「ユキ、配信終わったよ」
「終わった、?えごめん私寝ちゃって…」
「大丈夫。ちょうど終わったところだったしね。もう泊まってく?」
「いいんですか?」
「いいよ。もう遅いし。隣の部屋のやつどれ着てもいいから着替えておいで」
返事になっているのか、なっていないのかわからないような声を上げて寝ぼけ眼のユキは歩みを進める。どこかにぶつかってしまわないか心配だったけど、足取りは多分、しっかりとしていた。
…あの子、こんな感じで大丈夫かな。これから大学で飲み会とかあったらどうするんだろう。オレだっていつも迎えに行けるわけじゃないし。やっぱ車とか、いやなんでオレが迎えにいく想定なんだ。
彼氏でもないのに。
自分で考えておいて少し傷ついた。オレとユキとを繋げる言葉は同僚とか友人とかくらいでしかなくて、そこら辺の人間とそう変わらない。マナでもロウでもイッテツでも、映画を見るくらいできるだろうし、オレだけの特別なんかじゃない。ユキにとってオレの家に泊まることさえも特別じゃないとしたら。それは。
床の軋む音が響く。咄嗟に顔を上げて、ぴしりと固まった。頭の中に警鐘が鳴り響いている。震える唇で必死に言葉を紡いだ。声は、ダサいけど少し震えていたかもしれない。
「……それ、どうした?」
「ライの、置いてあったから勝手に借りた。ダメだった?」
「いやダメじゃないけど…その、さあ?」
何処から出してきたのか、いや最近着ていたかもしれない。少し皺の入ったワイシャツを身につける彼女に頭ががつんと殴られたような気分だった。そっと視線を逸らそうとしているのにらい、と甘い滑舌で名前を呼ぶユキの肩をそっと押す。
「…彼シャツとか、可愛いことしないで」
え、試されてるの?オレ。
ダボついた首周り、手が出ない袖口、太腿下に差し掛かる裾。何一つとっても彼女の華奢さを際立たせるようで。
ごくり、と唾を飲み込んだ。こんなことに意味なんてないのにふうと一度息を着く。大丈夫だよな、オレ。大丈夫であってくれ、伊波。お前ならできるはずだって。
「とりあえず、オレシャワー浴びてくるから好きにしてて?」
「ん、ありがとう」
冷たい水を浴びるほど冷静でないわけではなかったけど、シャワーを浴びると幾分か頭が冷えた気がする。邪な思いがあったわけじゃない。でも流れで取ってしまった自身の軽率な行動に少し後悔した。眠気に襲われた表情も、無防備な姿も全部初めて見るユキで頭がどうにかなりそうだ。
再会してから今まででオレはいくつ知らないユキを見たのだろう。オレの知る春宮ユキは不器用で、人見知りで、優しくて。決して、自身の深いところまで他人を踏み込ませない。
あの頃、特権はオレの手のひらだけにあった。誰にでも優しいユキの特別はオレだけで、その瞳に焼かれることが幸福だった。
それが今となってはどうだろう。ユキの特別はオレだけではなくて、それをオレは嬉しいと思わなくてはいけないのに。オレの知らない顔で笑うユキを、オレは受け入れることができるのだろうか。
シャワーを止めると、酷く静かだと思った。水飛沫の音がいやに響いて、自身の弱さを浮き彫りする。鏡に映った顔はあまりにユキに見せられるような顔じゃなかったから、もう一度シャワーを浴びた。全部流して、ユキの元に戻ろう。ユキの隣に立つべき伊波ライの顔をして。
「ユキ〜?シャワー浴び…る?」
姿が見えないユキを探すとソファに小さくうずくまる姿を見つけた。長い髪が床についてしまいそうで、慌てて掬ってやる。触れても少しも身動ぎしないようで少しほっとした。
