生温い風が頬を撫でる。未だクーラーのない空き教室では壁に張り付いた扇風機を強にするしか涼む方法はない。首を伝う汗の雫がどうにも不快だ。それでも窓を開ける気はなかった。ふたりだけの秘密を早朝の青に染められたグラウンドにすら聞かせたくなかったから。
アコースティックギターの音が決して広くは無い教室に響く。柔らかな声が先を行き、引きづられるように爪弾かれる拙いギターの音に黒の髪が嬉しげに揺れた。子守唄にも似た歌声は誰かに聞かせるわけでもない。隣の弦に僅かに触れる、雑音の含んだ音が伊波にとっては何よりも愛おしい音で、それに調和する春宮の鼻歌のような歌声だって宝物だった。
「だいぶ弾けるようになってきたね」
「ほんと?先輩の教え方が上手だからですよ」
きゅっと弦鳴らして音を止める。伊波の言葉に顔をあげた春宮は照れくさそうに頬を掻いた。それから誤魔化すみたいにアルペジオを奏でる。ゆっくり、ゆっくり。一弦一弦を。
覚束無い手元を支えるため、春宮は再び目線を下げた。伊波が、その伏せられた瞳を自身に向けて欲しいと願っているとも知らずに。そんな初心という言葉に似たもどかしさが、2人の間では確かに育っていた。どんな僅かな言葉でも必要だったあの頃に、言葉を介さない関係の美しさを求めてしまった。それはきっと未熟さ故に。
春宮の耳にかけられた髪が零れ落ちる。伊波はそっと手を伸ばしてやりたくなって、そんな欲をかき消して口を開いた。ただ一言、落ちたよ。とそういえば良かっただけなのに。あまりに春宮の横顔が綺麗だったから。視界を遮る肩上の髪の束にさえ気づかないほどにギターと向き合った春宮が、どこまでも輝いて見えたから。ころりと、言うか言うまいか悩み続けていた言葉が溢れ出してしまったのだと思う。
「ユキさ、オレとライブ出ない?」
「ライブ、?」
「文化祭の。バンドはオレ集めるし、なんならアコギ一本あればいいじゃん。二人だけでもさ」
「え、いやいや!無理ですよ」
「そう?オレはユキとなら何だってできる気がする。2人で思い出作りたくない?」
春宮のものよりもっと鮮やかなぱきりとした色の大きな瞳が春宮を見つめる。伊波は合わさった視線を操るようにきゅうとそれを細めてみせた。息を、飲む音がひとつ響く。それは何よりもの肯定のようで、そして隠せない動揺というひとつの否定でもあった。それでも一歩踏み出した足を引っ込めることはできず、春宮の揺れる瞳を伊波はただひたすらに見つめる。決して逸らしはしないように。
「オレは作りたい。もうあっという間に卒業だしユキと消えない思い出作りたいよ。 折角出会ったんだもん。だめ?」
「…私が、先輩のそういう顔弱いってわかって言ってますよね」
「バレた?それくらい本気ってことにしといて」
甘えた言葉で取り繕った酷く真剣な声色を、一転ころりと変える。それは所謂“いつもの伊波ライ”の姿であって、春宮はそれに翻弄された。どれが本当の先輩の姿であるのか。自身の取るべき行動は何なのか。衝突は好まない。伊波と仲違いする未来も見たくはない。
どれだけの本当と、どれだけの見栄張りがそこにはあったのだろうか。伊波は、揺れる春宮の肩にそっと手を添えた。
「考えといてよ。ダメならダメで…うん、ちょっと寂しいけどいいからさ。」
寂しい、と伊波が繕わず本音を口にしたのはこれっきりであったと思う。本音のようなフリをした格好つけを繰り返し続けていた二人にとって、何にも変え難い約束を、好いた人から差し伸べられた手を取ることを、選択を。春宮は迫られていた。
あの時、センパイはどうしてそんなことを提案してきたのだろう。二人でいればそれで良くて、二人で歌うことが好きだった。誰かの前じゃなくても、センパイさえいればよかったのに。
そんな判断を下したことを、春宮は今でも後悔している。あの時二つ返事で了承していたら違う未来があったのだろうか。それははたして今よりもっと輝かしい未来なんだろうか。答えの出ない問いを、自らに課しては目を回している。
ああでも。今なら、それを少しくらいは理解できる気がする。センパイと、あの歌を歌った日のこと。動画をアップロードする指の震えのこと。ライの苺ジャムの上澄みみたいな視線のこと。軽く吹けば飛んでゆく、世界の中のちっぽけな自身たちのことを、恥も外聞もなく、ただ刻み込んでおきたいという我儘を。