籠の中の大空、虚像の太陽
いつからか自分の家なのに、カギを差し込む前にチャイムを鳴らす癖がついてしまった。少しだけ待って、足音がするのに違和感を覚えなくなった。ガチャリ、内側から鍵の開く音が聞こえて、ドアがひとりでに開く。
「おかえり。遅かったね?」
ふわりと漂う夕飯の香り、顔を覗く…好きな人の顔に疲れが癒される。鞄を受け取る手に導かれるままに部屋へと足を進めた。
「急にバイト入っちゃって…ライは今日もうちに泊まってくの?」
「うん。そうしようかな。ごめん。何回も」
「?、近くでヴィランが出たからってライ言ってたじゃん。ごめんはこっちの方だよ」
三週間ほど前だったか、慌てた顔をして伊波が春宮を訪ねた。毎度丁寧に『今から行くね』とラインをくれる伊波が連絡をする前に急に家に来るのは珍しくて、こちらもつられるように慌てて部屋へと招いたことをよく覚えている。
どうにもこの周辺で凶悪なヴィランが出たとのことで近くをパトロールしていた伊波が春宮の安否を確認するために駆け付けた、というのが事の顛末であったらしい。相変わらず過保護だなぁと思う反面、そんなにも伊波が慌てるヴィランを想像して少し、恐ろしくなった。
春宮の住む西と東の国境近くは悪いとまでは言わないが、治安は良いとは言えない。だからこそよくヒーローたちが春宮の姿を見に来るのだが、それは春宮のあずかり知らないところである。
そんなこの地で言う凶悪というと少し、不安になってしまうのも納得いく。その話を一人で噂のように聞いていたら、間違いなく春宮は眠れない夜を過ごしただろう。伊波の存在に、改めて酷く安心する。そんな根柢の恐怖心もあったからか、伊波の提案を二つ返事で受け入れてしまった。いつもなら絶対にそんな縋り方をしないのに。
『安全って、本部から言われるまでユキの側に居たいんだけど、家泊っていってもいい?』
何度も頷いたあの日の自身にバカだと言いたい。あの瞬間、春宮の中で伊波は好きな人よりも頼れるヒーローが僅かばかりに上回っていた。そばにいてくれるなんて願ったりで、一度報告にと本部へと帰っていく伊波の背を見送った。
その日の夜。一週間後。週に一度が二度になり、気づけば伊波はほとんどの時を春宮の家で過ごしていた。
1K8帖の部屋に大人二人では狭い。必然と近くなる距離に段々と好きな男の人と半同棲のような行為をしているのだと気が付いた。守ってもらっている手前、やっぱりとは言いづらい。大げさに煽ったニュースが最近多いから、とニュースを見るのは止められた。ヴィランの動向は本部からの連絡を伊波からの伝手で聞いているため今がどのような状況下であるのかも春宮はあまり知らない。流されるようにこの生活を続けてきて、今だ。
ふたつの茶碗を当たり前のように取り出す。二つの膳に、二人分の夕食。いただきますの声が重なって、春宮は卵の乗ったハンバーグに箸を差し込んだ。肉汁があふれてきて思わず喉を鳴らす。
しかし、伊波は一向に箸を進めない。ふと目が合って、伊波はついに箸を置いた。途端に食卓を流れる神妙な空気に春宮もならって箸を置いた。それを見てゆっくりと伊波は口を開く。
「ねぇ。遅くなる時は言って欲しい。迎えに行くから」
「そんなに…」
「心配するよ。オレ、ユキのことだけは絶対に守りたい」
「ライ、大丈夫だよ…?私、ちゃんと元気。ライのおかげで」
俯いたライの前髪に手を伸ばす。大きな瞳が伏し目がちに光を薄くして、不安な色をしていた。頬を両手で包んで、こちらを向かせる。伊波はその手に自身の指を重ねて、そっと離させた。
「今日、例のヴィランに遭遇した。でも、倒しきれなくて…それで近くの住人が少し怪我したんだ」
「え、」
「オレ、守れなかった。わかってたのに。気だって張ってたのに」
「ライ、違うよ。ライだけが背負うものじゃない」
大きな瞳が零れ落ちてしまいそうだった。自身よりも大きなはずの伊波が酷く小さく見える。立ち上がって、向かいの伊波のもとへと駆け寄った。脱力したように私の伸ばした手を取った伊波の手を引く。
「お腹すかない?」
伊波は緩く首を縦に振る。
「じゃあ今日はもう寝よう?明日、オフなんでしょ」
「…てほしい」
「え?」
「ユキに、一緒に寝てほしい」
子供みたいなお願いに思わずうなずきそうになった。しかし、言葉の意味をよくよく考えて顔が熱を持つのを感じる。
