水がすきか、と問われれば、出来ることなら大きな声でだいすきだと答えたい。しかしそれが出来ないのには理由がある。私の中で水といえば一番に思い浮かぶのが水泳だった。けれどその思いに反して私には残念ながらそれに伴う経験が少ないのだ。
 子どもの頃から水がすきで庭のホースでびしょ濡れになり怒られた回数はいざ知らず。小学校に入り水泳の授業で水中の世界の楽しさと美しさを知った感動は忘れられない。水泳教室に通っていた何人かのクラスメイトを追い越して学年で一番最初に100メートルを泳げたことはなんの取り柄もない私のささやかな過去の栄光だ。そんな訳で泳ぐことがだいすきだった私は黙々と泳ぎ続け、小学校の地区大会に出れば幸運にも新記録を出すこともあるくらいだった。そんな私に先生は本格的な水泳を勧めてくれたのだが、共働きの両親は遠くの町にある水泳教室まで私を通わせる事は難しく、加えて私にはそれを押し切る強さもわがままを言う度胸もなかったため、中学で水泳部に入ることを心に決めて、結局、水泳教室に通うことは無かった。
 しかし不幸な事に進学した中学校の水泳部は人数不足で丁度去年に廃部になったばかりで、しかし部活動は強制的に全員参加であったため、気付けば私は友だちに誘われるがままテニス部に入っていた。もともと運動はすきだったので、テニスは楽しかった。ボールを追いかけてラケットを振る日々は楽な事ばかりではなかったけれど、充実していた。けれど、時折その腕に時折水中で水と掻き分ける感覚が戻ってきて、ぐすぐすと水泳への思いを燻らせたままで中学生活は遂に終わった。
 そんな僅かな思い出と浅い経験だけでは恥ずかしくて、水泳部なわけでもなく経験も足りない私には、水がすきだなんてとても口に出して言える訳がなかった。







 ――岩鳶高校に水泳部が出来るんだって。

 友人たちのおしゃべりの中で偶然出てきたのがその話題だった。水泳への思いを諦めきれないくせに、3年と言うブランクを考えるとどうしてもネガティブになってしまい、新しいことへの一歩が踏み出せないでいた私は、流れで結局水泳部のない岩鳶に進学した。テニスは中学でやりきった感覚があったのでテニス部にも入らなかった。学校では水泳の授業もないので毎日近くの海を眺めては、もう私が泳ぐことは無いのだろうかとぼんやり思いながら高校生活を送っていた頃にはもう高校生活2年目の夏が始まろうとしていた。
 そんなわけで友人の何気ない話題は私の気持ちを浮足立たせるには充分だった。聞けば枯れていたプールの修繕から始めた水泳部は、今では正式な部活となり、プール開きと共に本格的に活動するらしいとのことだった。折角水泳の授業が無かったのにこれじゃあ体育で泳がなくちゃかもねー嫌だねーという会話も余所に、直ぐそこに青い水面のプールがあるのかと思うと居ても立っても居られなくなった私は友人同士のおしゃべりもそこそこに、高校入学から一歩も踏み入れたことのないプールへと向かっていた。

「きれい…!」

 駄目元で引いた扉の鍵が掛かっていないことをいいことに、私はプールサイドからたっぷりの水がたゆたう水面に何とも言えない高揚感に満たされていた。独特の塩素の匂いが鼻を掠め、水色と形容するのにこれ以上ふさわしいものが無いくらい透明で澄んだ水面には太陽の光が反射してキラキラと輝いている。

(足くらいなら浸けてもいいかな…)

 水がすきだと公言出来なくても元来、水がすきな私にとって数年ぶりのキラキラしたプールを目の前に、しかも人影がないとすれば入水しないという選択肢はとうに無かった。

「うわぁ〜冷たっ。でも気持ちいい〜」

 ローファーとソックスを脱いで浸した足先から何層かの水の綾が水面に浮かぶ。ひんやりとした感覚と同時に脹脛を纏う水の感触があって今、自分が水に触れているのだと実感できる。その感動はまるで初めてプールに入った小学生の時のようだ。この数年間で、水に触れる本当の楽しさと喜びを私は忘れていたのかも知れなかった。

「水ってこんなに気持ちいいんだっけ…」
「水は生きているからな」
「えっ」
「お前入部希望者か?」
「え、あっ、ぎゃっ…!!」
「おい…!」

 恥ずかしすぎる独り語に返事が返ってきた事、誰もいないはずなのに誰かの声がする事、後ろからの聞き覚えのない声が聞こえた事、その他諸々に驚いて反射的に振り向こうとしたのがいけなかった。つぎの瞬間、腰掛けていたプールサイドからバランスを崩した私は制服のままプールの中にダイブしてしまったのだ。

(冷たい、けど。…青いなぁ…。本当にきれい…)

