稀咲くんは本当に朝来なかった。
音楽室の扉を開けるとモワリと特有の香りを浴びた。私はそのまま歩いてカーテンを開いて窓を開けた。
今日は雨。
ザーザーと振ってはいないものの傘をささなければちゃんと濡れてしまうくらい降っていて、じめりとした空気が自分を包み込んだ気がした。気持ちの悪い男の体温を思い出してバンッと窓を閉めた。そしてそのままズルズルと下にしゃがみ込む。込み上げてくる吐き気と震えに涙が出そうになった。私はポケットからハンカチを取り出して口元に持ってくる。
ふわりと小さく残っている彼の匂いと一緒に頭の中で静かに響いた。
『もう、大丈夫』
その瞬間に体の力がふっと抜けた。
土日で私はひたすら寝た。変に生暖かいものに触れると思い出して体調が悪くなるからだ。でも、稀咲くんから与えられたこのハンカチを持っていると大丈夫だって思えて、強くなれることを知った。
そしてまた、私は知った。
自分は彼にとって周りとは違う存在だけどただそれだけの人間だってことを。私は彼に沢山を望んではいけないし期待をしてはいけない。
私はこの時この瞬間だけ稀咲くんの記憶のどこかに触れられればいい。その気持ちにマイナスなところは不思議ともう浮かばなかった。私の心の底にストン、収まったのだ。
「気づいちゃったけどあと5日ぽっちなんだ………」
ぽそりと声が出た。
稀咲くんと出会って初めての土日を経験したものの、次の土曜日にはもう学芸会だ。もうこの特別な朝の時間は終わってしまうんだ、と寂しくなる。
ガチャと誰かが扉を開ける音がした。
ハッとそこを見ると先生がいて「あら、今日は練習お休み?」と首を傾げた。私は「今日稀咲くん来れないみたいで」というと先生は演奏を聞こうと思ってたのか残念と肩をすくめるのであった。
「もう少しで本番ね…クラスの合唱もラストスパートで練習していきましょうね」
微笑みながら言う先生に私はちょっとだけ微笑んで首を縦に振った。
先生は少し私を眺めた後、目を潤ませて私のことを抱きしめ「…またあなたにこうやって会えて話せて本当に良かった。怖い思いしたわよね、本当に良かった…」体を震わせる先生を始めてみて私は戸惑いながらも先生の背中に手を回してぎゅ、と力を込めた。
「稀咲くんが、助けてくれたから」
そう口から出た瞬間に私は胸がいっぱいになった。それと一緒に涙も溢れてきた。
さっき心の底に落ちていたものがまた這い上がってきそうになっていた。寂しい、学芸会が終わっても君と話したい、君が私をちゃんと認識しなくたっていい、君とちゃんと友達になりたい、沢山沢山溢れてきた。私はヒーローと友達になりたい。寂しい時に一緒にいて、喜びを分かち合い、今度は困っている時に助けたい、沢山沢山溢れた。それが今この瞬間にしかないのなら学芸会なんてこなければいいのになんて思った。
先生は涙を拭いて「年甲斐もなくごめんなさい…思い出させちゃったわよね…」と勘違いしていたから私は慌てて否定するとその動きが面白かったのか先生は笑ってくれた。
えんやこらと話は進んで先生が伴奏して私が歌うことになり、いつもと違う音にソワソワしつつも声を出した。
いつの間にか開いていた窓からは相変わらず気持ち悪い空気が入ってくるが歌を歌えばもうどうだって良かった。先生の音は稀咲くんとは違う真っ直ぐな音をしていた。私を誘導してくれるような、身を任せてもいいと安心できるような音をしていた。
でも、…でも、私は稀咲くんの音が好きだ。そう思うと会いたくてたまらなくなった。
そう願った瞬間、ガチャっと勢いよく音楽室の扉が開く。私と先生は止まってその方を見た。するとそこには来ないと言っていた稀咲くんが息を乱しながらいた。喜びというか驚きの方が勝って「き、稀咲くん!?」そう言うと彼は私達を見てどこか戸惑うような顔をした。
「あら、稀咲くんおはよう」
「お、はようござます…」
先生が声をかけるとハッとしてから返事をするがその声は尻すぼみになる。どうしたんだろうか、と静かに稀咲くんを見ているとパチリと目が合った。
瞬間、写真立ての中にいる稀咲くんが頭の中に映し出された。
違和感。それだけだったが、スッと下を向いて考える。なんだ今の記憶は。どこでそんな写真を見たんだろうか。そう必死に思い出そうとしていると先生に声をかけられた。
「そうだ!貴方達にこれあげるわね」
先生はどこからかラジカセを持ってきた。
学校の備品にしてみれば新しいそれを近くの机に置いて、音楽室の隅にある棚から一つ封が切れてないカセットテープを取った。それを私に渡して私と稀咲くんを交互に見ながら話し始める。
「これ、カセットテープ。新しいのあげるからこれに貴方達の歌とピアノを記念に録音してみたら?案外撮ったもの聴くといつもより違うように聞こえて楽しいし、記念に残るわよ」
そう言って先生はポンと稀咲くんの肩に手を置いて音楽室を出て行った。
私はそういえばどうしたのか、と稀咲くんに声をかけると彼は難しい顔をしながら私から目を逸らした。その様子に何かあったのかなと思いつつ「…まだ、もう少し時間あるから録音する?」そう小さく聞くと彼はゆっくり私の方を見て眩しそうな顔をしてランドセルをおろし始めた。
私は弾いてくれるんだ、と嬉しくなってコンセントを探すように振り向くと窓の外は晴れていた。