それは、何者でもない春宮たちがしていい行為ではない。伊波が決して自身に間違いを犯すはずがないと信じていても、倫理と理性とがストップをかける。それでも、春宮に見せたことのない伊波の弱いところ。気づけば、春宮はうなずいていた。
完全に惚れた弱みだった。
伊波の体温を背中に感じる。胸の高鳴りには蓋をした。今はそういう場合じゃない。自身の感情は関係がない。背中を向けあったその向こう側から声が聞こえる。
「ユキ、起きてる?」
「…起きてるよ」
シーツと掛布団と、人の擦れる音が静まり返った部屋に響く。遠かった声が少し近づいた。
「ユキはオレから、離れないでね」
「それお願い?」
「うん、お願い」
ぽつりと囁かれたその願いが無自覚な強制力を含んだものだと春宮は知っていた。それでも受け入れた。好いた人の弱いところを見てしまったから。好いた人が自身を頼ってくれたから。それを喜んで受け入れてしまうことに後悔はない。二人の形が変わっていくことに恐怖こそあれ、間違いだとは言いたくなかった。
外敵を恐れているのは、どちらの方だったか。
きっと今の伊波は春宮抜きでは眠れもしない。互いの体温を分け合って生きていかなければならなかった。細い背を抱き寄せた行為は、伊波の腕は、春宮を閉じ込める檻でしかない。しかし、引き寄せられたその腕が震えていたから。触れた心臓の音が心地よかったから。伊波のそばにいることがどこまでも春宮の幸福だったから。だから、春宮は受け入れたのだ。歪であるという事実を知りながら、伊波の不安を受け止めたのだ。
*
随分、眠たい講義だった。最後の講義だったからとは言え、延長に延長を重ねるのはないだろう。そんなつまらない講義でもしっかりと背中を伸ばす、どこか掴めない友人、春宮ユキにプリントの穴を見せてもらおうと声をかける。
「ね〜この後ファミレス行かない?プリントの穴見せて欲しい〜」
「あ、ごめんなさい。今日は早く帰らなきゃ」
「なんか用事?来週はどうよ」
春宮はスマホをきゅうと両手で握りしめる。右斜めを上を見つめ、少し悩んでいるようで、きっと頭の中では即決されていた。少しの間が空いて気まずそうに口を開く。
「ん〜ちょっと待ってる人がいて。来週も難しいです」
「ちょっとくらいダメなの〜?てか春宮彼氏いたんだ」
「いや、彼氏ではなくて…」
「何それやばくない?監禁…は外出れてるから違うか。束縛?いや、彼氏じゃないんだもんな」
「そんなんじゃないですよ。守ってくれてるだけです」
「守るってセリフ、ヒーローか一護くらいしか許されないよ」
春宮は微妙な顔をして誤魔化すように笑う。何か隠し事をしているときのわかりやすい彼女の癖で、ろくでもない男に振り回されてるんじゃないかと心配になった。ふらふらと芯があるのだかないのだか、流されて行ってしまいそうな彼女だ。ついにホストにでもハマったか、はたまたこの前無理やり着いてきてもらった合コンで出会った男か。春宮のことを狙っている男がいたはずだ。次の飲み会から姿が見えなくなったことだけが気がかりだが。
鞄の用意を終えたらしい春宮は重そうなトートバッグを肩にかけてこちらを向く。
「それより知ってます?最近ヴィランが活発みたいで。あなたも気をつけて帰ってくださいね?」
「うん…ばいばい」
ゆるゆると背中に手を振る。急に静寂になった空間にニュースでも聞こうと最近ハマっているラジオのアプリを開いた。ニュースのダイヤルに合わせる前にふと、違和感を抱いた。ずっとニュースは欠かさず聞いていたはずだ。ラジオでも、テレビでも。
「ヴィランが活発なんてニュース、ひとつも聞いてないんだけど…」
春宮と会話をするために外された有線イヤホンの片耳が宙ぶらりんになって揺れている。漏れ出したラジオ放送の音からは、やはり『珍しくヴィランの動きがない』とヒーローの快挙を告げるアナウンサーの声が流れていた。
もしかすると。
どうにもつかめない春宮のいう『待っている人』が気になって仕方がない。まだ近くにいるはずの春宮を追いかけて、ラジオのことを告げようとした。駆け下りた階段。門の前、春宮の後ろ姿。駆け出すタイミングでちょうど、春宮の歩みがふと止まった。チャンスだ。声を出そうと思い切り息を吸う。
「待って!はる…」
「ライ!」
黒の髪をした、童顔の男。縁の太い眼鏡をかけていても大きな瞳はごまかせず、そのオーラも隠すことはできていない。西のヒーロー、Dyticaの伊波ライ。
どうしてここに。初めに頭を占めたのは疑問。そして次にやってきたのは不安。もしも、春宮の言う待ち人がみんなのスーパーヒーロー伊波ライだとしたら?
