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朝練後、早々に着替えを終えた虎が興奮した様子で何かを語っていた。どうせくだらないことだろうと無視を決め込み、クロや夜久くんに任せて黙々と着替える。それでもなお続く虎の演説は部室のドアの前で行われていて、気配を消しその横を通り抜けようとしたが、あえなく見つかり腕を掴まれてしまった。
「聞いてたか研磨!」
「聞いてない興味ない」
どうでもいいから離して、と言っても解放されることはなく、虎の暑苦しい話は続く。
なんでも今朝登校中に前を歩いていた女性が、髪を結ぶべく持ち上げたところで、ふわりとその香りが漂ってきて、……その後の日本語は興奮しすぎててよく分からなかったけどとにかくやばかったらしい。ほら、やっぱりどうでもいい話だった。
「ああでも女の人が髪を結ぶ仕草ってちょっといいよな」
「あっれ〜? やっくんショート派じゃなかったあ?」
「うっせぇな! それはそれだろ」
本来ならいつまでもお喋りを続ける虎を注意する側の二人まで「まぁ分かるけど」なんて言い始めて、気づけば女性のどんな仕草が好きかという論争に発展していた。犬岡は「俺もそれ好きです」なんて乗っかるし、リエーフは「唇舐めるのとかエロくないすか!」と馬鹿な事を言っている。もうそろそろ行かなきゃ予鈴鳴るんだけど分かってるのかな。
「ねぇクロ、予鈴」
「あー? お前はなんかねぇの?」
「はあ?」
「研磨のそういう話珍しいな!」
「いや、だから、そろそろ行かないと」
「そもそも研磨って好きな子とかいたことあんの? 黒尾知ってる?」
「さあ、どうでしょうねえ」
「ねぇ、いい加減にして」
捕まれた腕を勢い良く引けば、意外とあっさりと離れた。その隙に脇を通って部室を出る。背後でドアの向こうからドタバタと騒がしい音は聞こえるけど、それも無視して一人校舎に向かった。昇降口に着いた頃に予鈴が鳴って、遅刻して部で連帯責任なんてことにならないようにだけ祈った。
朝から面倒くさいことばっかりだったけど今日は体育まであるのか。最悪だ。できれば部活以外で体力消耗したくないのに。
着替えを終えてグラウンドに向かう。なるべくその他大勢に紛れて目立たずに済むように選んだサッカーは一番広いグラウンドで、その脇にあるテニスコートでは女子がテニスをすることになっている。
きゃっきゃと騒ぎながらそんな女子たちが後ろからやってきて、とぼとぼ歩く俺を追い抜いて行く。話に夢中になっていておれが見えていなかったのだろう。そのうちの一人と肩がぶつかってしまった。
「あっ、ごめん」
「……うん」
反射的に振り返ったのは同じクラスのミョウジで、謝罪の言葉を口にしながら「なんだ孤爪くんか」と笑う。
「ぼーっとしてたらボール当たるよ」
「大丈夫」
「そっか、バレー部だもんね! 避けるの得意?」
「……まぁ普通」
ミョウジはクラス替えしたばかりの四月のオリエンテーションで同じ班になって、それから何かとおれに話しかけてくれる。教室では極力存在感を消していたいおれのことも、分かった上で適度に会話を切り上げているように思えて、無碍にもできずにいる状態のまま数か月。たぶん、バレー部以外でまともに喋るのはミョウジとクラスの男子数名というごく限られた人間だけのままだ。
一緒に歩いていた友達に呼ばれてミョウジはそのグループに戻っていく。「サッカー頑張ってね」と言葉を残して体を翻したミョウジの髪がふわりと舞った。
体育だからか、いつもと違って、キラキラしたものがついたヘアゴムできゅっとまとめられている髪の毛。ちょっとだけ虎の気持ちが分かった気がした。
10分程度のゲームに適当に参加してグラウンドの隅っこで休憩、また参加して休憩を繰り返し、また隅っこに膝を抱えて座り込む。ずっと参加しっぱなしの人の気が知れない。
体育が1組と合同じゃなくてよかった。虎がいたら無理やり参加させられそうだ。
次の休み時間ゲームできないだろうなあ。ぼーっとグラウンドを眺めていると、背後でワッと声が上がった。そういえばこのネットの裏はテニスコートだ。おれとネットを挟んで背中合わせに立つ女子たちの話によれば、テニス部同士の白熱した戦いが繰り広げられているらしい。ネット沿いに立って並んでいる人たちで遮られてその様子は見えないけど、かなりの接戦のようだ。
「わ! 強烈!」
「あんなのとれないね」
すぐにグラウンドの方へ視線を戻したが、直後に聞こえた声に再び小さく振り返る。
並んでいる女子の中にミョウジもいたみたいだ。座っている俺の目の高さから、体を辿りながら徐々にその頭へと視線を上げていく。結ばれた髪の根元にはさっき見たキラキラが見えて、ミョウジだと確信した。
その瞬間、別のコートでスーパープレイが飛び出したらしい。一斉にそちらを向いた女子たちに、気づかれまいと慌てて視線を戻す。危なかった。ごまかすようにグラウンドを見ると、あと数分で今のゲームも終わるようだ。
また次のゲームには参加しなくちゃいけないだろう。でもきっとそれでこの時間は終わりだ。
立ち上がる前にもう一度ミョウジを振り返る。ミョウジたちは真剣に観戦していた。バレている様子もない。安心して視線を下げ、俺の目線からまっすぐの高さまで来たところでミョウジの手がもぞりと動いた。
「孤爪ー! 次のゲーム始まるぞー!」
「……! いまいく」
立ち上がってグラウンドの中央に向かいながら、ドクドクと高鳴る鼓動を落ち着けた。
ミョウジも他の女子も、おれの存在になんて全く気付いてなくて、だからこそミョウジも気にすることなく食い込んだ下着を直したんだと分かってる。
虎やクロの会話をくだらないとかばかみたいだとか思っていたけど、おれもたいして変わりなかった。おれだってそのばかみたいな男だから、その指先に何か思うところがあってもおかしくないんだ。
でも、一つだけ言い訳したい。
ミョウジじゃなかったら、たぶん、こんなに動揺してないって。
その後参加したラストゲームは絶不調で、逆に悪目立ちしてしまった。先に片づけを始めていたらしい女子たちにも見られていたらしい。ああ、もう、最悪。
研磨が下着を直す仕草を目撃
君の指先になりたい
20170929 斎藤