――始まらない春を願っている。
 元来、領民の大半が農民であるこの奥州の地で、春が来ることを願わない者がいるのだとしたら。ましてそれを願うのがその地を治める君主だと言ったら、果たして真に受ける者がいるのだろうか。

「Hey,美雨。主役が抜け出してんじゃねぇよ」

 宴の広間から程よく離れた縁側に裏庭を臨むように腰を下ろした彼女がゆっくりと振り向く。妙齢の可憐さと身分を伺わせる気品溢れる佇まいとは対象に、その表情はさながら悪戯が見つかった幼子のようにやわらかく口元を綻ばせる。物心の付く前から見知った関係であるのにこんな表情をして見せるとは、女とは本当に底知れない生き物だ。

「頂戴したお言葉そのままにお返しいたします。上座が空では宴の興も醒めましょう」
「なら俺はどっかの姫さんとは違って流石にもう暫く大人しく座ってるぜ?けどな、残念ながら野郎ばかりの座敷はとっくにへべれけの群れだ」

 俺が隣に腰を下ろすのを見届けるとその視線は再び裏庭の方へ戻される。夜風がほろ酔いの頬に心地よい。その風にのって金木犀の豊満に漂う甘やかな香りが秋の盛りを告げている。
 ――秋が終われば冬が、冬が終われば、俺の望まない春がやって来る。

「花が宵ですわね」

 朧な月明かりに照らされたその横顔は昼に見るものとはまた異なるように見えて、少しくらりとする。その艶やかな髪も紅をのせた唇も。気を抜けば永遠に魅入ってしまいそうで、名残惜しく思いながらも俺は庭先の花を見つめた。

「春でもねぇのに花が宵ったぁ随分酔狂だな」
「そういえば、幼き頃は金木犀の香りがあまりに良いのだとほざいて、成実と三人で花を食べようとしたこともありましたね」
「口に入れる既の所でに小十郎に見つかってこっぴどく叱られたな」
「毎年この芳香がするといつも思い出しますのよ。大切な思い出ですもの」

 そして軽く息をついたかと思うと、数拍の間の末に彼女は続けた。

「上田の城にも、あるといいのですが」

 その横顔に躊躇いの色は見られなかった。
 美雨は成実の姉。謂わば伊達一族の貴重な政治の道具として育てられてきた。しかし幼い頃はそんな事はつゆ知らず、伊達家の当主となり世間の仕組みを知り始めた頃になって美雨もだけは俺の傍に置いておけるのもと、何の根拠はなくとも 、当然俺が娶るものだと思っていた。
 だからまさか、美雨が真田に嫁ぐと聞いたときは俄かに意味を理解することが出来なかった。しかし時は戦国の世。美雨の言葉に伊達の一族は二つ返事で快諾した。天下統一のための手段、ひいては伊達の繁栄のために、甲斐の虎、また上田の真田との契りに首を振る者などいる訳がないのだ。ただ当主の俺を除いては。

「…あるだろ。金木犀くらい」
「そうですわね…、金木犀くらい、」

 一国の主として国の益を獲るか、はたまた己の願望に感けるか。それを奥州筆頭に問うというなら、それはただの愚問に終わる。
 俺より二つ上の美雨は、俺がこの世に誕生した時にはすでに当たり前に存在していて、傍に美雨のいない世を俺は知らない。いつも傍で遊び、学び、支えてくれ、時には叱ってくれた何物にも代えられない存在が、これから迎える冬が終われば手の届かない場所に行ってしまう。
 ――俺の傍から居なくなってしまうなんて。

「ね…」
「Ah?」
「政宗」

 この声に肩書ではなく、名前で呼ばれるのは一体いつ振りだろう。そう思う次の間には布の僅かに擦れる音と共に美雨がこちら見つめていた。

「私は、次の春が来たら、もう真田の人間です。何があろうと、この命が尽きる時も真田として最期を迎えます」
「……」
「しかし、真田の姓を背負うのは、全ては伊達の為。女に生まれた私はあなたの傍で刀を振るう事が出来ない。だから私は自身の役目を遂げましょう。だから、あなたも」

 月夜の明かりを受けた瞳が、瞬きの隙間に一瞬だけ揺れたような気がした。

「その名に恥じぬよう、一国の主として遂げなさい」

 その時既にその瞳には、先ほどの揺らぎは消えていた。

「Ha…」

 口からは意図せず吐息と諦めの嘲笑に似た声が小さく漏れた。そう言われてしまえば、自分はまるで仕方のないことに意地を張る幼子そのもののようだ。全く、奥州筆頭が聞いて呆れる。ここまできて彼女への拘泥を捨てきれない自分は、なんと往生際の悪いことか。

「言われるまでもねぇ、よ」

 口先でそう見栄を張るのが、精一杯だった。
 奥州の冬は長く深い。身を切るような颪に吹かれて、何もかもまっさらな雪に埋もれてしまう。大雪に埋もれては、何も見えない。それなら、この冬の間ばかりは、一国の主としてあるまじき想いを抱いたままでも、見えないようにしてくれるだろうか。誰からも、何もかもの全てから。

 ――願わくは、この奥州の地に永遠に続く永い冬を。

 これから長く深い冬を迎える奥州の埋もれるような静寂の中で、ただひとり俺だけが、終わらない冬を待っている。



花が宵




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企画「夜会」さま提出

20141224