1
岩泉が初めて彼女と話したのは、二年の終わりだった。秋の終わりに放課後、調理室の前を通った時だ。バターの香ばしい匂いが廊下までに流れ込んでいて、部活前で腹が減るなと考えていたところだった。
がらっと勢いよく空いた扉から出てきたのは、校内で有名な女子だ。すらっとした体躯に、ぱっちりとした二重の瞳。一見するとあどけなくて幼い印象がするのに、目元がきりっとしているせいか、意思のはっきりとした印象を受ける。校内の男子生徒の中では密やかにマドンナと呼ばれているとかそうじゃないとか。特段、興味もなかったが、たまたま同じクラスだったので存在だけは認知していた。
けれども、彼女と話す機会なんてただの一度もない上に、彼女も積極的にいろんな人と話すタイプではないので、そういうものだと思っていた。
「うわ、廊下までいい匂いになってる!」
「何作ったんだよ」
困ったなあと言いながらも彼女の様子はちっとも慌ててない。匂いの正体を知りたくて尋ねれば、彼女から手渡されたのはポリ袋に詰められたものだった。
「パン作ったんだよ。岩泉君ちょうどいいところに通りかかったね。いっぱい作ったからどうぞ」
「おう。サンキュ」
中にはいくつもの丸いパンが入っている。大量に作成したらしいが、家庭科部のメンバーだけでは食べきれないのだろう。そういうのは、男子が食べた方が早いに決まっている。
「……岩泉君って安心感あるよね。渡してもちゃんと食べてくれそうというか、捨てはしなそうな感じ」
感心したように見上げる彼女は岩泉をべた褒めする。
「褒めてもなんもできないぞ」
「うん、いいって。もらえるものなんかないもの」
にこにことしながら彼女は、頑張ってねと言って調理室に戻っていく。
これが彼女と初めての会話だった。
渡されたポリ袋を持って部室に行くと、一番に食いついてきたのは及川だった。
「岩ちゃんこれどうしたの? あったかいしできたて?」
「家庭科部の奴からもらった」
仮にも『マドンナ』からもらったって言った日には何を追求されるか考えただけでも、面倒なことになるのは容易に想像ができた。
「ふーん、岩ちゃんの隠れファンだったりして」
「そうかもなー、岩泉なにげに好きな奴多そう」
茶化して言う及川に続いて花巻が同意した。
「おっ、うまそうな匂いする」
部室の扉が開いて顔を覗かせたのは、進路相談終わりの松川だった。一直線に全員が揃っている場所へと歩いてくる。
「岩ちゃんがもらったんだって。食べる?」
「食べる」
流石に育ち盛り、部活をしている男子高校生にかかればポリ袋いっぱいにあったパンはあっという間にそれぞれの胃の中に入っていった。岩泉も全部を食べられないうちに一つとって口に入れる。
ほどよいバターの味が口の中いっぱいに広がる。かりっとした外側の食感と内側の柔らかすぎない食感で、部活前の小腹にはちょうど良かった。
あとで調べたら、もらったパンはクイニーアマンという菓子パンに分類されるものだった。
翌朝、岩泉は登校しながらコンビニに立ち寄った。せっかくもらったパンだったので、何もお礼をしないのは岩泉にとって気がすまなかったからだ。
朝練終わりの教室に入ってから、彼女の席に真っ直ぐ向かうと手を振ってくる。
「おはよ! 昨日はありがとね。助かっちゃった」
ひまわりでも咲いているんじゃないかと思うほどに満面の笑みで言う彼女の声は少し大きい。いくら朝の騒がしい教室とはいえど、澄んだ通る声で誤解を招きそうな言い回しをされるのはたまったもんじゃない。幸い誰も聞いてないようだったが。
「ああ……これ、昨日のお礼」
「全然気にしなくていいのに! でも美味しくたべてもらえたなら良かった」
密やかにマドンナなんて愛称をつけられているのに気取った様子もなく、お菓子を受け取る姿はアンバランスな気がした。
