「いつかの夢物語」より
春ちゃんとの出会いは確かに自身の人生におけるターニングポイントで、彼女がいたからこそという場面がいくつもあった、と思う。春ちゃんという存在に助けられ、癒され、少なからず縋ってしまってきた。春ちゃんが居なくなったらどうなるかな。案外何ともなかったりして。自分には確かに仲間がいて、春ちゃんが居なくなったからと言って孤独になるわけではないんだから。
でも、春ちゃんが隣にいない人生っていちごの乗っていないショートケーキみたいだ。
時折、春宮ユキという光に当てられて自身の影が色濃く映っているのではないかと思う。それが春ちゃんを汚してはいないかと、彼女の光を遮っていないかと。共に影になってしまうのは望むことじゃない。俺という存在が春ちゃんの妨げになるのは。それって。とっても、とても。
『セラさんの手は汚れてなんかないですよ。だって、セラさんの手、あったかい』
春宮の小さな手のひらがセラフの冷たい手に触れた。冬の寒さに悴んだ小さな手は酷く冷たいセラフの手のひらよりもっと冷たい。漠然と、この手をあたためてあげなくてはならないと思った。ゆるりと掴んだ春宮の手のひらは本当に小さくてセラフの手では手首までも覆ってしまう。体温を分けるようにした手の下でとくんとくんと脈打つ感覚がした。思わず、春宮の首元にそっと手をやる。
『ひゃ、冷たいじゃないですか。なぁに。もうセラさんのいじわる』
こんな突然の行為にも春宮はころころと鈴のように笑った。こんなにも急所をセラフに曝け出して、それでも笑ってみせるのか。セラフが何であるのか知って、セラフが今まで犯した罪を知って、それでも。
『春ちゃんは、馬鹿だなぁ……』
『そう?そうなのかもしれませんね』
くつくつと笑う春宮の低い肩口へと頭を預ける。ぬるく濡れていく肩に春宮は気づいているだろうか。どうか、気づかないふりをしてほしい。
そんなセラフの思いを受け止めるように、春宮の手がセラフの頭を撫でた。優しく、まるで子供を慰めるように。それに何よりも重みをかけてしまった気がする。小さな肩に乗せるべきでない重みのある過去も、想いも全て。駄目だよ。そんなことしたら春ちゃんが駄目になってしまう。大事な弱い女の子をこの手で壊してしまったと知ったら、今度こそ俺は。
ふと、春宮の手が頬に伸びた。ちいさく冷たい手はセラフの頬に馴染んで、いっそひとつになってしまいたいと思った。全てを受け入れてくれるこの子に、この背を預けてもいいのかもしれないと。春宮の徐々に近づく額を受け入れた。その一寸先、桃色に色づいた唇に近づいたのはどちらからだったか。セラフには───
その先は見ずに閉じた。セラフは長く細く溜息をついて目を瞑る。手のひらにはスマホ。軽い気持ちで開いた作品は所謂『セラハル二次創作』だったらしい。なんとなくの気まずさか、不快感か。いや、どちらでもなかった。思い出すのは自身の汚れた手を握りしめる春宮。
─もしも、これが事実だとしたら、春ちゃんは俺のそばにはいなかっただろうな。
セラフにはそういう確信があった。春宮もセラフも、実を言うと互いのことを詳しくは知らない。好きな喫茶店、好みの色、話し方の癖。そういったものは溢れんばかりに知っているのに、春宮がどう生きてきて何を思って今を生きているのか。そういったものは何ひとつとして知らない。そしてそれは春宮も同じ。
気にならないのかと言われれば嘘になる。初めて出会った日のこと。伊波くんと出会ってからの春ちゃんのこと。俺の隣で笑う瞬間のこと。それでもセラフは知らないことを選んだ。そして自身の過去も伝えないことを選んだ。春宮もそれを選んだから。
俺と春ちゃん、きっとなんにも知らないからそばにいられるんじゃないかな。それを言ったら君は怒るかな。それとも困ったように笑うかな。君の温かい手を握り、未だ冷え切った手にそれを分けてもらう妄想をしたことないわけがない。そんな夢を君と出会う前までずっと見ていた。誰かがこの手を取り温めてくれる夢物語を。
ああ、そういえばいつからそんな夢を見なくなったのだろう。凪ちゃんと会ったころかな。ううん、ほんとはもうちょっとだけ時々見ていたような気もする。でも確かに言えるのは、間違いなく春ちゃんと出会ったあの日からそんな夢は一度も見ていないってこと。
気づかないうちに自分は随分と温められていたらしい。
ねえ、だからわざわざこんな手を取らせる必要はないんだ。わかった?まだまだだね。俺らのことなーんもわかっちゃいないんだから。
件の作品に話しかけるように事実を噛み締める。
もう俺はこんな夢を見なくていいんだよ。