「ごめん、ユキ。遅くなっちゃった」
「ううん。全然。ここまで迷わなかった?」
「何回来たことあると思ってんの。今更迷わないって」
「よく来るのお店の方じゃん…」
「勝手に来ていいならいくらでも来るけど?」
それは、一言入れてほしいけど…と口籠ったユキは扉を開ける掌と、オレの頭にとふんわり乗った白い雪を見て慌ててちいさく手招きをした。暖かな空気が冷えた頬を包む。コートとマフラーを受け取ろうと手を差し伸べたユキに、なんだか夫婦みたいなだな。とのぼせたようなことを考えてぼんやりとその手に荷を預けた。いつもは肩甲骨あたりにまでゆるりと垂れる長い髪をクリップで一つにまとめて、少しラフな服に身を包む。所謂オフのユキはどうも見慣れない。
何回も、とは言ったもののオレたちがいくら仲が良かろうと一人暮らしの女の子の家に入り浸るほど常識のない男でもないし。何度見ても新鮮に衝撃を与えてくる。女の子の部屋、と言うものは。まぁ、ユキの部屋と言った方が正しいのかもしれない。ユキ以外の女の子の部屋に立ち入ることなどないのだからわからないけれど。
上着をかけ終えたらしい彼女に投げかける声に背を押され、リビングへと足を進める。変哲もない一人暮らし、1LDKの部屋にはユキの特別が詰め込まれている。
「なんか久しぶりだね」
「そうかなぁ。スタジオで私の誕生日祝ってくれて以来?」
「そうかも。じゃあ2週間ぶりくらいだ」
促されるまま食卓につく。しかしひとりキッチンに戻ったユキをただ見ているだけなのも性に合わず、早々に紙袋の正体を暴くことにした。
「誕生日プレゼントということで…じゃん!」
「これ、お酒?」
「そう。強くないけど、ちょっといいお酒。飲めるようになったでしょ?ユキのことだからまだ飲んでないかと思って」
飲んでてもいいけど、と続けようとしてその目の子供のような輝きに、言葉じゃなくて笑みを返した。それだけで持ってきた甲斐があるよ。
「当たり…!どうしてわかったの?」
「わかるよ。一人だと危ないしね。せっかくだと思って」
「やったぁ…ライが初めて貰ってくれるの?」
がたん、と肘がダイニングテーブルからずり落ちる。驚いたようにキッチンから駆け寄ろうとスリッパの踵を持ち上げたユキを声で止めて、擦った腕をさすった。
……勘、違いするような言葉を、そう軽々と吐かないでほしい。ただでさえ、男と二人きりだって言うのに。オレだからいいけど。と言外に含ませてしまうのはオレもただの男だと許してほしい。いや、一体何に言い訳をしているんだ。自分に言い聞かせるように喉をわざとらしく鳴らした。ふうと一つ息を吐いて、キッチンにいるユキの元へ向かう。
「何か手伝うことある?」
「ううん、大丈夫。よかったおつまみにできそうなものもあって」
今日の主役のくせしてパタパタとスリッパを鳴らし、エプロンを翻す。完成したものから食卓へと運び、木目は鮮やかさを増していく。最後にと大皿を運んでやったはずなのにユキはいまだに足を止めない。あいつらとの集まりでもずっとキッチンとこっちとを行ったり来たりしてたな、とかそれに気を使ったカゲツにそっちの方が性に合っていて…と答えて首を傾げられていな、とかを思い出して、やっぱりいつものようにオレが手を伸ばした。
「あ、あれもいる?ライの好きな…」
「いいから。おいで?主役が来なきゃ始まらないよ」
そうするとユキは照れたように食卓に着く。クッションを押し付けてやると、なぁにもう。と笑い声を上げた。今度はオレがユキのグラスと自身のに持ってきたお酒を注いでやる。フルーツフレーバーのスパークリングワインを見つめるユキは慣れないように瞬きを繰り返した。
「じゃあ…ユキの二十歳の誕生日に乾杯」
「ありがとう。ふふ、乾杯」
冷たい液体のキンとくる感覚が先行して、次にパチパチとした繊細な刺激が舌先で弾ける。できるだけ飲みやすいものを選んだつもりだけど、どうだろか。視線を左にとずらす。ユキは恐る恐る一口分だけ口に含んだらしい。あまり量は減っていない。細い喉がこくりと動いて、ぱっと表情が華やいだ。
「あ、美味しい……!」
「ほんと?よかった」
「桃なんだね。なんか、ジュースみたい」
「ジュースだと思っていっぱい飲んじゃうと思ったより酔い回っちゃうから気をつけてね」
うん、と小さく返事をしたユキは再びグラスに唇を寄せる。普段人の世話を焼きがちな彼女の無邪気な部分を見られるのは多くはなく、水を差し出す行為それだけでどこか優越感を抱いてしまう。どれだけ立場が変わっても自分の中でユキは可愛い後輩である認識が拭えず、彼女を導く存在でありたいと思ってしまっているらしい。甘えられている気分だったのかなぁ。何を教えてもするすると吸収するユキが可愛くて仕方なかった。今となってはオレが与えられるものは一方的なものばかりで、こんな感覚は久しぶりだった。浸ってしまっている。流れる日常の中の特別なワンシーンに。グラスの残りを全て煽った。きゅうと舌先が痺れるような気がしてしまう。
「結局、あの後マネージャーさんには怒られちゃった?」
「んん…なんか喜ばれた?たまには春宮さんの我儘聞きたいんですよって」
「言いそうだなあ。あの人」
「伊波さんの根回しがあったと聞いておりますが?」
「バレてんだよ」
軽い言葉が飛び交うリビングに心底安心した。今日、本当は扉を開けるのが少し怖かったと言ったらユキは笑うだろうか。ここ最近、ラインを跨ぐ行為を繰り返している。過去に触れることも、弱さを見せることも、トラウマに踏み込むことも。全てを君は許してくれるから、どこまでオレを受け入れてくれるだろうか、足を止めることができない。
オレたち、変われたかな。過去を全て捨て去るなんて無理だ。それでも舞い降りてきたチャンスを掴み取ったのなら、過去ばかり見てはいられないだろう。この先の道をオレたちは知らない。進退を決めるのはオレたちのとる行動一つ一つで、一体何が未来を決めるのか。ユキから向けられる熱量が全てだったあの時とはもう違う。
単に、日和ってるんだろうけどさ。好いた人間がこの手からすり抜ける恐怖は、もう味わいたくはない。今のオレなら君を幸せにすることは、できる?