「それこそ気にすんなよ。俺がしたくてしただけだ」
「優しい……。有り難く受け取っておくね」
ふわふわと笑う姿に、こういうのが好きなやつは多いだろうなと頭の片隅で思う。可愛いかどうか聞かれたら、もちろん岩泉自身も頷く。しかしそれが、恋という甘酸っぱい感情になるかと聞かれたら首を傾げてしまう。
岩泉の幼馴染みである及川徹は、校内でも屈指のイケメンでそこそこの恋愛経験を積んでいるが、一緒にいる岩泉は全くといっていいほど恋愛に無縁である。
過去に告白されたこともあったが、全てバレーの為に断った。自分のことを好いてくれて勇気を出して告白してくれたことはとても嬉しかったが、それ以上にバレーに手一杯になってしまうことが目に見えていて、どうにも時間を一緒に過ごせるように思わなかったので断ったのだ。
自分の席に戻りながら、全員で食べたのは惜しかったかもしれないと少しだけ残念だと思った。
2
三年に進級して、彼女とはクラスが変わってしまった。その変わりに及川と腐れ縁を続けている幼馴染みの女子と一緒になった。岩泉もよく知っている人物だが、その幼馴染みは今まで及川と同じクラスという驚異的なまでの運の持ち主だ。
珍しいというか、初めて及川と違うクラスになって戸惑っているように見えた。きっとすぐにクラスに馴染むだろうが、珍しい姿だと思ったし、及川が自分だけに何かを言うのだろうと思うと、早く付き合っちまえと思うのだった。
部活の関係で、伝達事項があったので三年二組を訪れると『マドンナ』がいた。そういえば二組だと言ってたと始業式の日に交わした会話を思い出す。
「岩泉君久しぶりー」
「おう。悪いんだが、誰でもいいからバレー部のやつ呼んでもらっていいか?」
「いいよ」
二組の教室を覗き混んで目線が合ったのが彼女で、すぐに近づいてきたので呼んでもらえるように頼めばすぐだった。
バレー部の奴には、及川から回ってきた今月の練習予定が載っているプリントを渡すだけの簡単な作業だ。
プリントは一括して渡してしまうので、すぐに用件は済んだ。
「待って」
相変わらず澄んだ通る声に呼び止められる。自分よりも幾分か低い彼女はいつも岩泉を見上げる形になる。手には何かを持っている。
「この間部活で作りすぎちゃったから、良かったらもらってくれるかな……?」
「……作りすぎだろ」
「だって、レシピが数十個分もあるんだよ! みんなして作ったらいっぱいになっちゃうんだもん。別に岩泉君がいらなければ他の人にあげるもん」
以前にもらったポリ袋いっぱいの小ぶりなパンではなく、少し大きめの紙袋いっぱいに入っていた。
「いらないって言ってないだろ。もらう。……つうかよくこの時間まで持ってたな」
呆れながら紙袋を受け取る。中にはまたパンが入っている。いわゆる、バターロールというやつが入っているらしかった。明らかに一人で作って食べきれる分量ではない。
「これでもクラスに配ったんだけど余ってて……。いっぱいあるからバレー部のみんなで食べてよ」
えへへと笑っているところは変わっていなくて、クラスの誰かが言っていた控えめに笑ってる姿が可愛いとか、一人でいる時の凜とした雰囲気が良いとかよりも、自分の目の前で笑っている姿の方がずっと彼女らしいと思った。
「今度作りすぎたらもらってやるから遠慮無く連絡してこいよ」
「いいの?」
「うまいのに捨てるのはもったいねえだろ」
たまたま交換していた連絡先がこんなところで役立つとは思わなかった。それがもっと違う方向に転換していくとは岩泉はこの時思いもしなかったのだ。
3
「岩ちゃん、マドンナちゃんと付き合ってんの?」
「はあ? んなわけないだろ」
部活がオフの月曜日の放課後。ファストフード店で岩泉は及川と小腹を満たしていた。及川はどこから流れたのか分からない噂を言い出した。
