なんでもない日だった。
いつものように誰よりも早く学校に行って教室の窓を開けて籠っていた空気を外に出した。そこから今日期限の宿題の残りをやっていく。ちらほらと登校してくるクラスメイトを笑顔で迎えるそんな朝。
よく「小学生なのに大人びてるね」なんて言われる。それもそうだと思いながらその時はわざと無邪気に笑ってごまかした。
私はこの世界に生まれた大人だった子どもなのだ。転生って本当にあったんだ、なんて他人事のように思った。何歳だったかとか、どういう家族構成でどう生きてたかなんてクリアに覚えてはいないがたまに微睡の中でふわふわとした記憶が蘇ってくる。
再び訪れた小学生という立場は思っていたより億劫ではなくて、毎日楽しくて新しいことの発見や懐かしいことを思い出しては1人ニシシと笑うのであった。
トイレに向かおうと教室を出るとそこには慌ただしく駆けずり回る担任教師の姿。
私は思わず声をかけると先生は「これから急遽会議があるんだけど、その関係で1限目の授業の準備出来ないのよ!」と少し私に愚痴るように言った。
きっと半月後にある学芸会に関することで色々とバタバタする時期なんだろうなと大人の私は思った。
「私が出来ることであればお手伝いできますよ!先生!」
「あら、本当に?じゃあお願いしようかしら…!この楽譜、全員分あるんだけど音楽室の席にワンセットずつ置いて置いてくれる…?今日で一旦通常授業終わらせなきゃならなくて…。配ってる時間ないのよ〜」
「分かりました」
「助かるわ〜」と少し半泣きになった先生が早歩きで消えていった。私は託された重いプリントを少し持ち直してそそくさと音楽室に向かったのであった。
***
プリントを持っていて塞がっている手を気にせず肘でドアを開けた。
空気がこもってるだろうな、と予想してた反面音楽室からサッと軽い空気が顔を掠める。私が前を見ると1人真顔でこちらを見て席に座っている男の子がいたのだ。
「ギャアッ!!」
私の変な声だけが響いた。
男の子は驚くことなく真顔のまま「…ノックしなよ」なんて言うから思わず「ご、ごめん…」とか返した。
中に入ろうとしたら自分の両手が軽いことに気づく。恐る恐る下を見ると無惨にばら撒かれたプリント達。「ジーザス…」と小声でこぼすと男の子は溜息をしてこちらに近づいてきた。
「あ、ご、ごめんこれじゃ出られないよね…プリントを飛びこえてもらって良い?」
「違うよ」
「え、何が?」と思うのと同時に男の子はしゃがんでプリントを集めてくれた。慌てて私も手を伸ばすと「これ、5ページ1セット?」と男の子が聞いてきて知らんけど何回か頷いた。続けて「もしかして席に並べる感じ?」頷く。「わかった」私はありがとうと笑って返した。
男の子のおかげで高速でプリント用意が終わる。時計を見るとまだまだ余裕の時間。私は改めて男の子に声をかけた。
「本当にありがとう!凄い助かった!」
「別に、視界の横で作業してるところいるの気まずかったし」
「そ、そうだよね確かに…」
「そういえば何してたの?」と男の子に聞くと彼は「…勉強。ここだと防音だから静かだし、風が吹くと気持ちいいから」と自分がいたところに戻って片付けを始めた。
「そっか〜」なんて言いながら私は目の前にあったグランドピアノの椅子に腰を下ろした。
やってみたいことがあった。
実はこの前ふと思い出した事があるのだ。
今の私は習ったことのないこのピアノ。
前世の私はピアノが弾けたのだ。
学校が休みの日、母親と出掛けたらいつもより帰宅が遅くなった時があって、少し暗くなった道を2人歩いていたら駅に近い広場で名の知らない女の人がキーボードを弾きながら歌っていた。ちらほらと立ち止まって聴く人、ベンチに座って携帯をいじる人、眼中にさえ入れず話に盛り上がる若い人達、その中にポツリと存在して音を発する人を見て思い出したのだ。
私は、ピアノを弾くのも歌を歌うのも大好きだったんだ、と。
少し息を吸って、吐いた。
男の子のおかげで澄んだ空気の入った音楽室がとても心地よく感じた。
指を置き動かす。
「…あ、あれ…?」
頭の中では分かっているのに体が上手いこと動かなかった。断片的に鳴る音は控えめに言っても良いものではなくあからさまに素人が面白がって弾いているものに近くて。私は思い切りダーーンッ!と両手を強く押して頭を抱えた。
そりゃそうか、この体は今この時生まれて初めてピアノを弾いていて、なんなら子どもだし、指の長さも全然違うし。
頭の中で出来なかった事へ理由つけて唸っていると後ろから声が聞こえた。
「…何してるの?」
「…ピアノ弾こうとしたの」
「習い始めたの?」
「ううん、今初めて触った」
「…」
男の子が私の横に立っていた。
私の答えは理解できるものではなかったらしく眉を顰めて「なんだコイツ」と言いたそうな顔をしている。
わかる、わかる、私もそう思う。でも私はいけそうな気がしたんだ…。
なんだか恥ずかしくなってきて、ひょいっと椅子から降りると男の子に「わ、忘れて」と行って教室に戻ろうとした。なんだかんだいい時間だ、と時計を見ていると後ろからポロン…と優しい音が聞こえてきた。
「え、君、弾けるの!?」
「少しだけだけど、うん、弾ける」
「すごーい!」
思わず手をぱちぱち鳴らして頬が緩んだ。すると男の子は少し照れたのか視線をずらしてゆっくり優しく弾き始めた。
「あ、これこの歌知ってる!最近テレビで聞いた〜!」
「…塾の友達が好きって言ってたから」
「へー、センス良い〜」
「………」
優しく、きっと塾の友達を思い出して弾いてるんだろうなって、大好きなんだなって伝わる音で男の子の手から生まれるそれは、純粋で胸がくすぐったくなるような感じがした。
私は小さく口ずさむと男の子が少し視線をこちらに向けてすぐピアノに戻した。そこからまた私は声を出してメロディーに合わせて歌った。
すると、男の子はピアノをメロディーから伴奏に変えたのだ。
まるでそこは私と男の子2人だけの世界みたいで。私は声に今の楽しさを込めた。きっと男の子はその音に塾の友達への気持ちのせていた。
混ざり合ってるようですれ違ってるそれは誰もいない音楽室に響いた。
「わぁ〜!楽しかったね!ね!」
「…歌上手いね」
「ほんと!?初めて言われたうれし〜!」
「…」
「君合唱コンとか伴奏とかしてたの?」
「してないよ、放課後は塾だし。ピアノの練習とかする時間つくるの面倒だし」
「えー…超最高だったから立候補すればよかったのに…」
と、話していると朝の会が始まる5分前ということに気づいた。慌てて男の子と音楽室を出る時に私はその腕を掴んだ。
「あ、あのさ、名前なんて言うの?」私は、と自分の名前を言って相手の返答を待った。チラリと私の顔を見て視線を逸らして小走りのまま男の子は口を開ける。
「稀咲鉄太」
その瞬間、私の頭にふわりと彼の未来が蘇ってきた。