踏み出すための呪文


こんな紙切れ1枚を提出するのに、どれだけ時間がかかっているんだろう。『進路希望調査』と書かれた用紙をじいっと見つめては、息を吐き出す。ほかの友達はわりと進路を決め始めているけれど、わたしはほぼ決まっていない状態なのだ。
普通科で考えているし、とりあえず1回目の希望提出だし適当に書くか。そう考えて第一希望を記入したところで、「仁科はヒーロー科じゃねぇのか…」とぽつりと呟く声が聞こえた。顔を上げれば、向かいの席に座ってわたしの進路希望調査書を覗きこむ轟くんの姿。



「わ、轟くん!先生と進路の面談じゃなかったの?」
「もう終わった」
「そっか…推薦組は面談開始も早いね」
「まあな」



なんとなく、用紙を手で隠してしまう。轟くんはもう雄英を受けると決めていて、先生との面談も早いうちから進めている。推薦入試というのも大変だなあとぼんやり考えていると、轟くんは「仁科もヒーロー科に行くんだと思ってた」と言ったのだった。



「わたしがヒーロー科?なんで?」
「仁科はヒーロー向いてると思う」
「でも、わたしの水の個性なんてありふれてるし…役に立てる気がしないよ」



そう伝えた声は、絞り出したように小さい。ヒーロー科を受験するなんて、考えたことがなかった。ヒーローはいつもテレビの向こう側の人で、いつも自信に満ち溢れていてかっこいいのだ。そういった存在に自分がなれるかと言えば、とても微妙なところである。俯いているわたしに、轟くんは落ち着いた声でゆっくりと「仁科は、仲良くもない俺を必死に助けてくれたよな」と紡ぐ。



「仁科のそれは誰かのための力だろ」



轟くんのその言葉は、すうっと心に溶け込んでいく。そう言ってくれるのは、素直にうれしい。轟くんの方がすごい個性を持っているのに、わたしみたいなのほほんと毎日を過ごしているような奴がヒーローになってもいいんだろうか。ううんと唸ってみてもその疑問は紐解かれないまま、わたしたちは帰路に着いたのだった。




20220709