黒尾×火遊び×「キスしても良いですか?」みつ




 バイトからの帰り、乗った満員電車の窓からぼんやりと景色を眺めていた。車内に流れるアナウンスが次の駅を告げ、停まる。やっと次が家の最寄り駅だ。そんな事を考えながらなんとなく向こう側のホームを眺めて、そして目に入った光景に体を巡る血液が一気に温度を失っていくような感覚がした。無意識に握った拳が震える。心までもがひやりとして、なのに眼だけが熱くて、しかし無情にも動き出した電車を止めることは出来ない。
――はやく、はやく。
 零れそうな涙を押しとどめながら、一秒でも早く電車が駅に着くことを願う。
 アナウンスがあり、開く扉。ほとんど駆け出すように電車を降りる。
――早く、人のいないところへ……。
 改札を出て、走って、走って、誰もいない夜道。
――もうダメだ……。
 近くの公園に入ったところでついに涙がぽろぽろと零れた。涙が眼の淵から地面に吸い込まれていくのと一緒に力が抜け、その場に座り込む。
 絶望の淵。それも初めてじゃない。けれど何度経験したって慣れる事なんてない痛み。
 彼の浮気現場を見てしまった。向こう側のホームで彼と腕を組む派手な女。人目も憚らずその女とキスをした彼と目が合った。なのに彼は、慌てることもなく、誤魔化すこともなく、ただそこにいた。今も携帯電話には言い訳の一つも送られてきてはいない。あまりにつらかった。私には言い訳すらしてくれないのだ、もう。
 立ち上がれずにどれくらい時間が経っただろう。涙はとめどなく溢れ続ける。
「あの、大丈夫っすか? 体調でも悪いんですか?」
 ふいにかけられた声に心臓が跳ね、思わず振り向く。
「え、みょうじ先輩?」
「黒尾……」
 そこに立っていたのはゼミの後輩だった。私の涙に気付いて黒尾が驚くのが分かる。
「あの、先輩……」
「なんでもないの!」
 思わず黒尾の言葉を遮ってしまったが、涙の理由なんて話せる訳がなかった。こんなこと、話したくない。
「ほんとに、なんでもないの。ただちょっと、コンタクトがずれただけっていうか……」
 自分でも呆れる程下手な言い訳だ。黒尾も微妙な顔をして聞いている。けれど黒尾は一つ息をつくと、その大きな掌を私の頭に乗せた。
「わかりましたから、とりあえずそこのベンチ座ってください。服も砂だらけじゃないっすか」
 黒尾は私をベンチに座らせると、すぐそこの自販機で水を買ってきて差し出した。
「これ飲んで落ち着いたら送ります。この辺、この前も痴漢でたらしくて危ないので」
「ありがと……あの……」
「別に言いたくなけりゃ言わなくていいっすよ。言いたくなったら聞きますけど」
 落ち着くまで傍にいると言ってくれる。話さなくていい、でも話してもいいよと言ってくれる。傷ついた心にその優しさが染みて、私はみっともなく後輩の隣で泣き続けた。

 どんなにつらくても変わらず朝がやって来て新しい今日が始まる。必死に日常をこなし、今日とっている授業が終わってバイトに向かう途中、携帯がメッセージの受信を知らせた。彼からかと期待したが、表示されたのは昨日私を家まで送ってくれた後輩の名前だった。
『今日もバイトありますか?』
 それに肯定する返信をするとまたすぐに携帯が鳴った。
『何時に終わりますか?』
 それに二十一時と返信する。
『じゃあその時間に駅で待ってます』
「は?」
 訳が分からなかったが、その後黒尾からの返信は無かった。
 昨日は結局散々愚痴を吐き出してしまったので顔を合わせるのは気まずい。けれど待っていると言われたきり返信がない以上、私にそれを回避する術はなかった。

