雨が、降っていた。
ぽつぽつとアスファルトを濡らすような雨粒は昨夜の間に窓を強く打ち付ける土砂降りに変わって、空模様を黒く染めた。こんな日は客足も遠のく。読みかけの本を開いてポットに火を入れた。お客さんさえ居なければ好きに過ごしていいのがこの仕事のよいところで、ほとんど来ない店長に代理のような形で譲られた店舗はいつしか私好みの空間に仕立てあげられ、開けるも閉めるも私に一任されていた。
今日はもうお店閉めようかなぁ。重い腰を上げ、看板をcloseに変える。今日一日早く閉めたところで支障はない。常連さんとも言える彼らもこの雨だ。きっと来ることは無いだろう。湿気で巻きの緩くなった髪を指に絡ませる。雨足が弱まるのを待つお供にと、紅茶の缶を開けた。
遠くからコン、とひとつ鳴った音を1度聞こえなかったフリをした。こんな雨の日に、わざわざcloseの店のドアを叩く人なんていない。激しい雨音に掻き消えてしまいそうなノックの音は一度、二度。三度と続いて、その違和感に、頭に浮かぶ散々唱えられた皆からの忠告の言葉を振り切り恐る恐るドアを開けた。からんころんと鳴ったベルの下に、現れた姿に目を見開く。手袋の先まで濡らしたライが、そこにはいた。
「ライ!?なんで……、そんなに濡れて、」
目元を隠す前髪から水滴を垂らすライと視線が合わない。目の前に広がった黒の旋毛に、慌てて手を引いた。その腕の重たさに、握った手へさらに力を込める。その冷たさに指先が強張った。
静かなライは、自身の濡れた体に一度ちいさく断りを入れたが、されるがままに店の中に歩みを進める。とん、と押せば飛んでいってしまいそうなほどに今のライは脆く見えた。引き摺るような足取りも、合わない視線も何もかもがいつものライではない。何かあったことは一目瞭然で、しかしここに訪れた意図はわからない。椅子に座らせ、自分にと淹れたばかりだった紅茶を差し出した。
「えっと…とりあえずジャケット、脱ぐ?裏に乾燥機あるよ」
「…ん、そうしようかな」
「じゃあ少し待ってて」
ゆっくりと重たそうに口を開いたライを横目に、バックヤードへと急ぐ。ぱたり、と閉じたドアに背を預けた。長く詰まった息が漏れる。わかってる。こんなことしてる場合じゃないって。早く乾かしてあげて、それで話を聞いて、どうしてって聞いて。
今までに一度も見たことのないライの弱いところに少なからずくらってしまっていて、心臓の速さに着いていけずにずきずきと痛む。扉の閉まる直前、隙間から目の合ったライは僅かばかり微笑んだ。無理矢理に作り上げられた表情はどこかで見たことがあるような気がしてしまった。そんなはずは無いはずなのに。酷く、胸が痛んだ。
大判のタオルと上着と。両手に抱えて再びドアを開けた。足音よりも心音が先を行き、ドアノブを捻る手は何よりも躊躇ったらしい。外の方を眺める姿に、足が止まった。
ライの烏羽色の髪から玉のように雨粒が垂れる。湿気で僅かばかりうねり、額に張り付いた前髪を邪魔そうに摘んだ。旋毛へと昇っていく掌が雑に前髪を掻き上げるのを、ただ黙って見つめていた。私に触れる手のひらと酷く違って見えるのは何故なのだろうか。私の前のライは、どこまでも優しい先輩であり友人で。それを体現したかのように、まるで壊れ物にでも触れるみたいな手のひらは、こんなにも男の人の手をしていただろうか。
ライの指先の、硬くなった皮膚が好きだった。五線に滑らせたシャーペンを握る手、しなやかにギターを爪弾く指先。決して私に伸ばされることのない指先を、ただただ追い求めていた。
扉の前で足を止めた私に気づいて、水滴を振り払うようにしながら振り向く。ライはもういつもの顔をしていた。ただでさえ大きな三日月の口をわざとらしくさらに弧を描かせて、足取り軽く進む。