「そうなの? 最近噂になってるし、岩ちゃんの浮いた話なんて聞いたことないから本当なのかと思ってた」
及川の興味があるんだかないのか分からない物言いに岩泉は苦い顔をする。正直な感想をいえば、彼女が恋人なところが想像できなかった。
「噂ならもう少し信憑性のある話しろよ。つうか、及川こそ彼女と別れたらしいじゃねえか」
「あ、それは本当。まいっちゃうよね」
気にした風でもなく、及川は細長いポテトを口に放り込む。
「相変わらず短え付き合いだな」
「岩ちゃんまでそんなこと言うの」
「俺もってなんだよ」
「別に」
ポテトについていた塩が指についたのが気にくわないのか、紙ナプキンで手を拭く及川は机を見たまま視線をあげようとしない。思い当たるとしたら、少し前にクラスが同じになった及川の腐れ縁の女子のことだった。彼女から大方何か言われたのだろう。そうでなきゃ、及川が落ち込むはずがないのだ。
「ほんとお前メンドクせえな」
「……俺だって好きで振られてるわけじゃない」
「及川の頭の中なんてバレーしか詰まってねえのにどこがいいんだか」
「うわー。岩ちゃん手厳しい」
及川の声を無視してコーラを飲む。しゅわしゅわと消えていく泡が喉をあっという間に通り越していく。
「それよりも、マドンナちゃんとどうなの?」
「……部活で作りすぎたものもらうくらいだ。言っておくが、お前が思っているようなもんとは違うからな」
「えー、でも岩ちゃん女子からもらうことあんまりないじゃん」
にやにやと岩泉を見る及川の表情は非常に活き活きとしていた。気になるー、と女子みたいなことを言い出す及川に岩泉は苦い顔をする。
彼女が部活で作った時にもらうものは大抵、腹にたまりそうで手頃に食べられそうなものばかりで、一人で食べるには少し多い量だった。
特に今まで言わずにバレー部の部室で食べていたこともあるが、特別彼女の名前を出したことはない。今目の前にいる及川のような反応をする奴らが大半になるのが、簡単に予想できたからだった。
彼女の迷惑になるような事態は避けたかった。ただでさえ、目立つ存在だ。表だって誰かがからかったり、不利益が生じるようなことが起これば彼女に顔を向けられなくなってしまう。
しかし、ここまで考えたところで岩泉は頭の中で首を傾げてしまった。彼女に不利益になることが、自分にとってそこまでして嫌なものなのだろうか。
普通ならばそこまで自分自身を追い詰める必要はどこにもないし、彼女をどこまでして守るかなんて、何でもない、去年同じクラスだっただけの同級生がそこまでしてもいいものか、岩泉には分からなかった。
「おい、アイツに何かけしかけんじゃねえぞ」
「しないって。それにしても岩ちゃんがねー」
へえー、と言いながら楽しげな及川は鼻歌まじりに、さらにポテトを口に放り込んだ。
岩泉は、数日前に彼女と交わしたやりとりを思い出していた。少し前にもらったバターロールは美味しく、バレー部の部員達であっという間にたいらげた。誰もがおいしいと言うので、味の感想を連絡したところ、彼女から、家庭科部から練習の差し入れを持っていくという話になっていたところだ。
及川が噂を耳にしていて、本人に聞いてくるということはかなりの確率で三年の間では噂になっているのかもしれない。岩泉が考えるよりも事態は進んでいて、すでに彼女が困っているところまでは想定できていなかった。
岩泉が百面相しているのを見た及川はさらに楽しげに目を細めた。
及川から話を聞いた翌日の昼休み。岩泉は彼女の教室を訪れていた。少し前に出ていた彼女からの部活として差し入れをしたいという申し出について内容を詰めに来たのだった。
