「幸村様、寝ちゃったね。全然起きない」
「あーあ、よだれ出ちゃって……。旦那のパーカーで拭いちゃえ」
「そこはティッシュで甲斐甲斐しく拭いてあげてこその猿飛では…!?」
「あのねぇ、もうそこまで面倒見ないよ。旦那だって1人暮らしである程度の掃除洗濯炊事はしてるはずなんだから。それにもう俺はこの人の世話係じゃあないんでね」

 僅かに肌寒さを感じる春の宵。ベランダから流れてくる優しい夜風を感じながら毛布に包まって眠る幸村様はとてもしあわせそうに見えた。
 猿飛の部屋の窓からはなかなか立派な桜の木が見えるので、折角なのでささやかながら花見でもという運びになった。先日成人を迎えたばかりの幸村様はまだペースが掴めないようで、一通り飲み食いするとこうして深く眠ってしまう。それも学業に部活にと充実した日々を生きている証かと思うと、こちらとしてはとても微笑ましい。

「さてさて、未熟な旦那は寝ちゃったことだし、あとは大人同士でちょっといい酒でも呑もうぜ」

 洗ったグラスに上品な色のそれを手際良く注ぐと芳醇な甘い香りがやんわりと漂ってくる。肌触りの良さそうなニットの袖から覗く猿飛の腕。職業柄、それなりに乾いた質感を感じるものの、そこに無数の古傷が無い事に未だ私は慣れないでいる。

「なーに見てんの?もしかして見惚れた?」

 その言葉とは裏腹に、茶化すと言うよりは子どもに話すようなやわらかさのあるニュアンス。幸村様には兎も角、他の奴らに対してこんな顔をすることなんて無かったのに。
 この時代の猿飛は私に対しても比較的裏のない穏やかでフラットな感情で接してくる。こういう時代なのだし、それが良いのだと分かってはいるのだが、それでもどこかこそばゆく感じてしまう。

「そういう戯言要らないから」
「ヒドー」

 苦笑いしながらもグラスを差し出す猿飛からそれを受け取り、小気味良い音を後にゆっくりとワインを流し込む。あ、これ美味しい。やっぱり香りもいいなぁ。さすが猿飛、美味しいものを知っている。すると、ゆっくりと回したグラスに視線を落としたまま猿飛が口を開く。

「さっきの、旦那のさ…」
「ねぇ、私もびっくりしちゃった」

――なんだかな、ふたりとこうして酒を飲むは初めてじゃない気するのだ。不思議だな

 3人での乾杯直後に幸村様が放った一言。あの方には前世の記憶は無いはずなのに、そんな事を言われるなんて思っても見なかった私たちは、お互い目に見えて分かるほど一瞬酷く動揺してしまったのだ。

「それほど楽しみだったんだねぇなんて誤魔化したけど、まさかあんな事言われるなんてねぇ」
「あの旦那だから前の記憶を隠しながらってのは無理だと思うけど、俺たちとつるむうちに少しずつ思い出しちゃってきてるのかもね」
「となると、いつまでこうしてられるんだろうだろうねぇ……」

 私と猿飛の気持ちは同じ形をしていて、出来れば幸村様には前世のことは思い出してほしくないと思っている。前世などに縛られず、この平和な時代で穏やかでしあわせに生きていてほしい――。
 その為には適宜距離を置き、自然に消えゆく霞のように気がついた時にはいなかった、というような距離感。それが絶対的に正しいのだ。それなのに今もこうして、ズルズルと友人関係を続けているのだからあまりにも愚かだ。
 幸村様の為に絶対に正しい判断を分かっていながら、結局自分たちの都合の良い方を選び、惰性で生きている。昔の私たちが見たら呆れて物も言えないに違いない。ただ、今も昔も変わらないのは、幸村様という光に私たちは今も昔も心の底から惹かれているということだ。出来れば、この人の行く末を見守って、あらゆる困難から守って差し上げたい。けれど、そんな想いはこの時代にはそぐわないのは百も承知で。
 そんな訳でとりあえず、幸村様が大学を卒業するまでは友人として接して行こうと決めている。

「まぁ、とりあえずずっとこのままは無いでしょ。意外と旦那が直ぐ身を固めちゃったりするかもよ?もしかしたら明日行ったコンビニのレジの子が運命のヒトとかで、さっさと学生結婚とかしちゃったりして」
「有り得ない話じゃ無いよねぇ。今はあの頃みたいな身分の差なんて殆ど無いんだし」
「そしたら俺たちももう少し良い距離で接していけそうなんだけどねえ…」
「そうなればアンタと付き合ってるっていう嘘も吐かずに済むしね。お陰であの合コン以来デートすらしてないのよ」
「お互い様だよ。同僚たちに付き合い悪いって言われて、最初に言い訳にしたのはお前だろ?」
「だって付き合っても無い男子大学生に会いに行ってる成人女って肩書きヤバすぎるでしょ。それならまだ猿飛と付き合ってるって思われた方が体裁的にはマシ」
「まぁ、あの合コン以来ならそれは割と自然だしねぇ」