「…あ、ユキごめん。こんな急に、しかもこんな格好で来ちゃって。ジャケット乾いたらすぐ帰るよ。タオルだけ借りていい?まいったな。雨に降られちゃって…」
「私じゃ、頼りない?」
くるくると回る口、こちらへと伸びる手がぴたりと止まった。横髪から零れ落ちた水滴が、肘を伝って指先に溜まる。その手を両の手で取って引いた。手のひらに溜まった水滴がお互いの手のひらに潰されて、体温で生ぬるくなっている。真っ白なタオルが溢れ落ちる音が聞こえた。
洗い立ての、勿体無いなと思うよりも前に、強張った指先を解いてやることを優先させた。酷く冷えた指先はよく見ると細かい傷を携えている。
ライは、小さく私の名前を呼んで何かを言いたげに唇を震わせる。しかしそれは声にはならず、ライの中でただ溜まっていくだけ。ライは深く、溜息をついた。もう片方の手のひらで前髪を握りしめるように顔を覆う。長く言葉にならない声を吐いて、口元に手のひらをずらした。つり上がった眉が姿を現す。隠しているつもりなのだろうけど、僅かに覗いた耳の先と目元からはその肌がほんのりと赤く染まっているのが見えてしまった。
「あー、もうほんとオレ……ダサすぎ」
次に声を上げたライは、無理やりに呆れたように笑っていた。背の丸まったライはいつもよりも近い距離にいる気がして、手を伸ばしたくなった。何よりも、彼が私にしたようにその顔を変えてあげたくて。
「ダサくなんかないよ。」
静寂にひとつ落とされた声にライの肩が僅かに揺れる。
「ねえ。ライがダサかった時なんて、一度もないんだよ。ライはいつだってかっこよくて、優しくて……」
私のセンパイで、私の同僚で、わたしの。
「わたしの、ヒーロー」
子供を慰めるように髪を撫ぜた。あの頃より少しばかり伸びた髪に手を差し込むことができる幸福を、今になって得られるとは思ってもみなかった。追いかけていたはずの指先は私の毛先で戯れ、感情をごまかすように私の肩口へ顔を埋める。そうするとその背中が決して大きくはないことに気づいた。周囲よりも小さな身体で、抱えきれる全てに手を伸ばす。そんな彼を好きになって、でも今ばかりはその肩の荷を下ろして欲しいと願っていた。
「出過ぎたこと、言ってるの分かります。でも、少しだけライの重荷私に乗せて欲しい」
繋いだままの手のひらに力が籠るのを感じた。痛みを感じる2、3歩手前。きつく結ばれた手のひらは、存在感をありありと示していて、まるでライが自身の存在を刻み込んでるみたいだ、と感じてしまった。言葉にはしない。ただ小さな背中を見せてくれる。それがライの返事だった。
あなたは華奢だから、こうやって少し大きなジャケットを着て自分を大きく見せてるのかな。なんて、馬鹿みたいな妄想だよね。それでも私の前では虚勢も格好も全部とっぱらってヒーローでも、ライバーでも先輩でもないただの伊波ライでいて欲しいよ。そう決めたから。だから私はあなたをライと呼ぶのに。
「ライ、ライ…伊波ライくん」
「……なに」
「ううん。呼びたかっただけ」
不満げな声のトーンに少しだけ笑いそうになる。格好を取っ払った好いた人というのはこんなにも愛おしいものなのか。暖かく静かな空間に、ライは恐る恐るというように口を開く。
「もう、先輩って呼ばないの?」
「…呼ばないよ。だってあなたがライって呼んでって言ったのに。それに、私とライはもうそんな関係じゃないでしょ?」
「じゃあ、どんな関係?」
顔を上げたライは真っ直ぐとこちらを見つめた。先輩と後輩。同僚。同期。それら全てを無くした私たちはいったい、何なんだろう。ライと再び巡り会ってしまった時に、似た問いを己に課していたような気がする。それの答えは、出たのだろうか。
「たいせつな、人」
「……どのくらい?」
「どのくらいだろう…あの頃よりもっとずっと大切かも」
「ひどい男だったもんね」
「酷い女の間違いでしょ?」