「卑怯者」
「何がっすかー? 人聞きの悪い」
「黒尾が返信よこさないから黒尾と会うはめになった」
「えー、そんなに俺に会いたくなかったんすかぁー? みょうじ先輩ヒドーイ!」
 目の前でふざけている黒尾は、宣言通り駅で待っていた。私の非難もへらへらと笑って受け流す。
「で、何の用?」
「別に用は無いっすよ」
「はぁ? じゃあ何?」
 用もないのに私を駅で待っているなんて、目的は何なのか。
「家まで送ろうと思って」
「え?」
 意外な答えに戸惑っていると、黒尾は呆れたように続けた。
「昨日この前痴漢が出たばっかりだっていったでしょ。ほんと、夜に女性の一人歩きは危ないっすよ。俺も同じ駅が最寄りなんで、夜遅くに帰る時は言ってください」
「黒尾って意外に紳士……」
「ボクは正真正銘紳士ですぅー!」
「……」
「なんすかその眼は!」
「胡散臭いなぁって」
「失礼しちゃう!」
 本当は優しいのも紳士なのも知っている。今だって、車道側を歩いてくれていることも、歩く速度を私に合わせてくれていることも。
「彼氏サンとは話ついたんすか?」
「なーんにも。さっき連絡はあったけど」
「なんて?」
「今度の休みはラーメン食いにいこーぜーって」
「はぁああ? それで?」
「わかったーって返しといた」
「先輩って馬鹿だったんすねー」
「うるさいなー」
 好きなのだから仕方がない。何回裏切られても、私は彼から離れられないのだ。きっと彼もそれを分かっている。
「舐められてますねー」
「ほっといてくださいー」
 黒尾と歩く家路はあっという間だ。マンションの前で別れを告げる
「送ってくれてありがとね」
「いーえー。ボクは優しい紳士ですから!」
「ほんとにね。おやすみなさい」
「オヤスミナサイ」
 黒尾は満足そうに笑った。

 それからはバイトがある日は黒尾が家まで送ってくれた。黒尾は一度も家に上がったことはないし、もちろん二人で遊ぶこともなかった。ただ家まで送ってもらう、本当にそれだけ。
 相変わらず私は彼と別れてはいなくて、幸せで苦い関係は続いている。
「先輩、まだあの人と付き合ってるんすか?」
 いつもの調子で軽く聞いてくる黒尾に、ため息と共に答える。
「付き合ってるよ、一応ね」
「一応って、また浮気っすか? もう、やめればいいのに」
 黒尾の前で泣いてから一ヵ月半。あんなに泣いて、それでも私はまだそこにいる。
「やっぱり、好きだから……」
 彼に“別れる”と言ったことが無い訳じゃない。でもそう言うと彼は泣いて縋るのだ。
“ごめん”
“本当に好きなのはお前だけなんだ”
“俺を嫌いにならないで”
“こんな俺を本気で愛してくれるのはお前だけだよ”
“俺を見捨てないで”
 必死で彼が紡ぐ愛の言葉は、まるで呪いみたいだ。でも私は、そんな彼をまだ愛している。
「ほんと、ばかじゃねーの」
「知ってる」
 馬鹿にして笑う黒尾に、私は苦笑いを返すしかない。
「まぁ、程々にしなさいネ」
「ありがと。じゃあ、おやすみ」
 いつも通りだった。いつもみたいに家路を辿って軽口を交わして、マンションの前でおやすみって言って、それで終わるはずだった。けれどその日は違った。
「あのさ」
呼び止められて振り向くと、黒尾はもう笑ってはいなかった。
「別れる別れないとか当人同士の問題だし、俺が口出しする事じゃねーのは分かってるけどさ。やっぱりよくねぇんじゃないっすか?」
「なぁに、急に」
 誤魔化すように笑って見せる私に、黒尾は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「これは言うか迷ってたけど……。浮気だけじゃないだろ、ほんとは」
 ああ、やっぱり、気付かれていた。
「腕とか、毎回違うとこについてる痣。それって」
「私そろそろ行くね。黒尾も気を付けて帰って」
「ちょっ……」
――ごめんね、聞きたくない。
 私は黒尾に背を向けると逃げるようにマンションに入った。
 甘えていた自覚はある。傍にいてくれて、話を聞いてくれて、本当に触れて欲しくないところには今まで触れないでいてくれて、優しくしてくれる。それが何故なのか私は気付いているのに、分かってて黒尾に甘えていたのだ。優しくされたいから、彼の気持ちを利用した。なのに自分に都合の悪い事は聞きたくなくて逃げた。
「性格わる……」
 きっともう、二人で会わない方がいい。
――私は彼と別れられないんだから。