 幸村様に出会ってからと言うもの、同僚たちからの付き合いが悪くなったと多大なるブーイングの嵐から逃れる為、私たちは体裁上そういうことにしている。事実、会いたいからと言って幸村様の家に押しかけるには畏れ多いので、猿飛の友人という肩書きで幸村様に会っているので外面用には程の良い隠れ蓑になっている。猿飛のようにご近所の人という枠であればとも思うこともあるが、これ以上詰め寄る距離感は望ましくない。これから先は今の幸村様のスペースに踏み込まないよう、「時々会う友人」枠からはみ出さないよう、弁えて過ごす。それが私に許されるギリギリの範囲だ。

「でもお陰で俺もしばらく彼女出来ないんだけどどうしてくれんのさ?」
「私のせいじゃ無いわよ。アンタだって幸村様優先に生きてることの結果でしょ」
「あーーー何も言い返せねぇーーー」

 テーブルに突っ伏し、だって旦那の部活がない日なんて限られてるしその日くらいは元気なのかちょっとは顔見たいじゃん、けど顔見るだけとかストーカー極まりないから飯に誘えば自然な感じで調子どうかとか話聞いたりできんじゃん、昔みたいに過保護にしてるつもりはないけど心配なんだよあの人やっぱり今も危なっかしいところあるし等々言い訳をダラダラと述べる猿飛。コイツもそれなりに酔っているみたいだが、正直私も共感しかないので苦笑いしてしまう。

「ねぇ、常盤、」

 いつの間に顔を上げたのか、猿飛と目が合った。柔和な顔で穏やかな色をした色素の薄い猿飛の瞳。昔はどんなカオをしても恐ろしく澄み切ったガラス玉のようだったそれは、どんな情も映さない空虚で精密な人形のようだった。
 それが今は少し濁っているようにも見えて、猿飛もまぁ、随分と人間らしくなったものだなぁと思った。

「それならいっそ、俺と結婚でもする?」

 無意識に四肢が強ばった。音声としての理解も言葉の意味も理解出来た。けれど、まさかそれが自分に向けられたモノだと甘受するのになかなか処理が追いつかない。
 けれど当の猿飛は悪戯を楽しむ子どものように軽やかな笑みを浮かべていて、それを隠す素振りもない。その顔を見た途端、これが腐れ縁ならではのおふざけなのだと冷静に判断するのに時間は要らなかった。猿飛はいつものように自分に食い気味に拒否する私とのやり取りを予想して、剰えそれを隠しもせずに楽しんでいる。

「してもいいわよ、アンタとの結婚」
「は……」

 昔から奴の手のひらで思うように転がされるのが大嫌いだった。けれど事実、猿飛は私よりも一枚上手で、それに抗えたことは殆ど無い。それならそのツケを今払ってもらうのもアリなんじゃないかと思い至る。

「幸村様の往生を見届けて、なーんにもすることが無くなって。退屈で死にそうなのに、死ぬに死ねないなんてことになったら、してもいいわよ。アンタとの結婚」

 してやったり。ぽかんと口を半開きにした猿飛はあまりに間抜けだ。自分で言い出したくせにそのリアクションはあまりに無防備だったので、またこの時代の猿飛の新しい顔を発見してしまった。あの猿飛に一泡吹かせることがこんなにも快感だったとは。

「なんて、嘘に決まってるでしょ。どんなことになろうとも、アンタとなんて死んでもごめんよ」
「…アハ…、だーよねぇ……」

 再びテーブルに突っ伏した後、頭だけを動かして幸村様の方に顔を向ける猿飛。それが照れ隠しであれば、少しは可愛げがあるというのに。この穏やかな時代にも関わらず、ニットの隙間から覗くその表情はそんなに生優しいものではない。愛おしそうな、かなしい声が私だけにははっきりと聞こえる。

「それだと今生でも旦那は俺たちより先にいっちゃうことになるもんねぇ…」

 アンタにそんな顔させれるのは今も昔もその視線の先の、その人だけ。今も悔しいほどに、私たちの気持ちは同じかたちをしている。



私たちの、
こんな愛でよければ
いくらでも





20220119


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