春宮の声を聞いて伊波ライは花が咲いたように笑みをこぼす。駆け寄った春宮の崩れた前髪を直してやる姿はどう見ても世間が羨む仲のいいカップルの姿で、日常に恐ろしいほどに溶け込んでいる。自分だって、春宮の話を聞く前であれば、違和感を抱く前であれば、明日中にでも問い詰めようと仕入れたほかほかのゴシップを胸に帰宅したはずだ。知ってさえいれば、知ってしまっていたら。
ふと伊波ライの瞳がこちらを向く。春宮に伸びかけた曖昧な手のひら、右手に握るスマホ、伸びる有線イヤホン。品定めをするように大きな瞳が細まるのがスローモーションのように見えた。蛇に睨まれたカエルとは正しくこのような心地で、彼と毎日のように対峙しているだろうヴィランにでもなった気分だった。汗が首筋を流れる。浅い息をする私を横目に監視するかのように見つめながら、器用に春宮の腰に手を添えてこちらを向かせる。こちらに気付いた春宮はやわらかく微笑んで手を振る。伊波ライは一転、人好きのする明るい笑顔をしていた。
反射で手を振った。手汗でスマホを取り落としそうになることに意識を向けながら、必死に。
ヒーローに愛された人は、もうそのヒーローしか信じていけないのではないか?絶対的な正義が彼女のために執行されるなら彼女を取り巻くものすべては正しさであるべきで、しかしその正しさを作るのがヒーローである彼だとしたら、彼女は何をもってして真実を知ることができるというのだろう。狭い一人暮らしの部屋で飼い殺しにされていると言うにはとロマンティックで、何かの罪に当てはめようとするには愛がある。
愛に満ちた籠の中に、ずっと閉じ込められているのか。息が吸いやすいように羽ばたかせるのを欠かさず、しかし行動範囲は手のひらの上。自身の体温が一番の居場所なのだと教え込ませているのだ。自分の手のひらの上でしか生きていけないように。
理解のある友人であろう。薄情と言われても言い逃れはできない。逃げるしか、できない。世間の正しさに牙を向けられるほど強くもなく、彼ほど彼女を愛せてもいなかった。ただ彼女が幸福であればそれで。そうして背を向けた。歪な愛に、目をつむった。
春宮の友人の背中が遠のくのを見送った後、伊波は眉間の皺を解いて春宮に向き合った。さっきの人は大学の友人だと一生懸命に語る春宮の姿はかわいくて声のひとつも聞き逃さないようにと耳を澄ませる。自分以外の話をする春宮なんて面白くもないが、声は聞きたい。自身の把握している交友関係であったからか伊波の心臓は静まっていた。最近の荒れ具合といってはなかった。春宮に汚い手で触れた男のことを思えば尚更。
それでも、やっぱり自身に気をやってほしくて、揺れる春宮の手をとった。途端にぴしりと固まる指先がいじらしくて愛おしい。指を絡めると黙り込んでしまった。
今、頭の中では何考えてるのかな。心まで読めればなあ。そういう機械をつくるのは流石の伊波でも技術力が足りない。とは言え技術さえ追いついていたら、倫理がそれを許さなくとも作るつもりであるのだろう。耳まで真っ赤になってしまった春宮の腕を引いて我が物顔で帰路を辿る。白くやわらかな脚で、自身の意思で、籠へと帰る駒鳥が愉快で愛おしくてしょうがなかった。鍵はいつまでも伊波の手のひらに。