鬼の墓標



 すっと歪みなく整った背筋に美しい紅の甲冑、陣羽織。陽を浴びて鋭く光る二槍。またこうしてこの姿を再び拝める日が来ようとは。感嘆のあまり小刻みに揺れる己の手にそっと胸へ添えた。

「どうした。見惚れでもしたか」
「ご無礼致しました。あまりにも凛々しくあられますので、つい」
「お前が見繕い仕立てたのだ。当然だろう」

 ふっ、と柔らかく口元を綻ばせる幸村様の姿を見てしみじみと思う。以前は、少なくとも九度山へ幽閉される前はこのように淑やかに笑う事など出来る方ではなかったのに。
 これより迎え撃つは大御所徳川家康。敵は約二十万に対し豊臣の戦力は約十万。これでは例え戦に疎い者であってもこの行く末は想像に難くないだろう。その戦に兵を率いるのが我が夫・幸村なのである。

「いい眺めだ。大坂城から眺めは時を経ても絶佳という言葉に尽きる」

 例えそれが戦さ前のきな臭い眺めであったとしてもな、と呟くその横顔。その昔、この城で見たそれは固い面持ちと些かの気後れ、そして浮き足立った雰囲気どうにも隠しきれずにいるような、そんな顔をしていたのだ。月日とはこうも人を変えてしまうのだから、どうしたって逆らえる筈がない。

「常盤。何も言わずに聞いてくれるか?」

 目前の私を真っ直ぐ捉えた茶色の眼球。若葉のような鮮やかさこそ薄れはしたが、その透度は年月を経ても変わらぬまま。そのに己の姿が映る。――夫は死に場所を探していた。
 九度山での日々は決して豊かと言えるものではなかったが、穏やかな暮らしは何ものにも代え難いものがあった。己の手で作物を手掛けること、子どもたちが健やかに育つこと、そして何より幸村様がこうして己の側にいるのだと思うと、どうしようない程の幸福に包まれるのだった。あの関ヶ原の戦から十四年あまり。槍の手入れこそすれ、幸村様がそれを構えることは一度もなかった。煌々とした炎を眼に宿らせ我武者羅に戦場を駆け、人を殺める事に迷いながら己の行く末を槍に託したあの未熟な姿は影もなく、畑仕事や看経に勤しむ姿を見てここを終の住処とするのもいいかもしれないと思い始めていた頃。
 しかし、ふとした時に幸村様は縁側に座り、呆然と何処かを見つめているのを見かける事が多くなった。暇を見つけては直向きに鍛錬に励んでいたその背は丸く歪んで覇気を失い、寿命の前に燻った炭のようである。そこに私や子どもたちに優しく微笑む面影は消え、その時ばかりはまるで亡霊のような気配を漂わせていた。

(この人はこのまま老いるのだろうか――)

 そう思った瞬間、堰を切ったように恐ろしさと虚しさが込み上げて来た。この九度山で戦さ場という戦さ場に注ぎ込んでいた熱の在り処を失い、空蝉のようになった夫。この姿をこれから私はずっと見て行くのか。

(この人は関ヶ原で死ぬべきだった)

 その時私はやっと諒解した。幸村様が己の側にいるということはその魂とも言える槍を辞すということ。それ即ち、この世に在りながら死しているも同じことだということ。
 その瞬間、紅の甲冑に身を包み槍を携えた幸村様が脳裏を過ぎった。何物よりも鮮烈で美しい紅は正に紅蓮の鬼。しかし今の夫の姿はどうだ。炎の潰えた眼に丸くなった背を眺めることがあんなにも辛い事だとは。目前に写る幸村様のこんな姿を見るには耐えられなかった。そしてそれは幸村様自身も同じだったのだろう。きっとこの十四年、己の躰を燻る炎に酷く歯痒い思いをしていたに違いない。

「なりませぬ」

 茶色の瞳がハッと見開かれるのを尻目に次の句が続く隙を与えず矢継ぎ早に続けた。

「私は真田幸村の妻にございますよ」

 これだけ連れ添った夫である。その力強い意思を宿した瞳を見れば言わんとしている事など手に取るように分かる。
 昔、それこそ幸村様と一緒になった頃、ただの小娘だった私はいつも戦に向かうこの背を見送る度にこれが最期となるやもしれぬと酷い不安に襲われていた。許されるならさめざめと泣きながらその袖を引きたいと何度思ったか分からない。しかし、到底それは叶わぬ事であったので、その紅を纏った背を見送る度、不穏な思いが湧いて出る胸をずっと両の手で握り偲んでいた。
 しかし、それも今日でやっと手のひらを休ませることが出来る。恐らく、永遠に。

「私の心配は無用にございます」
「常盤…」
「こうして大坂に戻り豊臣の為に戦うのです。あなた様はこの先の世で日ノ本一の兵と称えられるのです。私はその男の妻。この時代に生まれた女にこれ以上の誉がありましょうか」

 この人が死に場所にと選んだのは畳の上でも私の膝の上でもなく、戦さ場だった。元より紅蓮の鬼と呼ばれた男である。鬼の墓標が人の地に立つはずがあるまい。となればこの方はやはりあの関ヶ原で死ぬべきだったのだ。しかし最早それが叶わぬなら、せめて己の心が向かう地でその最期を飾るべきだろう。戦さ場でしか生きられぬ、鬼と謳われる男と夫婦となったのだ。ならば最期までその姿を見送るのが私の妻としての務めであり運命だろう。

「常盤……」

 これまで何千という数を葬ってきたその腕が私の体を抱き竦める。強くて優しい夫の腕に躊躇いはない。愛おしさで溢れている。

「忝い」
「なんのこれしき」
「済まぬ……済まなんだ常盤」
「ふふっ、いいんです。とうに腹は括りましてよ」
「俺は、戦さ場でしか生きられぬ」
「承知しております。しかし、私に悔いなど御座いませんよ。この人生には一片たりとも」

 抱き締めた背中は広く、そして熱かった。戦国の武将を名乗るに不足はないだろう。亡霊の気配は微塵も無い。
 ただ、その背は少しだけ骨の突起が目立つような気がした。十四年だ。私も歳を取るはずである。そしてこの方も。

「行って参る」

 この世で最も愛おしい腕がゆっくりと離れて行く。徐々に遠ざかる紅の背影。昔の私ならきっと形振り構わず大泣きをするに違いないと思ったが、生憎この歳にして夫の出陣に泣崩れる小娘を繕うには遅すぎる。最早腹は決まっている。私の夫は鬼であるのだから。

「ご武運を」

 さあ、遠からん者は音にも聞け!近からん者は目に物を見よ!この大坂に馳せる者共は肝に銘じるがいい。それは必ずや後の世にて極上の誉となる。凛々しく華々しい紅蓮の鬼と同じ時代を生きた事。いざ、この姿を確とその目に焼き付けよ。