どれくらいの時間が経ったのだろう。
気の置けない間柄の人が集まったせいもあり、気が抜けていたのか、普段よりもアルコールの回りが早かったような気がする。ふわふわとした頭で、隣にいる想楽に何かを口走っていた記憶が朧気に残っている。しかし、彼女の脳みそは考えることを諦めた。
ゆっくりと冴えていく視界の中で、最初に捉えたものは隣で眠る想楽の姿だった。
「……は?」
思わず声が漏れる。彼女は慌てて起き上がり、自分の体をぺたぺたと触った。脱いだ形跡も、脱がされた形跡も多分、ない。ただ同じベッドの上で眠っていただけ。彼女は、きっとそうだろうと自身に言い聞かせて、音を立てないようにゆっくりとベッドを抜け出そうとした。
しかし、二人で眠るには小さいサイズのシングルベッドは、ぎしっと音を立てた。彼女は恐る恐るすやすやと眠りにつく想楽の顔を盗み見る。目が覚める気配はなさそうだ。
彼女は、もう一度ベッドから抜け出そうと試みるが、今度はさっきよりもぎしりと大きな音がして、そのままベッドに倒れ込んでしまった。
正確には、ベッドの中にいた人物に腕を引かれて、音を立ててしまったのだが。
「どこ行こうとしてるのー……」
「ちょっとトイレに」
「嘘つき。帰ろうとしたでしょー」
普段から気の抜けた話し方をする想楽ではあるが、アルコールのせいもあり、いつも以上にふわふわとしていて、呂律が回っていない。まだ酔っているようである。
想楽は、ぎゅうっと彼女を正面から抱きしめたまま首元に顔を埋めた。酔っているからとはいえ、この距離感は良くないのでは。彼女は彼の胸板を押し、強引に距離を取ろうとする。
想楽が名前を呼ぶ度に、甘いお酒の香りがする。知らない匂いだ。こんな風に酔った彼の姿は見たことがない。知らない。こんな彼は、知らない。これは知らない彼の姿だ。
その甘いお酒は、誰に教えてもらったの。
そんなことを聞く権利を持ち合わせているはずもなく。彼女は、できる限り想楽と目を合わせないように必死だった。
「……なんでこっち見てくれないの」
「な、何でって……そもそもなんで同じベッドで寝てるの」
「りおんが誘ってきたのに」
「…………は、」
「やっぱり。覚えてないと思ったー」
想楽は、むすっと口をへの字に曲げ再び彼女の首元に顔を埋めた。何も言わない彼に不安を感じた彼女は、想楽の背中を叩き、彼の言葉の続きを催促する。
ねえ、寝たの。起きてよ、このままじゃ困るよ。
そう声を掛けても、想楽は顔を上げない。それどころか抱きしめる腕の力だけが強くなっていくばかりだった。
「ねえほんとに寝たの? 想楽く……」
「やっと名前呼んだねー」
すると、待っていましたと言わんばかりに想楽は彼女に覆い被さった。酔っていると思っていた彼の顔は、普段通りのようにも見える。分からない、想楽の考えていることが。彼女は彼の下から抜け出そうと、体を捩らせる。しかし、ぐいっと彼女の脚と間に差し込まれた想楽の脚がそれを阻止した。
こんなの、もう。
なんて考えが頭を過ぎるが、彼女はふいっと顔を背けた。
「さっきは子供みたいに僕の名前呼んでたのにねー」
「……覚えてないし」
「じゃあ、もう一回する?」
ぶわりと全身に熱が巡り、体温が上がる。赤くなった顔を隠す術もなく、彼女は震えながら想楽を見つめることしか出来なかった。
「あ、思い出したー?」
「思い出してない! しない!」
彼女は今度こそ想楽の下から抜け出そうとして、体を起こそうとする。しかし、彼の顔がぐいっと近付いて、ぼすっと倒れ込んでしまった。
また、知らないお酒の匂いがする。そんなの当たり前のことなのに。目の前にいる想楽は、もう彼女にとっては他人なのだ。分かってはいても、染み込んだ感覚がそれを認めることを許してくれない。
彼女は、きゅっと目を閉じる。知らない彼に、だかれるくらいなら夢であって欲しいと願ってしまった。
「りおん、好きだよ」
嘘だ、ありえない。そう思っていても、想楽の言葉に期待して、彼女はそっと目を開ける。薄暗い部屋の中で、初めて彼と目が合った。