どちらからか小さく溢れた笑い声は少しずつ広がり、顔を見合わせ確かに笑い合う。まさかこんな話をこうやって話せる日が来るなんて、あの頃の私は想像できただろうか。自身のした過ちを、ひたすらに後悔して生きていた。諦めという形をとって、心の底ではずっと眠っていたのだ。ぼんやりとライの長い睫毛を見つめていた。途切れた会話に再び静寂が訪れる。
「なんで、一緒に歌ってくれたの」
それまでの緩やかさとは裏腹に、それはライからぽつりと独り言のように落とされた。
「ライブ?」
「うん。誘っといてなんだけど断られると思ってた」
「断らないよ、それに動画でも…」
「ライブだから。オレと、ライブで歌うことは許してくれないと思ってた。前のユキならそうしてたよ」
前の、私。それが何を指しているものなのか、すぐにわかった。あの夏の日の私たちのこと。頭の奥底の方からドラムのカウントが聞こえてくる。それは先日のライブのものだろうか、それとも過去のどうしようもない記憶から引き摺り出してきたものだろうか。生憎見当もつかない。
でも、そんなのライだってそうだった。私もライもお互いを見ているはずなのに、どこか遠くを見ている。今ばかりはこの場にふたりはいなくって、夏の日に置いてけぼりにした後悔を拾い集めようとしている。あの夏のふたりに、手を伸ばし続けている。
ライはビー玉みたいな瞳を伏せる。そして、遠く向こう側の私を見てはっきりと告げたのだ。
「あの日、ユキは来てくれなかったよね」
どうしようもない、事実だった。理由を並べようとして、それがただの自分を正当化するための言い訳に過ぎないことに気づいて口を閉じた。軽率な謝罪を口にするのは簡単で、それでもその手段を取ればあの夏の私は報われない。報われるべきでは、ないけれど。
「ご、め」
「ごめんは聞かないよ。オレがそれでもいいって言ったんだもんね。でも、うん…やっぱり少しだけ寂しかったな」
寂しいと、本音を口にしたライに同じ言葉を呟いたセンパイを思い出した。短い一時の、その刹那に顔を出した本音を。あの頃の記憶が、全て虚像であったとは言わないけど、一種の羨望に似たフィルターが幾重にもかかっていたに違いない。
あの頃、伊波ライは太陽だった。手の届くことのない、太陽。その眩しさに目を灼かれて、何者でもない私は勘違いをしていた。熱に浮かばされ、同列に並び、その上彼が自身と共にあってくれるとすら思っていた。
手が届かないからこそ、ただ純粋に好きでいられたのかもしれない。手が届くのかもしれないと思ってしまったら、欲しくて欲しくてしょうがなくなった。
そういった勘違いが記憶に泥を塗って、センパイの輝きを遮った。自身が変化を恐れるあまりに、センパイという像を捻じ曲げてしまっていたのかもしれない。変わりたくないという感情に甘えたまま、変わりゆくセンパイを受け入れようとすることで自身も都合の良い変化を味わった気分に浸っていた。
ただずっと見上げていたかった。隣に立つ重責を放って、無責任に。
「寂しかったん、ですか」
「うん。嫌われたかと思って」
「そんなわけないってセンパイが一番知ってるくせに。目、合いましたよね。もう覚えてない?」
「覚えてるよ。ユキのことならなんでも」
ずるいことばかりを言っていた。核心に迫らない会話に意味なんかはなくて、真っ直ぐと貫くようなライの瞳が痛くて。隠し続けていたものが溢れ出してしまった。
「私は、ただずっと…センパイを見上げていたかったんです。眩しかったから、隣には立てないと思ったから」
あの日、見上げたセンパイの隣は開いていた。太陽の光をその決して大きくはない身体で一身に受ける。伸びる影はひとつのみで、センパイの隣に立つ幸福を知っている者はいなかった。それに、震える拳を握りしめて酷く安堵してしまったのをよく覚えている。
─ああ、センパイの隣に代わりがいなくてよかった。