よく寝てる、最近コラボでも寝坊したらしいし、本当に疲れてたんだろうな。オレとのコラボも無茶しなくてよかったのに。さらりとおでこの髪を払ってやる。穏やかな寝顔を見つめて、一息に立ち上がった。お皿でも洗ってしまおう。
「せん、ぱい…」
「ユキ、?」
柔らかな発音をして自身を呼ぶユキの指先が手のひらを捉えた。想像以上にしっかりと掴んだ指先を払いのけることなんてできるはずもなく、あっさりとソファへと戻されてしまう。小さくため息をついてユキの前へと座り込んだ。ユキは、こっちの気も知らないで穏やかに眠っている。
先輩か。懐かしい呼び名を口の中で転がした。いったい、誰がこんな未来を予想できただろう。オレの手を握り、オレの服を着て、オレの部屋で眠る愛おしい子の想像なんて。高校生の妄想じゃあるまいし。そもそもオレにはそんな夢を見る資格なんて持ち合わせてはいなかった。
巡り合わせと言うんだろうか。オレとユキが出会ってしまうのを運命といえば聞こえはいいけど、オレがユキを縛り付けているようでならない。オレの横で笑うユキはいつも寂しげで、傷ついたような顔をする。それでいて最大の幸福をオレだけに捧げるんだ。
矛盾してるって、そりゃオレだってわかってるよ。でもオレの隣に立つユキは何よりもかわいい。きれい。うつくしい。ああ、もう。こんな陳腐な言葉じゃなくて、マナみたいに上手く言語化する術がオレにもあればこの世の綺麗な言葉すべてを掻き集めてユキのことを形取るのに。
じゃあ、マナの見るユキは、マナの表現するユキはどんな形をしているんだろう。オレよりも綺麗に見えたりするのかな。
……あー駄目。この前マナにも釘を差されたばかりなのに。
『ライの大事な人、取ったりなんかせんよ』
うるさいなあ。わかってるって、そんなこと。そんな風に見えるくらい自分に余裕がないなんてことも。
大人のふりして手を離した。今よりもっと余裕のないあの頃に。
オレの指先を拒むユキの手を取るべきだったのか。いくつもの命を救っても、助けを求める声を聞いても、愛おしい子の手の取り方だけが今になってもわからない。あの選択が正しかったのか、今この状況のことを思うと間違いではなかったとまでは評価できるかもしれないけど、それは結果論だ。
もしも、もう一度ユキに出会うことがなかったら。
春宮ユキを失った人生で、燻ったまま、ただ熱を増す愛をオレは忘れることができただろうか。そんな確証がないことがきっとこの愛の重みを証明している。
誰よりも自由でいてほしいと願っているのに、オレはユキの心の柔いところに刺さって枷となっている。オレが傷つけたから、今でもユキはオレを忘れられないでいる。それが嬉しいといったらきっとユキはオレに失望するだろう。ユキは、オレを忘れて生きた方が幸せだったのかもしれない。オレを思い出にして、こんなこともあったよねって笑い話にして。
でも、そんなの許さない。オレのことを忘れないでほしい。オレだけを見てほしい。ユキの心の一番深いところに突き刺さっていたい。それでユキがオレのことを刻むなら。オレはどこまでも酷い男になれてしまうんだ。
ねえ、ユキ。
オレってユキが思ってるほど優しい男じゃないんだよ。それに気づかないで欲しいし、気づいて欲しいんだ。
「ねえ、ほんとに寝過ぎ。そんな風に無防備にしてたら好き勝手しちゃうぞ〜…」
ちいさな呼吸の音が聞こえる度に小さく薄い身体が上下する。色付いた頬に、温かみのあるあの瞳を思い出して、目を開いて欲しくなった。その瞳にオレのことを映して欲しくなった。緩くウェーブのかかった髪に指を通して、さらりと流す。僅かに震えるまつ毛がぼやけて見えた。
「…ばか、そんな勇気ないくせに」
唇は、寸前で止まった。