星を辿って
コーヒーが一滴一滴抽出されていく音をぼんやりと聞いていた。外は雨。その上珍しくこの店にいるのは自身だけ。いつもなら騒がしい店内は静寂に包まれていた。話すことがないと言うよりこの空間を楽しみたい気分で、時折聞こえる本のページを捲る音が心地よかった。店の主にふと目をやる。長くカールのかかった髪を珍しくひとつにまとめていた。
俺は、いつまで経ってもこの穏やかな日常を体現したような人のことを何もわからないでいる。
「ユキさんって、俺の事知ってるんですよね?」
「知ってるって?」
「昔の俺の事。小柳くんから聞きましたよ」
「ああ…そういうこと。はい、知ってますよ」
割と鎌かけのつもりで、簡単に答えてはくれないだろうなと思って聞いたものだから、すんなりと返された答えに拍子抜けする。明らかにそれは俺らの中でタブーとされている話のようなものだったし、小柳くんがいないからこそとった行動だったのだが、ユキさんは動揺するような気配は特にない。それがむしろ奇妙で、何かを隠しているようでならない。普段からあれこれ言われる俺としては、余程この人の方がわからない人だと思うんですけどね。隠し事の上手な方で。
溜息をつきながらも、しかしこれは貴重な機会なのではとこの状況下に興味が湧いてきた。この人の異質さに常日頃首を傾げていた身としてはこれは最大限のチャンスで、またそれを知っているユキさんからの最大限の譲歩のような気もした。これを逃す理由はない。簡単に過去に手を伸ばした。
「どんな人だったんですか?」
「そうだなぁ…今とそう変わらないよ。るべくんの本質は何一つ変わってない」
表情は変わらない。
「じゃあ、ユキさんは俺のことるべくんって呼んでた?」
肩が揺れた。その緩やかな笑みを少し崩して、俺の方を向く。その瞳に宇宙を見た。それは単に桃色の瞳に俺自身が映っていただけであって、ユキさんがどうこうというわけではないのだけれど、酷く懐かしい感じがした。歴史を、感じたのだろうか。いや、それとも記憶を。
そうだ今のユキさんは時折小柳くんが俺に向ける目をする。
「なんて答えて欲しい?」
そう言ったユキさんの声は降りしきる雨の中でも鮮明に聞こえた。穏やかな彼女の無邪気な声。悪戯げに緩んだ瞳は十分すぎるほどにその答えを表していた。だから俺も態と無知なフリをした。答えが知りたかったから、その好奇心を抑える術を知らなかったから。
春宮ユキという人間を暴きたかったから。
「ホントのこと。どうせそのうち忘れちゃいますよ。俺忘れっぽいから」
「ふふ、ほんと?変わってないね。晶くん」
その時、ユキさんは確かに俺を見ていた。宇宙の向こう側を、俺を通して『彼』を見ていた。過去に執着するでもない。かと言って過去を忘れたわけでもない。それなのにどうしてそんな顔ができるんだ。
その名があまりにしっくりこなかったから、本当に全て忘れてしまったことを再び身に刻まれて、今更ながらちょっとくらった。少しくらいぴったりきてもいいだろうに。
移り変わるものだからだろうか。だからユキさんの瞳は懐かしさを感じさせたのだろうか。
もう一度、あの視線を浴びてみたい。そうすれば何かわかる気がする。過去の自分を身勝手に想像して、ついた言葉を声に出した。それが解かも考えずに。
「ユキちゃん?」
「…うん晶くん」
もう一度、名を呼ばれた。ユキさんは、少し悲しげに笑った。咄嗟に声を、出そうとして。しかし、瞬きの合間にその笑みはよく見慣れたものに変わる。過去を生きる『春宮雪』という存在はもう『星導ショウ』には微笑んではくれないらしい。
小柳くんには微笑むくせに。俺にはくれないんですか。なんて、一方的で理不尽な、子供のような文句は言葉にならない。ただ少し拗ねてるだけですし、やっぱりこの人のこと何にもわかりませんし。視線をずらせば、くすりと笑う。ユキさんはいつもの名を呼んだ。
「るべくん」
「なんですか?」
「ね、ちゃんと全部忘れてね」
十分に溜まったコーヒーの黒がタイムリミットを告げる。ユキさんはカップを取りにとぱたぱた足音を鳴らして奥へと向かった。
長く、息をついた。なんだか酷く疲れたような気もする。視線も名も、彼女に与えられるものは正しさだったのだろう。ただ、軽率な自分が誤りを踏んだ。
あーあ。一本取られたなあ。ころころと飴玉を転がすみたいにとってついた名を回す。しっくりとなんかこなかった。
「"ユキちゃん"ではなかったかぁ」