 それから二週間、私は黒尾と会わないように過ごした。大学でも黒尾を避け、バイトのシフトも変えた。こんなにも簡単に変えられる事もあるくせに、私は相変わらず彼に会いに行く。
「もうご馳走様でいいの? 食器下げるよ?」
「おー」
 久しぶりに彼の部屋で料理を振舞うが“ご馳走様”すら言ってもらえない事が寂しい。
――黒尾なら……
 そこまで考えて思考を止める。考える必要の無い事だ。余計な事は考えず、ひたすら食器を洗い、後片付けを済ませる。
「なぁ、今日泊まっていくだろ? 先に風呂入れば?」
 泊っていく、いつもなら。
「あー、明日提出の課題終わって無くてさ。これ落とすとやばいから今日は帰るよ」
 嘘だ。
 彼は一瞬嫌そうな顔をして、けれどすぐに携帯をいじり出した。
「まぁ、別にいいけど」
 私に向けられたのはその一言だけ。きっと、他の女でも呼ぶのだろう。彼の部屋を出る時、背中で扉が閉まる瞬間まで、電話で楽しそうに話す彼の声が聞こえていた。
 日曜日の駅はいつもと雰囲気が違う。いつもならこの時間は帰宅するサラリーマンでごった返しているが、今日は家族連れが多い。
 電車に揺られながら目を閉じる。
 痛い程の悲しさは確かに感じている。それでもまだ彼を愛している。けれどもう、涙は流れてこなかった。
「せーんぱい」
 改札を出たところで聞き慣れた声に振り向けば、不満そうな顔をした黒尾が立っていた。
「なんで……」
「あのね、確かに出過ぎたこと言ったのは謝りますけど、いきなり避けまくるのは酷すぎなんじゃないっすかぁー?」
 久しぶりに会うのに、至っていつもの黒尾だ。
「ご、ごめん?」
 黒尾の調子に引っ張られてつい謝ってしまう。
「後輩イジメはんたーい!」
「別にイジメた訳じゃ……」
「避けまくって連絡無視するのが?」
「ごめんって!」
 むすっとしたままの黒尾にもう一度謝る。
「ねぇ、ごめんね?」
「……。まぁ、俺も余計な事言ったし? 許してもいいですけど?」
「うん」
「また送らせてくれます? それも嫌になったなら大人しく引き下がりますけど」
「嫌じゃないよ、ただ……」
「もう、余計な口出ししませんから」
 黒尾は真っ直ぐ私を見据えて言った。
「別れるも別れないも、みょうじ先輩のすきにしていい。俺も、俺のしたいようにするから」
「……うん」
 黒尾がどういう意味を込めて言ったかわかっていたけれど、私は黒尾と一緒に家路を歩いた。久しぶりに交わした黒尾との軽口が嬉しかったから。
 黒尾はすぐに確信に触れてきた。
「気付いてると思いますけど、俺、結構本気でみょうじ先輩のことすきなんですよねー」
 何でもない事のように発せられた言葉は、けれど改めて私に何かを突き刺すような響きで届いた。
 静かな夜道、アスファルトには街灯に切り取られた影が二つ。昼間にはまだ蝉がうるさいくせに、夜には秋の音が聞こえてくる。
 変わっていく、何もかも。きっと永遠に同じものなんてこの世にはない。
「黒尾……」
「別に、先輩が俺に靡いてくれるとは思ってないっすけど。まぁでも、あの人と付き合い続けるのはどうかと思いますけどねー」
 黒尾は笑って、私の少し前を歩く。ここからその顔を見ることはできない。私もあえて見えるところに並ぼうとは思わなかった。