そんなことを思ってしまった自分が惨めで、ばちりと引き寄せられるように重なり合ったセンパイの瞳が忘れられなくて、どこにもない自分の居場所に駆け出してしまいたくなった。
「今は?」
「え?」
「今も、そう思ってる?」
固く結ばれたはずの指先を解いて、柔らかくわたしの心を撫でるように指先を弄ぶ。言うべきかどうか。迷って、それで。強がりも虚勢もそれが全てを壊したことを思い出して、ようやく数年越しの震える唇を開いた。
「いま、はそうじゃない。ライの、隣に立てるようになりたい」
その答えに、ライは柔らかく微笑んだ。
自分を守るためでしかなかった。センパイという存在を人生に刻み込むことが怖くて、いつかの別れを恐れて、お利口な振りをして背を向けた。初めから期待しない方が自分を守ることができると、知っていた。
賢くて優しいセンパイは、そんな私の全てを見通して、だから自分で終わりを告げたんだ。ばかまじめに、私の了承を聞く前に。
「ね。オレ、ヒーローになったよ」
肩が、揺れた。過去のセンパイと、ライとが重なって思わずその瞳を見てしまった。
「まだヒーローは苦手?」
なんで、そんなにも真っ直ぐな瞳をしているの。
騙してくれればよかった。騙して、刻みつけて、そのまま私が身勝手に立ち去るのを見ていればよかった。そうすればセンパイに悪いとこなんてひとつもなくて、昔仲の良かった後輩の子で終わらせられるはずで。少なくともこんなボロボロになるまで引きずり続けなくてもよかった。
私だけが傷つけば、それで。
***
「ジャケットありがとう。…ほんと、ごめんね。急に押しかけて、こんなとこ見せて」
「ううん。ライが頼ってくれるの、嬉しかった。また来て。用がなくたっていいから」
「そんなこと言われたら毎日来ちゃうけど?」
「はは、忙しいヒーローさんでしょ?」
「冗談。ありがと。帰ったら連絡する」
雨上がりに立ち去ったライの背中は、もう小さくなんかなかった。多くの命と正義を背負った大きな背中。やっぱりライはかっこいい。私が心配することなんて一つもなかったのかも。
でも。ライの冷えた手を取ったことを、私はきっと忘れることはできないんだろうな。風通しをよくしてしまった心にひとつ溜息をついた。一度下げた視線の先に水溜りが見えて、そこに青が映る。和装の裾を翻して、息つく暇もなくもう一人の来客はこちらを静かに見つめていた。
「…見てたんですか」
「アイツを追ってきたんだよ。フラフラとどこ行くんだか」
「相変わらず優しいですね」
「あ?」
「冗談ですよ。そんな怖い顔しないで」
雨の中、ひとり屋根の下に身を潜めていたのだろうか。その髪が濡れていないことを確認して、徐に皺の寄せた眉間になぜか酷く安堵した。わたしの緩んだ顔にロウくんは呆れたように溜息を着いた。
「もう、呪いは解けたのか?」
「……全然。でも目を逸らすのも手の一つって知ったかな」
「それで」
「よくはないよ。ごめんなさい。セリフ取っちゃいましたね」
噛み付くように声を上げるのに、言葉ひとつひとつが私を心配しているのだとわかる。この優しい人にまで私の浅慮はバレていて、その上で見守ってくれている事実に甘えていた。たった一歩。その一歩を踏み込まれて仕舞えば全て崩れてしまう。そんな境界をまだ、わたしは。
「私、変わりたくない。ずっとセンパイと仲の良い同僚の春宮ユキでいたいんです。あの頃に戻るくらいなら」
「それは『春宮』が俺達と会った頃?」
壁に体を預け、興味のない風を装いながら、芯に優しく触れていた。今となっては懐かしい響きを、あえてロウくんは選んだ。相変わらず、この人は酷く優しい人だ。
「ううん。もっと前。…もっと、もっとずっと前のこと」
やっぱり私は、どこまでもずるい人間だ。
「変わらないでいたいですね。ロウくん」
「…うん、そうだな。春ちゃん」