 プールとはいえ、心の準備も無いまま突発的に水中に放り出されたのだ。普通なら早く脱出しようともがき、下手をしたら溺れてもおかしくない状況である。しかし今の私がいるのは数年間ずっと焦がれていた念願の水の中である。自分の髪がゆらゆらと水に揺れているのが分かる。早く水面に上がる事や制服がびしょ濡れになる事よりも先に、全身を包む水の感覚の心地よさとゴーグル無しで見える水中での光の反射が美しくて、知らない腕に抱きかかられるまで水面に出ることを忘れていた。

「おい、大丈夫か?」
「あ、大丈夫です。シャツの下にキャミソール着てるんで透けはしないかと…」
「……。そういうことじゃない」

 さっきの独り言に返事をしてくれたのはこの人なんだろう。私を引き上げてくれた黒髪の男の子は怒っているようには見えないものの、無表情のままだ。水着を着ているのできっと水泳部なのだろう、水面から見える上半身はしっかりと筋肉が付いていて彼がアスリートであることを伺わせた。

「あ、すみません…。助けてくれてありがとうございます」
「いや。お前、いきなり水中に放り出されたくせに溺れてないみたいだったから。全然暴れないし…。水も飲んでないだろ」
「あぁ…、水の中がきれいだったので…。つい、見とれちゃいましたー…アハハ…」

 水に見とれるだなんてポエムのような言葉、思っていても普段の私なら絶対口には出さないのに、何故かこの時はするりと口からついて出たから不思議だった。しかし言った後から恥ずかしくなって大して効力もないのに笑って誤魔化してみると、その瞬間彼の青い目がきらりと揺れたように見えた。

「水がすきなのか?」
「はい、水はすきなんです。昔から」

 その言葉に、ハッとした。長年ずうっと肯定出来ずに胸の中に閉まっていた言葉、「水がすき」。すきなだと言う割には実力も経験も足りない私がそんな事を言っていい訳がない。そう思ってずっと言葉にするのを憚ってきたのに、どうして今、こんなにも簡単に口をついて出てきたのだろうか。

「お前入部希望者?」
「あ、いえっ、あの…入部希望者じゃないんです…。すみません」
「でもすきなんだろ、水」

 俯きながら話す私にずい、っと私との距離を縮めるように彼が私の顔を覗き込む。水底のように深く澄んだ青い瞳。

「水はすきです。泳ぐことも、もちろんすきです。すごく…」
「……」
「…でも泳いでいたのは小学生の時だけで、それから随分泳いでないんです。水泳はすきだけど、部活で競泳が出来るかと言われたら自信がなくて…」
「そんなの関係ない」

 歯切れの悪い私の言葉を遮るようなはっきりとした声だった。そしてゆっくりとゴーグルを着けると彼は私に言った。

「泳ぐことがすきなら泳げばいい。俺は泳ぎたいから泳いでる。それ以外に理由は無い」

 そう言って水中に潜ったかと思うと、彼は泳ぎ出した。彼が水を掻くたびに水面は揺れて白い泡が彼の後を追っては消えていく。その泳ぎは滑らかで美しく、まるで水と同化しているように見える。水の抵抗を感じさせない滑らかで優雅なその姿は、まるで水圧のある水中でも自由に見えた。

(フリーっていうんだっけ…)

 いつかの世界水泳のアナウンスで彼のあの泳ぎは小学校で習った自由形やクロールではなく、フリーと呼ばれていた事を思い出す。もしあんな風に泳げたら。もしこれまでの数年間に燻っていた気持ちに蹴りをつける踏み出す一歩があったなら、私もあんな風に泳ぐことが出来るのだろうか。
 でももし今この機会を逃したら。きっと私はこの燻った気持ちを抱えたまま、もう一生泳げないのかもしれない。
 そう思ったら、もう迷いは無かった。

「あの!」
「?」

 気づけば、丁度スタート台の下で水気を飛ばしている彼に向って大声で叫んでいた。その声に不思議そうな声をした彼がこちらを振り向く。水滴が太陽の光に反射してキラキラと光っている。

「私、泳ぎます!」
「……」
「水がすきだから、すきなだけ泳ぎます!」
「……」
「本当はずっと入りたかった水泳部に入って、今度こそすきなだけ泳ぎます!」

 まるで選手宣誓のような大声で勢いのままに告白をしたのに、不思議と恥ずかしさも後悔も無かった。残るのはこれまで燻っていた気持ちが一斉に弾けたような爽快感だけで、それが自分でも信じられなかった。
 とは言っても、普通の人から見ればさぞ滑稽で恥ずかしいものだったはずだ。なのに、向こうにいる彼が穏やかに笑ったように見えたのだから、勢いに感けた私はいよいよおかしくなってしまったのだろうか。

「いいんじゃないか?」

 でもその時、これまで無表情だった向こうにいる彼の口元がゆっくりと綻んだのがなんとなく分かったのだ。その表情はなんだかやさしい。

「泳ぎたいなら泳げばいい。ここで」

 それが私が初めて見た七瀬遙くんの笑顔だった。








20150727