昼休みの教室は様々なクラスの生徒が出入りしているので、岩泉が入ったくらいでは誰も気にしない。それどころか、様々な生徒が声をかけてくる。昼休みの時間は短いので、手早く彼女を呼び止める。
「あれ、今日はどうしたの?」
「この間言ってたことで、こっちの練習スケジュール話そうと思ってきたんだけど、少し時間あるか?」
「ちょっと待ってね……」
差し入れを持ってくる話をもとに彼女と話す時間を確保する。スケジュール帳とボールペンを取り出した彼女は、ぱっと明るい笑みをこぼした。
一瞬の彼女の姿に岩泉は思わず眩しいと思った。ちかっと鏡に映った光が反射したみたいな眩しさだ。ほんの一瞬、気づきもしなければ視界にも止めないような一瞬。
「教室以外の方がいいかな?」
「いや、空いてる席があるならそこでいい」
「じゃあ、そこの席でいい?」
彼女の指さす先は今いる教室の真ん中辺りから二つ前の窓際の席。さっと移動して座ると彼女は屈託なく楽しみだと言う。岩泉は相向かいになるように椅子に座る。
お昼の真上に昇ってきた太陽が燦々と教室の中へと明かりを降らして、手入れが行き届いたきれいな髪が反射し、天使の輪を作り出していた。
「バレー部は夏の大会に向けて校内合宿だっけ?」
「それで、こっからここまでが合宿」
岩泉は広げられたスケジュール帳の間を指し示す。
「オッケー。どのあたりの方がいい? こっちは有志メンバーでやる予定だから指定してくれればその日に持っていけると思うよ」
「あーじゃあ、大体三日目・四日目あたりにダレてくるから、その頃くれるとありがたい。男所帯なのと練習中だから補給しやすいものがいいな……」
運動部への差し入れなんて慣れていないだろうに、一生懸命スケジュール帳にメモを書き込んでいく。案外達筆な文字が綴られていくので、周りのイメージと実際の印象が異なっていくのは、目立つ人だからだろうと思った。
岩泉には及川という目立つ幼馴染みがいるせいで、周りが見ている姿と実際の姿が乖離しているのは当たり前のように感じている節がある。
簡単に済ました話のあと、不明点があれば連絡することにまとまった。
「そういや」
「どうかした?」
「……なんでもねえ。こっちは監督とコーチには言っておく」
昨日及川に言われたことを確かめようと思ったが、流石に唐突すぎたので気が引けた。おもむろに立ち上がり、教室を出ようとする岩泉は、いつかの時みたいに呼び止められる。
「ねえ、さっき言いかけたのってあれかな。私と岩泉君の噂?」
「知ってたのかよ」
困惑するよりも先に的確に言い当てられたことに驚いた。勝手に彼女の耳には入ってないといいと思っていたが、知っているなら話が早い。
「そっちに迷惑になってなければいいんだけどよ」
「ほんとに岩泉君っていい人だよね。……嫌だったら余っても渡さないし、差し入れしたいなんてお願いしないよ」
くすくすと笑いながら言う姿に声がでなかった。なんとか言葉を紡ごうとしたが、予鈴のチャイムによって阻まれた。
なんでと問いただすよりも前に彼女が、教室に戻ったほうがいいよと言うのが先で岩泉は赤くなりかけた顔を隠すように教室戻ったのだった。
4
岩泉が彼女の教室を訪れないままに夏休みになり、あっという間に校内合宿の時期になっていた。その間のやりとりは終始スマートフォンから送るメッセージのやりとりばかりだ。
はっきりとした答えを聞かないままうやむやになったので、胸に小さな何かがつっかえたようにちくちくとしている。
大会に向けてのコンディションは右肩上がりでチームの雰囲気もいい。自分の気持ち一つでせっかくの良い流れを壊したくはなかった。
メニューが淡々とこなされていく中、昼休憩の食堂に部員はなだれ込んでいた。校内合宿は有り難いことに食堂が休憩所としてあてがわれている。ほどよく冷房の効いた空間は、蒸し暑い体育館と比べれば天と地の差があった。
