黒尾×火遊び×「キスしても良いですか?」紫苑




「なまえってさ、黒尾さんに対して冷たいよね」

「……え?」



休憩室に設置されているお気に入りの紅茶が、突然の話題で手元から滑り落ちそうになった。

慌てて手元に力を入れれば紙コップが落ちることは無かったけれど、動揺が落ち着くことは無い。

まさか休憩中にその名前を、自分に向かって聞くとは思っていなかったから油断していた。

どういうつもりで聞いたのかなんて、多分目の前にいる友人はただの気まぐれで、きっと私が思っているほどに深刻なことではないのだろう。



「よく話しかけられてるけど反応が薄いっていうかさー」

「そんなこと、無くない?今はチームが同じなだけだし」

「えー?でも他の子だったら同じチームになっただけで発狂もんだよ?」

「趣味は人それぞれってことでしょ」



心の中の動揺とは別に、口からはすんなりと思ってもいないその場しのぎの言葉が出てきて自分でも驚いた。

あまり嘘をつくことは得意ではないけれど、人間窮地に立たされると何でもできるものだ。

だけど半分ほど食べていたご飯を口に運んでみたが、なかなか喉を通らない。先程潤したはずの喉が渇いて、変な感じがする。



「黒尾さんタイプじゃないって珍しいよね。仕事はできるし背は高いし優しいし格好良いし面白いし、絶対1度は惚れるよ」



営業でトップの成績を誇る黒尾さんは、女性社員の注目の的である。

どんな大人数で歩いていたってそこに黒尾さんがいれば、女性社員の視線は黒尾さんが独占していると言っても過言ではない。

元々顔が良い上に仕事もできる。だけどそれを鼻にかけることはなく誰に対しても優しいあの性格からして、まあモテるのは頷ける。

私だって、入社当時はそれは憧れたものだ。この人のようになりたいと、この人のサポートができるような、隣に立てる女になりたいと頑張ったことだってある。

――だけど。



「あのねえ、あの人既婚者なんだからね。知ってるでしょ?」

「知ってるよ?だから《1度は》って言ってるじゃん?あの人の左手薬指を見て、何人の女の子が涙を流したことか」



そう、彼は既婚者なのだ。

どれだけ努力したところで、彼の隣に立つ女性は既に決まっていたのだ。

憧れはしょせん憧れで終わるもので、私だってその事実には数日立ち直れなかった過去がある。……誰にも言ったことはないけれど。



「まあ涙を流すくらいなら良いよね?うちの子達って結構、ワンチャンあるんじゃないかみたいな子も多いみたいだし」

「ワンチャン?」

「ワンナイトラブって言うの?黒尾さんなら遊ばれたいって子、多いよ」

「……バカバカしい」



ため息混じりに、氷が溶けて少し薄くなった紅茶を一気に飲み干す。

なんだかやりきれない気持ちを隠すように、氷を口いっぱいに詰め込んで思い切り噛み砕いた。

あまり、黒尾さんのことは考えたくない。ただでさえ毎日顔を合わせなければならないのだ、休憩中くらい忘れさせて欲しい。



「なまえは真面目だもんねー。でも、そういう真面目なところが彼氏できない要因だよね」

「うるさいなぁ。ほっといて」

「みょうじー」



適当に返して話題を変えようとしたところで、タイミング悪く休憩室へと入ってくる黒尾さん。

その場にいた女性全員が、ざわりと黒尾さんへと注目したのがわかって胸が締め付けられた。

私の名前を呼んでいる。そんなことに優越感を感じることも、最近は無くなってしまった。

一瞬返事するのを躊躇って、それでも黒尾さんの瞳がまっすぐ私を見ていることに諦めて「どうしたんですか」と声をかける。



「休憩中悪い、午後からの会議についてミーティングしたいんだけど、空いてる?」

「大丈夫です」



当たり障りのない返事をすれば、黒尾さんは満足したように目を細めて笑った。

そういう笑顔すらズルいということを、きっと彼は自分で理解していない。なんて心臓に悪いのだろう。

はやる気持ちを抑えながらまだ残っているお弁当を包み直し、席を立つ。



「あんたのチーム、やっぱ大変そうだねー。なまえ、結構頼りにされてるっぽいし」

「そんなこと無いよ。じゃ、お先」



軽く手を挙げて友人と別れ、出入り口で待っていた黒尾さんと合流する。

ちらりと目線が合えばそれだけで心臓が高鳴って、もう一度「悪いな」と謝られてしまえば返す言葉は喉の奥へと流れてしまった。

黒尾さんの隣を歩くだけで突き刺さる視線はあまり心地良いものではないけれど、彼は普段からこの視線を受けて尚も堂々と歩いているのだと思うとやっぱりどこか尊敬できる人なのだと思わされる。

