呼んでよ



懐かしい声が聞こえたような気がした。自分の代わりに誰かに謝罪の言葉を口にしている。薄らとした記憶に残ったその懐かしい声の誰かなんて、本当はもう分かっていたのかもしれない。

未だ机に突っ伏したままの想楽をの横目に、りおんはため息をついた。目の前に座る大人たちがまるで同級生のように見える。
想楽が潰れるほど呑むことは滅多にない。というか、りおんが潰れることの方が多いの方が正しいのかもしれない。少し前までは逆転した立場が見慣れた光景であったのに、今は彼女が想楽の手を引いていた。

「もう次は呼ばないでくださいね、雨彦さん」
「はは、それはどうかな。北村に言っといてくれ、礼なら良い報告でな」
「は? ちょっ、と……」

クリスは丁寧に頭を下げ、雨彦は片手をひょいと上げて暗闇に消えて行ってしまった。残されたのは、未だに他人の肩で眠りこける想楽とりおんの二人だけであった。

「ちょっと起きてってば、起きて。起きろー、北村ー。北村想楽さーん」

遠慮なくばしばしと背中を叩いてみるが、起きる気配はない。一体どれだけ飲んだらこうなるのか。
そこまで考えて、以前自分が想楽に同じことをしていたのだと頭に過ぎる。きっとこれは今までの罰ゲームなのかもしれない。そう考えたら、彼のことを面倒見るのは仕方の無いことだ、と割り切ることが出来そうだった。

「いい加減起きてってば、起きて。起きてよ、想楽くん」

久しぶりに口にした名前に思わず、ぶわっと顔に熱が集まる。思春期なんてとおに過ぎたはずだ。それなのに、名前を呼ぶだけで心臓がバクバクと音を立てた。しかし、そんなりおんの感情とは裏腹に想楽は目を閉じたままであった。

「もう! 本当に置いて帰るよ! 」

思いっきり背中を叩くと、小さく痛っと呟く声が聞こえた。ようやくお目覚めのようである。アルコールの影響もあるのか、少し不機嫌そうな表情をしながら辺りを見回している。そして、呆れている彼女と視線がぶつかると躊躇いもなくその名前を口にした。

「なんで、じゃないよねー……雨彦さんが呼んだんだよねー」
「はいはい、もうそんなことはどうでもいいから早く帰るよ。北村さん」
「……は?」
「は?」

りおんが想楽の名前を呼んだ。だが、その呼び方は以前とは違うもので、想楽にとっては信じられなかった。思わず彼女の顔をまじまじと眺めてしまい、耐えきれずに視線を逸らす。それもそうだ。別に今の二人は赤の他人も同然なのだ。

「なんで苗字なのかなー……」
「何? ほら早く帰って寝る! 明日も仕事あるんでしょ」

正直落ち込んでいると言ったら嘘ではない。だが、今こうしてりおんが自分の名前を呼んでいることの方が嬉しくて、呼び方なんてどうでも良くなっていた。緩んだ口角をどうにかするべく、想楽は小さく息を吐いた。まるで、今までの感情を全て捨てるかのように。

「……明日の仕事、午後からだから。別に今すぐ寝なくても平気」

帰ろうとして立ち上がったりおんの手を掴んだ想楽が小さく言葉を零した。彼女はだから何、と喉元とから出そうになった言葉を必死に飲み込む。その言葉の意味が分からないほど、子供ではなくなった自分に少しだけ嫌気がさした。

「そ、そっかー! でも私は明日仕事だし、そんなに酔っ払ってるんだから早く寝た方がいいよ! はい、早く帰る!」

りおんは無理やり想楽を立たせて、背中を押して歩き始めた。彼がどんな顔をしているのかなんて見たくない。今の自分の役割はこの酔っ払いを一刻も早く寝かせること。それだけを考えて、彼女は足を進めた。



久しぶりに訪れた想楽の家はちっとも変わってなくて、正直足を踏み入れたくなかった。そこに入ってしまえば、感情も何もかも全て蘇ってしまいそうで怖かった。

「ここまででいいでしょ、もう酔いも醒めただろうし」
「うん、まぁそうだねー。ごめん」
「気にしないで。今までの償いみたいなもんだし……それに、もう会わないから」

想楽はその言葉におもわず顔を上げた。月明かりに照らされた彼女の顔は逆光になっていて、よく見えない。
想楽が言葉を詰まらせていると、彼女は逃げるかのように、扉を閉めようとした。きっとここで動かなければ、もう二度と彼女に会うことはない。それくらい、彼にも理解出来た。
想いが結晶になるのは、一瞬であることくらい。

「なんで、そんなこと言うの」
「いや何でってそりゃ……え、なんで泣いてんの?」

想楽は自分が泣いていることに気付いていなかった。溢れる涙を止めようとして、目元を拭えば拭うほど溢れ出してしまう。
アルコールのせいで、ぐわんと揺れる頭と涙で滲んだ視界のせいで、もう何もかもどうでも良くなってしまった。

「……こんな状態で会いたくなかったんだけどー」
「私だって雨彦さんに呼ばれなければ、」
「それ」
「え?」
「僕のことは、北村さんって呼ぶのに雨彦さんのことは名前で呼ぶんだー」

ジト目で見つめられてしまい、りおんは何も言えなくなってしまった。完全に酔っ払ってる人間の絡み方である。とはいえ、今は名前で呼ぶ必要性がない。想楽の言葉には耳を向けず、無理やり彼を部屋の中に押し込んだ。

「そんなことどうでもいいでしょ! 終電なくなる前に帰るからね! 明日の朝ちゃんと二人に連絡するんだよ!」

想楽を部屋に押し込むために、一瞬でも玄関を跨いだのが間違いだった。彼は意図も簡単にくるりと向きを変え、りおんの腕を掴んだ。当然、引っ張られた反動で彼女はそのまま想楽の胸元へ飛び込んだ形になる。
咄嗟に体を離しても、掴まれた腕が離されることはなかった。そして、想楽はりおんの肩に顔を埋めた。

「もうこんな遅いのに、僕がりおんを一人で帰すわけないでしょー」

ガチャン、とゆっくり締められた鍵の音には気づかないふりをすることしか出来なかった。

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