紅い瞳と、紅い頬。どろどろに溶けてしまいそうな視線に、目を背けたくて堪らない。それでも、想楽から目を逸らすことは出来ず、ゆっくりと近付く彼を受け入れることしか出来なかった。
知らないお酒の匂いは、あっという間に彼女の匂いと混ざって消えていく。
知っている、この匂い。
彼女は、わけも分からず、生理的な涙が頬を濡らした。
「泣かないでよー」
「泣いてないし」
「はいはい、泣いてないねー」
想楽は子供をあやす様に、彼女を抱きしめ、優しく背中を撫でる。ぐすりと鼻をすすると「やっぱり泣いてるじゃん」と笑われてしまった。
*
「はい、水」
「……ありがとう」
アルコールが残った状態で泣いたからなのか、頭がぐわんぐわんと波打っている。手に力が入らず、彼女の手からするりとペットボトルが抜け落ち、そのまま床を跳ねた。
「もうー……」
想楽は、ペットボトルを拾い上げ、蓋を開けた。ありがとう、とペットボトルを掴もうとして手を伸ばすが、握らされたのは彼の掌だった。
想楽の唇が彼女の唇を濡らす。
ごくりと喉を鳴らしたときには、彼の掌は離れていた。
「ん、飲めたー?」
「の、飲めた、けど……」
「けど何ー?」
「飲ませる必要、なかったでしょ」
彼女は手の甲で唇を拭った。知らない、分からない。想楽が何を考えているのか。
彼女は彼から距離を取ろうとして、後退りをするが、後ろは壁である。逃げ道は無い。想楽は彼女の上に跨り、親指でそっと目の下を撫でた。
「キスしたかったから、りおんと」
「い、意味わかんないよ……」
「何でー? 好きな子とキスしたいだけなんだけどなー」
好きの二文字を聞いた途端に、彼女はまたぶわりと全身に熱が回るのを感じた。赤くなった顔を隠そうと、咄嗟に手を伸ばすが、想楽がその手を掴む。
二回目。紅い瞳の彼と目が合う。
そして、もう一度同じ言葉を口にした。
「好き、好きだよ。りおんはー? 僕のこと、好き?」
分かりきっているくせに。優しく目を細めて笑っているが、その顔は彼女の答えを知っている時の顔だ。ただ言わせたいだけ。それでも、今回ばかりは彼女も素直に口にする以外、思い浮かばなかった。
「…………好きだよ」
それだけ言うと、彼女はふいっと顔を背けてしまった。しかし、想楽が頬を撫で彼女の視線を元に戻す。
⎯⎯そのまま影が重なった。
「また、僕と付き合ってくれるー?」
「…………ちゃんと構ってね」
「はいはい、わがままなんだからー」
「は、何!? そんなこと言うならもう知らないからね」
顔を真っ赤にして、文句を口走る彼女だったが、繋がれた手を離そうとすることはなかった。
想楽は空いたの方の手で、彼女の腰に手を回す。彼のどろどろとした甘い視線に気付いた彼女が、想楽の目を手で覆い隠した。
「……い、嫌だよ? 寝るからね?」
「僕も嫌かなー。このまま寝るのは」
「何でよ。もう寝ようよ」
ゆっくりと覆われていた手が離れていき、彼女の顔が想楽の視界に映る。きっと彼女は明日の想楽の仕事を気遣っているのだろう。
けれども、そんな気遣いは無用である。我儘を言って、明日は休みにしてもらった。そうとも知らずに、彼女は想楽に寝るように催促をする。
徐々に面白くなってきた彼は、つーと彼女の背中を指で撫でた。びくりと分かりやすく、跳ねた彼女の身体。耳まで赤く染った顔で、睨まれるが痛くも痒くもない。
想楽は、ぞくぞくとした感情が走るのを覚え、勢いそのまま彼女の唇を食べた。
「……っ、ごめんねー。さっき一つだけ嘘ついたんだよねー」
「嘘……? 嘘をつくことなんて何にも……」
想楽は、にこりと笑って彼女のことを押し倒す。そして、綺麗なままのブラウスに手を掛けた。
「…………まだ、してないんだよねー」
りおんが誘って来たのは、一緒に寝ようって言っただけだよ。
真実を告げると、彼女はさらに顔を赤くした。まるで熟した林檎である。小さな声で最低、と呟く声が聞こえたが、後悔はしていない。
罠にかけ、毒針刺すまで、見定めて。