだ男の人として意識したりして、今とは違うドキドキ感があったように思うけど、今はもう穏やかな気持ちでとてもリラックスしている自分がいる。凪のような心地で風を切る感覚が気持ち良い。 「やっぱり夏は日の出が早いね。朝焼け終わっちゃったね」 「6時前なのにこの暑さとか信じられない。日傘持ってくるんだった」 海に着く頃にはもうそれなりに日差しが強く、今日も猛暑であることを否応なく突きつけてくる。張り付く髪の気持ち悪さから逃れるようにヘルメットを脱ぐと、開放された皮膚に潮の香りの海風。近くの自販機で買ったコーラを飲みながら並んで海を眺めた。ちらほらとサーフィンの準備をする人が浜辺を歩いている。 「コーラってこんなに美味しかったっけ」 「もしかしてコーラも久々?」 「最近全然飲まなくなった。家にいる時間が長いからビール飲んじゃう」 「まじか。贅沢だな」 「フリーランスって大変なのよ。酒がないとダメ」 「勤め人だって大変だよ」 「そりゃそうだ」 「俺さ、今度北海道に行くことにした」 コーラを一口飲んでから杉元は続けた。首筋に汗が光っている。 「知り合いに北海道で頑張ってる人がいてさ。一緒に農業やらないかって誘われて。結構考えて、俺も行くことにした」 「……びっくりした。そうなんだ」 「うん。2週間後には北海道の人だよ」 「納得。急に連絡きたからどうしたのかと思ったよ」 「一緒に教習所通ったからさ。北海道行く前に美雨とタンデムしたくて」 「教習所って何年前の話だよ」 「え?そんなに昔じゃないよ」 「だいぶ昔だよ」 バイク乗りに憧れて入校した教習所で杉元と出会った。同い年の私たちは違う大学だったけれど、同じ日にカリキュラムをスタートして親しくなり、卒業も同日だった。教習期間に中古バイクを一緒に見に行って、初めてのツーリングも一緒に行った。行き先はこことは違う海だった。 「今度は北海道でツーリングしようよ。落ち着いたら連絡する」 「あ〜…それは、絶対楽しいやつだ」 「楽しいよ、北海道だもん。多分東京ほど暑くないし、道路も広いはず」 日差しに照らされた杉元が笑う。出会った時には無かった傷が綻んだ表情に合わせて動き、不思議なくらいよく馴染んでいる。私は今の杉元の笑顔の方がすきなのだと思う。だだの端正なイケメンだった頃よりも、この大きな傷さえも魅力にしてしまうこの友人の笑顔が。 コーラの最後の一口を飲み干す。缶の水滴が落ちてコンクリートに小さなシミを作った。これも暑さですぐに消えるのだろう。缶を置いて背のびをする。日頃の運動不足と久しぶりのバイクで身体が鈍っているのを痛感した。 「私も大型免許取ろうかな」 「いいじゃん。バイクは排気量じゃないけど、制限なく乗れるのは楽しいよ」 「ふふっ、大型取ったら新しいバイク欲しくなっちゃうだろうな」 「そしたら一緒に見に行こうよ、前みたいにさ」 一瞬だけ、全身が大きな鼓動を刻んで揺れたように感じた。動揺を気取られたくなくて、なるべく視線をゆっくり逸らす。自然な動作に見えるように努めたけれど、多分ダメだった。でもそのまま杉元の顔を見ていたら泣いてしまいそうで、そんな姿は見られたくなかった。 「俺付き合うし。美雨が行きたい時は呼んでよ」 今語られるその未来では私たちは何歳なのか、どこに住んでいるのか、何をしているのか。そんなこと全く分からないのに。けれど杉元は躊躇う素振りなど一切せずにその未来を言い切ってくる。東京しか知らない私には、北海道というその地名だけで尻込みしているというのに。それを意図も容易く、さも当然のように飛び越えて私のそばにいてくれる。 「分かった。絶対呼ぶね」 だから私は気づいたのだ。私にとって杉元が特別なように、杉元にとって私も特別なのだということを。私たちは随分としあわせな関係性だったのだ。親子でも恋人でも家族でもない、友人という対等な関係でお互いを特別だと思えるだなんて。こんなに嬉しいことがあるだろうか。 なのに、それを今になって気付くなんて。今更すぎるだろうと、感激を通り越してなんだか急に恥ずかしくなる。 「ね、なんかお腹すかない?どこかのモーニング食べに行こうよ」 「あ!俺マックがいいな。久々にマフィン食べたい」 「マフィンじゃ足りないでしょ」 「2個頼むもん。なんか俄然マックの気分になってきた。行くから準備して」 日差しの中で汗をかきながらジャケットを羽織る杉元の背中が清々しい。髪をかきあげてヘルメットを被るその姿が随分とサマになっている。いつからか前髪を上げるようになった杉元にはそのヘアスタイルがとても良く似合っている。 eternal summer 20260522 |