彼女がそう気付いたのは、隼人からのメッセージ通を目にしたときだった。
彼女は、慌てて彼からのメッセージに既読を付ける。
『お疲れ様! 俺は今仕事が終わったからそろそろそっち行くね! あみはもう俺の家いる?』
まるで隼人の声が聞こえてくるかのような彼らしいメッセージと共に可愛らしいスタンプが添えてあった。彼女はじんわりと胸が熱くなるのを感じて、彼に返信をした。
『お疲れ様! まだ終わってなくて会社。もうちょっとしたら出られると思うよ』
『待たせることになっちゃうと思う。ごめんね』
彼女もスタンプを添えて、送信ボタンに触れる。端末の電源を落とし、暗くなった画面に疲労が溜まった自身の顔が映った。
こんな顔のまま、隼人くんに会うのは嫌だな。
そう思っていても、簡単に疲れは取れるものではない。少しでもまともな顔になってから、と思った彼女は、顔を上げて立ち上がろうとしたが、ブーッと端末が震えた。
真っ暗だった画面には、自分のどんよりと落ち込んだ表情ではなく、隼人のメッセージが並んだ。それだけで、何となく気持ちが軽くなった気がする。鏡なんか見なくても、自分の口角が上がっているのが分かってしまうのが恥ずかしかった。
『大丈夫だよ! というか、あみの職場の最寄りに近いところにいるから迎えに行くよ』
『早く会いたいし! 会社出たら教えて!』
彼女は、勢いよく立ち上がり、今度は目の前にあったパソコンの電源を落とす。
真っ暗な画面に映し出された自身の顔は、真っ赤に染まっていて、思わず目を背けてしまった。
*
駅のロータリーに着いたところで、隼人にメッセージを入れようと、立ち止まる。辺りを見渡しながら、きょろきょろとしていると、とんとんと優しく肩を叩かれた。
くるりと振り向けば、マスクを少し下げて笑う隼人と目が合った。彼女は、思わず彼の名前を呼びそうになり、慌てて口を塞ぐ。隼人は、あはは! と笑い、代わりに彼が彼女の名前を呼んだ。
「あみ、お仕事お疲れ。一応、食べ物とかお酒とか一通り買っておいたけど、他に何か欲しいものある?」
「お疲れ様。ありがとう、特にないかな。また必要になったらコンビニ行けばいいよね」
「そうだね! 早くあみとちゃんと話がしたいし、もう俺んち行っちゃお」
そう言うと、隼人は少し恥ずかしそうに指で頬を掻く。学生の頃から、真っすぐな感情表現をするのに、照れが抜けないのか、眉を下げてへにゃりと笑う顔は相変わらずだった。
変わらない隼人の表情に、彼女はいつも安心させられる。この距離がいつまでも変わらないであるようにと願いながら、彼女は彼の背中を追いかけた。
少し、後ろを歩くようにして。
タクシーに乗り込むと、隼人は帽子とマスクを外す。肩の荷が降りたのか、そのまま大きく伸びをした。
「はぁ〜…! やっと金曜日だね。明日は俺も休みだし、気にせず飲むぞ〜!」
「そうだね。二日酔いだけは避けたいけど」
「あ〜、確かに。適度に! 適度に飲もう!」
隼人はそう笑うが、彼の手にしているビニール袋の中にはかなりの本数の缶が入っている。車が揺れる度に、カンッと音を立ててぶつかった。軽やかで跳ねるような音と、弾む隼人の声が心地よくて、彼女はつい目を瞑った。
「あみ、もしかして眠い?」
「え? あ、大丈夫だよ」
「まだ距離あるし、寝ててもいいよ。ほら!」
ぐらりと視界が揺れて、こつんと何かにぶつかる音がする。
数秒前まで隣にあった隼人の顔が、自身を見下ろしていることに気付いた。すうっと少し息を吸い込むだけで、ふわりと彼の匂いが香る。彼女は思わず視線を逸らした。しかし、逸らした目線の先で、彼の大きな手が自身の肩を抱いていることに気付く。
手のひらや、指先に残る小さな傷が目に映り、彼の体温がじわじわと伝わってくる。
近いかも、そう意識した瞬間、彼女の視界は真っ暗になった。彼の帽子が被せられたのだと、察した。
「こ、こうしたらちょっとは寝れるでしょ?」
「そう、だね」
上擦った隼人の声に、思わず彼女は笑ってしまった。けれども、それ以上何かを言うこともなく、そのまま彼の肩を借りて眠りについた。
*
思っていたよりも疲れていたようで、隼人に声を掛けられるまで全く目が覚めることがなかった。