「オレやっぱりユキのギターが好きだよ。」
グラスを傾ける手が、止まる。ひとつ、喉を鳴らす音。キッチンから響いた水滴の落ちる音。そろりと覗いた瞳が愛おしくて、いつまでもこのままで居たいと思ってしまう。過去の清算はきっと、もうすぐ終えられる。
「ちょっと音変わった?」
「へた、くそになってたかも、久しぶりだったから」
「そうじゃなくて、」
オレそっくりだったよね。ユキの歌い方も弾き方も。空白の数年間、ユキがオレの知らない道を歩んできたことが改めてわかった。音の粒一つ一つから。嬉しかった、そんでそれと同じくらい寂しかった。ユキの中からオレのピースが少しづつ減っていく。それを接着剤で無理やり繋ぎ止めたのはオレだ。これは、過去への執着なんだろうか。それとも、ユキを手離すことのできない言い訳?
もうずっと前から自分のこの感情が執着なのか恋心なのか判断がつかない。仮に今のユキが自身の恋したあの頃の春宮ユキと違っていても、それでも愛し通せる自信はあって。そんな生半可な想いではないこと、オレも空白の期間で知ったはずだ。
それを埋めようとする行為は、亡霊か?
「上手になってたってこと」
「ほんとぉ?よかった」
元より柔らかい笑い方をするひとだった。それがどうか今の彼女は甘えたように、子供のようにくふくふと笑う。彼女本来の性質はこうなのだろうか。これがアルコールによって引き出されたものであることが酷く惜しい。オレが君の本性を暴きたいという想いは、君を傷つけるんだろうね。
ほんの悪戯のつもりで長い髪をまとめたヘアクリップを外した。はらり、緩くウェーブのかかった髪が華奢な肩へと落ちる。ああ、これでようやくいつものユキになった。
この赤に寄った濃いピンクのヘアクリップを贈ったのはきっとセラフさんだろう。憎たらしいくらいユキの髪によく映える。それがどこか胸に蟠りを生み出して、力が籠ってしまう前にテーブルにとそっと置いた。かちゃり、と鳴った無機質な音がぼうぼうとしたエアコンの暖かな風と共に、空間へ異質に混ざる。
「らい、?」
ああ、もうそんな風に呼ばないでくれ。
この部屋に足を踏み入れた時から感じていたぼんやりした感覚は深みを増して、脳みその理性という部分に霞をかける。それはお酒という力を借りて、より一層力を増しているんだろう。
もうずっと、正常でなんかいられなかった。素面のままで、吐ける言葉も行動も全て出し尽くしていて、オレの手札はとっくに無くなっていた。過去の自分と、今の関係を望むオレが必死にブレーキをかけている。それを頼りにユキの前に立っていた。
もう随分と我慢していた気がする。彼女の想いに確信を持っていて、どうしてブレーキをかける必要が?降って湧いた疑問は膨らむのを辞めない。少しのきっかけで瓦解するものだった。そもそも。この理性は。
あの頃のあどけない笑顔を浮かべる彼女と比べると随分、大人っぽくなった。紅梅色の瞳が熱っぽく潤み、ぼんやりと虚空を泳いでいる。
……こっちを、見てくれないかな。その一心でユキの頬にそっと手を伸ばした。白い肌は赤みを帯びて、熱い。
自分が招いた結果なのにやってしまったなあと後悔した。身体が勝手にユキに近づいて、もう戻れないと気づいた。ごめん、ごめんね。オレを許さなくてもいいから、ただこんな酷い男を刻み込んでほしい。それであわよくば、オレ以外の男を見なくなればいいのに。
深く熱く、長く触れた唇同士をきっとオレは忘れることができない。