 次の日、バイト帰りの電車の中で痛いほど周りの視線を感じていた。
――まぁ、この顔じゃあね……。
 周りの視線は私の左頬にできた大きな痣に向けられていた。でもこれは勲章だ。だから気にしない。
 バイト先の人たちはビックリさせてしまって申し訳なかったけれど。今日は帰って休めと言われたが、見た目ほど痛くないので働かせてもらった。流石にホールには出れなかったが、キッチンならお客様からも見えない。
 こんな顔で黒尾には会いづらいから送ってもらうのは断った。“今日は飲み会が入って友達の家に泊まる事になったから送りはなしで”と送ると“わかりました”とだけ返信が入った。一週間もすれば痣も消えるだろう。しかし大学を一週間も休むのはキツイ。なんとか方法を考えなくては。
 そんな考え事をしていたら改札をでたところで前の人にぶつかってしまった。
「す、すみません」
――あぁもう、一生懸命無い頭を絞って考えてたのに、神様は意地悪だ。
 ぶつかった人物が振り向く。できれば今いちばん会いたくない相手だ。
「あれ、みょうじ先輩? 今日は飲み会って……」
 振り向いた黒尾が目を見開いた。
「その顔……!」
 そこまで言って黒尾は溜固まってしまった。きっと、私に“もう口出ししない”と約束したから、何も言えないのだろう。私も今、黒尾になんて言ったらいいのかわからなかった。
 私が何も言えずにいると、黒尾は深く深く息をはいてから、貼り付けたような笑みを私に向けた。
「とりあえず、送ります」
 黒尾は怖いくらい私の顔の痣にも、彼の事にも触れなかった。ただ他愛無い話を私に振っては、いつもみたいにへらへらと笑っている。私はただそれに流されるように曖昧に笑うしかなかった。
「あの、送ってくれて、ありがと……」
「いーえー。ボクは優しい紳士ですから!」
 マンションの前でお礼を言うと黒尾はいつかみたいな台詞と一緒に笑った。
「じゃあ、おやすみ」
「まあ、もう紳士じゃないか」
 小さな黒尾のつぶやきに、マンションに向かっていた足が止まる。いや、私が止まったわけじゃない、黒尾が止めたのだ。背中に感じる体温、私のお腹に回された腕、耳元にかかる息。
「せーんぱい。俺と火遊びしません?」
 いつもみたいなへらへらと軽薄な声。
「みょうじ先輩いっつも辛そうだから見てるこっちまで疲れちゃうっすよー。だから俺と息抜きでアソビましょ。ね?」
 声が出ない。いつも通りに笑う黒尾の声が、いつも通りじゃない事が分かってしまうから。
「ねぇ、キスしてもいいですか?」
 耳元で低く囁かれた言葉に身を捩り、黒尾と向かい合う。黒尾の顔は悲しそうに、苦しそうに歪んでいた。私が、あの黒尾にこんな顔をさせている。私は酷いやつだ。
――苦しそうな黒尾を見て、胸が鳴るなんて。
「……黒尾、かわいい」
 黒尾の頬に触れる。その頬をするりと撫でた私の手は、すぐに大きな手に捕まってしまった。
「逃げ場でもなんでもいい。全部、俺のせいにしていいから……」
 黒尾は苦しそうなまま、私に口づけを落とした。
 ああ、きっと“愛しい”ってこんな感情だった。
 私は長らく忘れていたのかもしれない。“愛しい”という感情がこんなにも切なくあたたかなものだったということを。私を殴って、蔑ろにして、それでも彼を見限れない私の気持ちを愛情だと錯覚していた。
 黒尾は今、どんな気持ちだろうか。
――ねぇ、今日彼とお別れしてきたんだよって言ったら、どんな顔をする?
 大きな体に強く抱き締められながら、きみを愛しいと思う。でもまだ私の為に泣くきみを見ていたいから、真実を告げるのはきみが泣き止んでから。

2017.09.04 みつ