「岩泉君いますか?」
聞き慣れた声にはっとして振り向けば、数週間ぶりに見た彼女の姿だった。岩泉の隣に座っていた及川が気の抜けた返事をする。
「はいはいこっちに岩ちゃんいるよ〜」
手招きをする及川がちらっと岩泉のほうを見た。この一瞬のアイコンタクトに岩泉は逃げ場がないことを悟る。そもそも及川には言ってあったし、監督やコーチにも伝達済みだ。この時点でどっちに転ぼうが、岩泉は状況に合わせるしかなかった。
「良かったー、見つからなかったらどうしようかと思った」
彼女は気になっていないのだろう。周りがどよめきながら彼女がいる机のほうを見ていることに。
用件を先に済ましてしまうほうがいいだろう。
「ちゃんと来れたんだからいいだろ。それよりも、わざわざ休みなのに悪いな」
「ほんとに気にしないでよ。こっちも好きでやってるのに」
「ああ。及川、家庭科部そろったみたいだから説明しろ」
「了解。はーい、みんなこっち集合!」
ずらっと並んだバレー部員に対して家庭科部は六人ほどの少人数。用意するのがどれだけ大変だったかは簡単に想像できた。
及川が多少真面目に説明をすると部員達は一斉にあいさつをする。運動部独特の礼の仕方に、差し入れをしにきた家庭科部は恥ずかしそうにはにかんで作ってきたものを差し出した。
あっという間に群がった部員達にとってはいい息抜きになったようだった。
大量に差し入れてくれたのは、オレンジとグレープフルーツの二種類のゼリーで、やたらに巨大なクーラーバッグを持ってきていたのはこの為だったのかと理解した。
岩泉も一つもらうと、冷えたゼリーは味のせいもあり爽やかで食べやすい。
「どう? けっこう冷やしたから食べやすいといいんだけど」
「すげえうまい」
「そうだ。これもどうぞ」
彼女が手渡したのは、一リットルのペットボトル。中身はスポーツドリンクで、こっちが本当の差し入れらしかった。
「これもいいのか」
「えーっと、これは岩泉君にだけの差し入れなの……」
照れくさそうにはにかむ姿に、岩泉もだんだんと顔に熱が集中する。クーラーが効いているはずなのに、それがちっとも感じられない。
「……迷惑だったら……」
だんだんと縮こまっていく様子の彼女は岩泉の顔色をうかがっていた。
岩泉からすれば、彼女のしてくれることが迷惑になったことは一度もなく、意外と気にしいなことが不思議でしょうがなかった。
校内でマドンナと称されている彼女の行為ならば、誰もが受け入れてくれたのではないだろうか。
「迷惑じゃねえよ。俺ばっかりもらってるから何かお礼がしたい」
「お礼なんて別に」
「じゃあ、言い方を変える。何かをしてもらったら、同じくらいしたい。こういうのはギブアンドテイクでいいんじゃねえのか」
こくりと頷いた彼女に思わず頬を緩めた岩泉。
「……私ばっかり振り回されてるみたい」
「はあ?」
そんなわけないだろ、と続けようとしたところで彼女は爆弾を投げ込む。
「気になっているの私だけみたいなんだもん」
ぷうと頬を膨らました彼女の対処の仕方を岩泉は知らない。もらったばかりのペットボトルを握りしめたまま、口の中が乾いてくのが感じ取れた。
目の前の彼女だって自分と同じなのかもしれない。
その刹那、いつかの時に見たちかっと鏡が太陽の光に反射したみたいな感覚が急に実体をともなって現れたように感じた。眩しいのではなくて、もっと柔らかくて、ふかふかのパンに染み込んだバターの味みたいに優しく広がっていくもの。
探していた答えが喉の奥に引っかかって出かかる。
大体の人がそれを何という言葉で表しているか岩泉は知り得ていた。
「なあ、俺から言ってもいいか?」
「……うん」
熱に浮かされたなんていうほど、一瞬のものではない。夏のせいなんて言わない。
それは春から始まっていたのだから。