会議室という密室へ足を踏み入れれば、突き刺さっていた視線が消えて肩の荷が降りる。

以前は彼の隣を歩きたいと思っていたのにも関わらず、こうしていざ隣を歩いてみると胃が痛くて仕方ない。

奥さんになった人は、そういうのを乗り越えて黒尾さんと結婚したのだろうか。なんて、自爆してみた。



「会議についての書類なら先日お渡ししましたよね?何か不備が……、ちょ、」

「あー、疲れた。営業周りで身体クタクタだわ」



会議室の椅子に座ろうとしたところで、ふわりと身体が宙に浮く感覚に変な声が出る。

だけどお腹に回った逞しい腕と背中に感じる温もり、首筋を這う吐息が私が転んだわけじゃないということを教える。

耳元で聞こえる黒尾さんの声に身体が反応しそうになるが、忘れてはいけない。ここは会議室。つまり職場なのだ。



「ちょっと、仕事中ですよ」



黒尾さんに向き直れば胸元に落ちてきた頭に、ため息をつきながら押し返してみる。

だが私と黒尾さんの体格の差からいって私の力が黒尾さんにかなうわけもなく、その身体はビクともしない。



「相変わらず真面目だねー。良いよ、俺お前のそういうとこ好き」

「からかわないでくださ、っ、黒尾さん!」



ざらりと首筋に感じた熱い感触が黒尾さんの舌だと気づくのは一瞬で。

慌てて振り払おうとしても、そのまま耳を舐めあげられてしまえば抵抗する術がない。

それがずっと憧れていた人であれば、尚更。

ダメだとわかっている。こんなことをしたって私は幸せにはなれない。

何度も自分に言い聞かせたけれど、身体は言うことをきかない。



「大丈夫、鍵かけたから」

「そういう問題じゃ――」

「なまえ」



仕事中よりも低く、それでいて甘い声が私の鼓膜を伝って、脳を支配する。

もう何度目かもわからない敗北に、私はまた後悔することをわかっていながら抗うことができない。

どうして黒尾さんとこういう関係になってしまったのか。思い出そうとしてももう覚えていないのは、それが自分にとって嫌な記憶だからだろうか。

あれだけワンナイトラブをバカにしておきながら、私だってじゅうぶんバカな女の一人なのだと自覚しては自己嫌悪に陥りそうになった。



「はー、なまえの匂い落ち着く」

「……黒尾さん、もう、」

「も−少しだけだから。良い子にしてろ」

「っ、」



ああ、どうしよう。好き、好き。

その切れ長な瞳で射抜かれるのも、薄い唇が肌を這うのも、骨ばった指が触れるたびに熱をもつのも、全部全部、好き。

こういうことをするのが私だけじゃないことなんてわかっている。私のスカートをめくる彼の左手薬指に填められている指輪だってちゃんと見えている。

だけど、どうしようもないじゃないか。好きなんだから。この気持ちに嘘をつけない。

家で待っている奥さんのことを考えては胸が痛むけれど、だけどそれでも、この人が欲しい。



「黒尾、さんっ……」

「お、物欲しそうな顔になったな。普段真面目なふりして俺のこと冷たくあしらうくせに、2人のときはそういう顔しちゃうなまえ、可愛い」



にやりと口元を歪めて、いいこいいこと私の髪の毛を撫でた。

衝動が、抑えられない。



「キス、しても良いですか?」



触れたい。もっと、もっと。

一瞬だって良い。あなたの愛を感じさせて。愛されていると錯覚を起こさせて。

私は他の女達とは違うと思わせて。お願い。黒尾さんの特別な女だと、思わせて。

スーツを掴んで力任せに引っ張り、その勢いを利用して黒尾さんの整った顔へと急接近した。

だけどその唇は合わさることなく、黒尾さんの綺麗な手によって阻止された。ふわりと当たった黒尾さんの指にときめく暇も無く、黒尾さんを見上げる。



「時間切れだ」



いつも通り楽しそうに、だけどどこか悲しそうに言った彼に、私はNGワードを踏んでしまったことを悟った。

しょせん私は彼の中での暇つぶしにすぎなくて、大勢のなかの1人であった。

決して特別なんかじゃなくて、そんなの、彼の左手薬指で輝く指輪を見れば一目瞭然であったのに。

どこか、特別になれている気がしていた。一歩とは言わない。周りの女よりも半歩前を歩いていると思っていた。

だけれどそれは決して一番ではない。これは、調子に乗った天罰なのだ。

大人しく身体だけの関係でいれば良かった。都合の良い女でいれば良かった。そうしたらもっと、黒尾さんの傍に居れたのだろうか。

なんて、どうしようもなく惨めな考えをしてしまう。

そんな考えをいくらしたところで現実は巻き戻すことなんてできなくて、私も彼も前に進むしかないのだ。



「さようなら」



最後にそう言った私は、ちゃんと笑えていただろうか。

2017.09.04 紫苑