何となくだるいなぁと思いながらも、普段通りに仕事をこなしていればそのうち過ぎ去るものと思っていた。病は気からとはよく言ったもので、「自分は病気なのだ」と自認することでパフォーマンスが下がることを知っている。だからその逆も然りで、何事も普段通りにこなすことが肝要なのだ。

「マジか」

 ピーッと無機質な電子音と同時に表示された38.6℃の数字を見て思わず声が出た。正真正銘、風邪をひいてしまった。普段通り出勤して仕事をこなしていたつもりなのに同僚に早退を勧められ、帰宅後に何処に仕舞ったか見当もつかない体温計をどうにか探し出し、検温すればこの数字。

「あー…具合悪……」

 吐き気はないが倦怠感と寒気で身体が重く、頭はぼんやりする。なんなら頭痛もする。風邪なんて何年振りにひいただろう。かろうじて痛み止めを飲み、部屋着に着替える。ズルズルと体を引きずるようにしてベッドまで辿り着き布団を被る。

(布団冷てぇ……)

 本当は食事をして風邪薬を飲んだ方がよいのだろうが、風邪薬はないし食欲も無い。もう何もしたくない。



「あ、目が覚めた?大丈夫?」

 布が肌に張り付く不快感と僅かに残る頭痛で目を開けると常盤がこちらを覗き込んでいる。何で居るんだ、と思うのと同時に記憶がゆるやかに思い起こされる。そろそろ寒くなってきたし旦那と三人で鍋でもするか、なんて約束。確かそれは今日ではなかったか。

「あー…今日、鍋……ごめん」
「いいって。大体察した。スマホ繋がんないからどうしたかと思って。悪いけど勝手に上がらせてもらったよ」
「………鍵って…」
「………。今回だけだから許してよ」

 バツの悪そうに目を逸らす常盤を見て合点がいく。忍びの頃のスキルを現代で使うことはあまりないけれど(そもそもあの頃とはだいぶ身体の作りが違うのだけど)、まさかコイツに自分の家をピッキングをされるとは。

「熱あるんでしょ。水分摂った?」
「いや……」
「じゃあスポドリ届いたら飲みなさいね。それと鍋の〆用に買ってきてたお米あるから、お粥作っとく。悪いけどキッチン借りるからね」
「うん」
「寒気する?熱上がってしんどいならこれ貼っときな」

 そして冷却シートを手際良く額に貼り付けるとキッチンの方へ行ってしまった。リビングへ続くドアが少し開いていて薄暗くなった室内に細い明かりが入っている。程なくして米を研ぐ音が聞こえてくる。その規則的な音を聞きながら額の冷却シートの気持ち良さに身を任せ、再び意識が遠のいていく。



「だから、自分で出来るってば…」
「背中は無理だろう!俺に任せろ!」
「も〜旦那、俺様病人なんだから優しくしてよ…」

 あの後常盤から連絡をもらった旦那は指示通りスポーツドリンクやゼリー、風邪薬などを買い込んで見舞いに来てくれた。飯は常盤が、旦那は俺の清拭に担当を振り分けたらしい。適当な部屋着のまま布団に入っていた俺を見て寝巻きに着替えるついでに体を拭けということだと思うが、着替えぐらい自分で出来る。ただ自分のこととなると面倒くさいのが勝ってしまうのも事実で、それを見越した常盤が旦那を派遣してきたのだ。こうなれば俺に逃げ場がないことをアイツはよく知っている。

「優しく背中を拭いてやるぞ!」
「勘弁して……」

 その気遣いはとても有難いのだが、この弱った身体を旦那に任せたら乾布摩擦か垢擦りになってしまうのではという危惧が拭えない。恐らくだけど、この人は他人への手当とか介護とかそれ系のことなんかしたことないに決まってる。恐怖しかない。

「俺には常盤のように食事を作ることが出来ない。だからこれぐらいはさせてくれ」
「ハァ〜じゃあ、背中だけ頼むよ……。やさしくね……」

 根負けした俺の言葉に念の為にマスクを着け、ホットタオルを取り出す。すると思いの外、その手は丁寧に背中を拭いてくれている。

「力加減はどうだ?」
「あ、大丈夫…」
「ならばよかった!」

 今のこの人は現代に生きていて、何事も勢いと力任せにしていたあの頃と違うのだと痛感する。
 現代を生きるこの人を過去に縛り付けたくないと言いながら、結びつけようとしている。何かにつけて昔と比べてしまうのは悪い癖だと自覚していて、あの頃から抜け出せずにいる自分に嫌気が差してしまう。

「ありがとね、旦那」
「うむ!」

 時が経てば、こんな思いも自然と薄まってしまうのだろうか。現に生来面倒だと思っていた他人との関わりが旦那と常盤であると心地良く、心身共に馴染んでしまっているのを感じる。
 そうなれば、もう取り返しのつかないことになるのでは、と底の見えぬ澱んだ闇い井戸を覗くような気分になる。

