どれだけ優しくたって、それを一人に注げない人は糞食らえだと思う。バックハグって、こんなに溜息しか出ないものだったっけ。振り向くよりも前に、胸の前で交差された腕を解いた。

「、名前ちゃん
「誰にでもこういうことするの、本当に止めた方がいいですよ」
「え…」
「…悲しむ人がいるなら特に」

振り返らずに呟いて、その場を立ち去った。…苛々する。なんかもう気持ち悪い。急に抱き締められたのも、自分に彼女がいるって私が知らないと思ってるから出来ること過ぎて。…なんであんな人好きだったんだろう。部屋に入ると、親からのお土産を投げてしまう。完全なる八つ当たりだ。

「あー…。放っといて欲しい……」

もう、関係ない人、同士じゃないか。私たちなんて。

**

名前ちゃんに距離を取られて一ヶ月。彼女には1回も会わなかった。俺が会おうとしない限り、会えない存在なんだと痛感した。スタジオでドラマ撮影中の今日、そんなことをぼんやりと考えていた。

「道枝さん。寝てる?」
「……あ、いや全然。ぼーっとしてた」

セットチェンジのため控室で待っている時、声を掛けてきたのはこのドラマのヒロインである彼女。…兼、本当の俺の彼女の人だ。ふふ、と微笑みながら隣に座ってきた。

「今日何時に終わるかなー。ご飯行きたいよね」
「あー…、そうだね」

その後も何か喋っているのだが、最近自分でも分かる。心ここに在らず、だ。こんな時でも脳裏にいるのは目の前の人じゃない。俺を否定して去っていった人。彼女のことを考えていると、あの日言われたことが何となく分かった気がした。

「誰にでもこういうことするの、本当に止めた方がいいですよ」
「…悲しむ人がいるなら特に」


多分、俺に彼女がいることを知っているのだと。大吾くんが言ったのだろうか?とも思ったが、二ヶ月前。彼女が俺の家に泊まって、朝から一緒に現場に向かう最中。マンションのエレベーターですれ違った人がいたことを思い出した。…あの時はあの変化に気付かなかったが、あの人はきっと名前ちゃんだと今なら思う。

「………ねえ聞いてる?」
「あごめん。聞いてなかった」
「もー。最近変だよ」
「…ごめん。別れない?」
「…………えっ?」

しまった。と思うも遅い。ぽろっと出た本音こそ、相手に刺さってしまうことを知っているのに。そんで撮影中いま言う話じゃなさ過ぎて…。この後俺この人に告白するシーンじゃなかったっけ。アホか俺は。

どうして?嫌だよ、ごめんね、という単語が聞こえる中、悪いと思いながらもあの言葉を振りかけた。

「ごめん。俺、もう好きだと思えないんだ。ホントごめん」

泣きながら出て行った後ろ姿に、心から謝った。どう考えても俺が全部悪い。でも、どうしても。俺が見てしまう人は、別にいる。脳裏には変わってしまった彼女の姿。…会えないなら、会いに行けばいい。問題は山積みだが、俺の手は気付けばある人に連絡を取っていた。

「あ、急にごめん。…今日の夜って会えたりせーへんかな」

**

タワーマンションのオートロック前。コンシェルジュ室を見ながらノックをする女性は、20代というとこだろう。ただ帽子とマスクにメガネをつけていて、遠目では誰だか分からない。管理人は不思議そうにオートロックを開けた。

「どうされましたか?」
「…名字です。3205号室の」
「……名字さん?」

住民リストを見ると、その部屋は言われた通りの女性名義であった。顔写真も載ってあるが、目の前の女性がこの写真の人か判別するには装飾物が多く…管理人は不審に思った。

「失礼ですが、身分証見せて頂けますか?」
「……」

差し出された免許証は、名字名前と書かれており顔写真も住民リストと一致した。大変失礼しました、と管理人が詫びた後どうしたのか問い掛けた。

「…すみません。鍵を無くしてしまって」
「あっそういうことですね。ちなみに合鍵は…?」
「家の中に…」
「分かりました。こちらの合鍵をお貸しするので、開けたらこれ戻してもらえますか?」
「すみません…。」

次から気をつけてくださいね、と伝えて管理人は鍵を渡した。女性は頭を下げると、エレベーターの方へ消えていく。このマンションは芸能関係が多いが、3205号室の名字さんはどうだっただろうか…。と管理人は欠伸を噛み殺した。

**

「お疲れさまです」
「はーい偽名(名字)※言い訳のみ使用さんお疲れ」

仕事が終わってロッカー室を後にする。18時、定時上がりだ。首を鳴らしながら、ビル内をそそくさと小走り。のんびり歩いていたらまた前みたいにスタッフさん達に出くわしそうだからだ。

自転車に乗ると、1月中旬の気温が身体を刺す。口から出る白い息に思わずヒヤッとする。今日の夜ご飯は残り物鍋にでもしよう…。と思いながらマンションに着く。最近管理人さんが変わったらしく、前の買収されまくっていた人でないのでこの一ヶ月道枝さんに会うことは無くなった。このエレベーターを待つのも怯えなくていい。

「……ポン酢あったかな」

扉前で鞄の中の鍵を探す。見つけ出して、解錠するとドアノブを下げる前に、ゆっくりと一人でに下がるそれ。思わず目を見開く。ガチャ…とそのまま勝手に開く扉がスローモーションに見えた。中から出てくるはずも無い見知らぬ人に、恐怖から身体が固まってしまう。

「オカエリ、名前ちゃん。」


ダレ/2022.8.21
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