ぼんやりとした頭のまま、彼女はタクシーを降りる。「あはは、あみ眠そう」と笑う隼人を見つめると、彼はそのままくしゃくしゃと頭を撫でた。
子供扱いされているんだなと頭では理解していても、彼が触れる大きな手に抗うことが出来ずにいた。
背中を押され、彼の部屋に入るタイミングでようやく目が冴えてきた。
「お邪魔します〜…」
「入って、入って! とりあえずギリギリまでお酒冷やしておくね」
「ありがとう」
隼人が鼻歌混じりにキッチンへ向かう姿を眺め、そしたら私は、何をしようか。と、ここまで考えてハッとする。そして、彼女は慌ただしく彼を追いかけた。
「私も手伝うよ、隼人くん。というか本当なら私が何か作っておく話だったんだし」
「気にしないで? あみだって仕事だったんだから仕方ないよ。あみの手料理はまた今度食べさせてよ」
隼人は目を細めて笑う。そして、同じように彼女の頭を撫でた。
「今日はご褒美の日だからね! あみもゆっくりしよ!」
隼人は満面の笑みで笑うと、手際よくつまみの用意を始めた。彼女は、パタパタと手で顔を扇ぎながら、そっと彼の隣に並んだ。
乾杯と共に缶をぶつける。ごくごく、と喉を鳴らす音だけが響いて数秒。互いの息を吐く声が重なり、つい目を合わせてしまった。
「あはは! やっぱりお酒飲むとこうなるよね」
「今日は特に暑かったから余計にね」
「わかる、わかる! 俺、今のでもう半分くらい飲んじゃったよ」
隼人は缶を振り、カンカンっと指で音を立てた。そして、そのまま勢いよく缶の中身を飲み干す。
彼女は思わず目を見開いた。そんな風な飲み方をする彼は、見たことがない。余程喉が渇いていたのか、それとも。
隼人は、彼女の視線に気付いた様子はない。しかし、彼女の心中を読み取ったかのように「実はさ〜」と机に突っ伏しながら話を始めた。
これは珍しく酔うかもしれない。彼女はじっと隼人の顔を見つめ、徐々に赤く染っていく頬を眺めた。
「……ってことがあったんだよね。愚痴ってごめんね」
「全然いいよ、それで隼人くんの気が済むなら」
「ありがとう。あみは? 俺の話ばっかりじゃ悪いし、あみの話も聞くよ。最近溜まってることある?」
隼人は、あみの顔を覗き込む。柔らかく、優しい目に見つめられ、彼女はついぽろりと言葉をこぼし始めた。
少しずつ小さくなる声に、彼は嫌な顔ひとつせず、彼女の目を見ながら話を聞き続けた。アルコールが入っているせいなのか、ぐるぐると頭が回り、視界が揺らぐ。
あ、泣きそうかも。なんて気付くと、彼女は自身の手の甲でぐいっと涙を拭おうとした。しかし、隼人の手がそれを阻止する。優しく握られた手のひらに、彼女はまた涙を零した。
彼は親指で、丁寧に涙を拭うと「無理やり拭ったら、せっかくのメイクが台無しだよ」と笑う。
キラキラと視界が光るのは、きっとアイシャドウが反射しているだけだ。それだけ。
*
かちゃかちゃと何かがぶつかる音で、目が覚めた。彼女は顔を上げると、隼人がテーブルの上のものを片付けていることに気付く。手伝おうとして、慌てて立ち上がると、背中に掛けられていたブランケットが床へ落ちた。
「あ、起きた? 大丈夫?水飲む?」
「うん、大丈夫。ごめんね」
「全然いいよ。あみも色々溜まってたんだろうなって分かってたから」
隼人は、へらりと笑うと彼女の傍に近づき、そっと涙の跡に触れる。すると、何故かちらちらと時計と彼女の顔を交互に見始めた。彼女は、首をかしげ、彼の見る時計に視線を向ける。そこで彼女は、終電を逃していることに気付いた。
「起こそうかな〜って思ったんだけど、明日休みだし、いいかな〜って……それに、」
「……それに?」
「何だが、今日は朝まで一生に居たい気分だったから」
隼人は、ゆっくりと彼女に顔を近付け、そのままキスをした。静かな部屋に小さく響く音が恥ずかしくなる。
あの頃より大人になったかもしれない。けれども、変わらない距離と君への気持ちが、いつまでも俺の心をあの西日に染った教室に閉じ込めるんだ。
「か、片付けしておくからシャワー浴びてきていいよ! 服もいつものとこにあるから!」
「……わ、分かった」
キュッと心臓が握りつぶされたような感覚。眠れない金曜日に、彼女は顔を赤くすることしか出来なかった。