「そろそろ食事もできるようだが食欲はあるか?」
「うん。軽いのなら食べれそう」
「常盤が粥を作っていた。栄養を摂ればそれだけ治りも早い。無理せず食せよ」
「ありがとう。ほんと」

 安心で安全な暮らしにあたたかな食事と気の置けない人付き合い。これほどのしあわせがあるだろうか。常盤の作った粥と薬を飲んで再度横になる。自宅では必ず自分で済ませている洗い物がベッドの中で聞こえる不思議。二人の話し声も僅かに聞こえる。ももともと三人で囲むはずだった鍋の具材を使って常盤が粥と野菜スープを作ってくれたので、距離を空けて二人にも食事をしてもらった。洗い物を任せる申し訳なさはあるが、満腹と薬の副作用からくる眠気にはそろそろ抗えない。けれど今眠ってしまえば次に目覚めた時にはこの家にひとりだと思うと、妙な気分になる。普段から好んでずっとひとりで過ごしてきたくせに、だ。

(さみしい、とか、嘘だろ)

 頭に浮かぶその四文字を肯定したくなかった。いくら弱っているとはいえ、自分はこんなに軟弱であるはずがない。これまで何度も言い聞かせてきた、今は戦国の世ではないのだから、の言葉を踏まえてもだ。自分には最も遠いと思っていた感情。俄には己が信じられず、布団を深く被るのとドアがノックされたのはほぼ同時だった。

「佐助、具合はどうだ?」
「あ…、うん、お陰様でだいぶ楽になったよ」
「洗い物も終わったし、大事ないならあたしたち帰るね。冷蔵庫に作り置きあるから。薬飲むのも忘れないでよ」
「しんどい時は連絡を寄越すのだそ。すぐに駆けつける」
「これ、即席で作った湯たんぽ。タオル巻いてるけど火傷には気を付けな」

 ベッドの隣から聞こえる控えめなふたつの声の所在を確かめる様に寝返りをうつ。布団から顔を半分出し受け取った湯たんぽは適度に温かく心地よい。しかしその労わりの言葉にいよいよひとりになってしまう実感が込み上げて、無意識に唇に力が入る。風邪をひいて心細くなるなんて、子どもじゃあるまいし。まさか自分の中にこんな感情があるとは思ってもみなかったのに。

(――これが、人恋しいというものなんだろうか)

 情けなく恥ずかしい。そんな気持ちに心が覆われておかしくなりそうだ。

「あたしは明日また午後に来るからね。もし熱が下がってなかったら引き摺ってでも病院連れてくから」
「俺も登校前に顔を出す。起きずとも良いが、辛ければ俺が病院まで連れて行くぞ」
「そんな、いいよ。寝てればいつかは治るし…」

 二人の気遣いが有難い反面、やはり申し訳なさや気恥ずかしさが勝る。そして往生際が悪いとは思いつつもやんわりと断りの言葉が吐いて出る。

「馬鹿を申せ。佐助が心配なのだ、気にかけるのは当然だろう」
「弱ってるのを放っておけるほど落ちぶれてないわよ。こういう時はお互い様」
「……」
「今、少し鬱陶しいって思ってるでしょ」

 まるで俺の心情は我が手の内にとでも言うように、自分の言うことに間違いがないと自信に満ちた顔で言い切る常盤。そりゃあ一人暮らしは自由で軽やかで性に合っているよ。世話をされていることを棚にあげるけれど、この二人の有難い気遣いも正直言って全く煩わしくないとは言い切れない。
 それでも、口をついて出る言葉は取り繕ったものではなく、偽りのない気持ちだった。

「いや…、ありがとう」

 蚊の鳴くような声とはまさにこのことだろう。感謝の言葉もしっかり言えないなんて、礼儀知らずもいいとこだ。それなのに、二人の口元がゆるく綻ぶのが見えてしまって、余計に顔が熱くなる。

「看病は少し鬱陶しいくらいが丁度いいのよ。アンタは免疫落ちてる分、あたしらを頼りな」
「遠慮するなよ佐助。ゆっくり休めよ」

 そして「また明日来るからね。おやすみ」と言って控えめな音を立ててドアは閉まった。小さく手を振った常盤と旦那の顔が鮮明に残る。ゆっくりと大きな吐息が口から漏れた。身体からゆるく力が抜ける。強い倦怠感に頭痛と眠気、頬の熱。コンディションはなかなか悪いはずなのに。何故か心は不思議と満たされている。

「あったけ…」

 全快したら今度の鍋は良い肉を使って少し特別なものを作ろうかなあ。そんなことも思いながら、また心地よい微睡へ沈んでいった。



すぐそばにある
あたたかな生活





20241204

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