「オカエリ、名前ちゃん。」 誰も居ないはずの自分の家から、全然知らない人が出てきた。…恐怖で息が詰まる瞬間、どこかで見たことあるような顔の気がした。脳内が詮索する前に、その女性が腰で構えた包丁をチラつかせているのが見えて思考が止まった。 「っ「早く入って。あなたの好きなホットミルクが冷めちゃう」 「………!?」 なんでそれを…。冷や汗が垂れる。震える足は、前に進む以外選択肢はない。落ち着くはずだった自宅が、恐怖の箱に一転する。ガチャ…、と扉が閉まった。 ** 「えっ別れてきた!?…はぁ!?」 「も完全に俺が悪い」 もぐもぐとご飯を食べながらそう言うと、食いながら言う話ちゃうやろ…。と半ば呆れ気味の大吾くんが失笑している。そりゃそうだ。急に会いたいと言って家に押し掛けて、頼んだデリバリーを奢らせて爆食い。…俺でも引くわ。でも、ちょっとアホみたいにせんと言いにくくて。 「ま、言いにくくて誤魔化してんのバレバレやけどな。」 「……すんません。」 アハハ、と大吾くんはピザを食べながら笑っていた。…この人やっぱり一枚どころか何枚も上手だ。だから本当に名前ちゃんと付き合ってるなら、絶対に敵わない。見上げると余裕な表情で微笑んでいる。…あー、くそ。余裕がないのは俺だけだ。 「ほんで何聞きたいんかなー?道枝くんは」 「……大体分かってるくせに。」 「えー?言われな分からんなぁ」 「…大吾くん、」 「あー、もう。はいはい、しゃーなしやで。」 気まずそうに見上げると、折れてくれるところも本当に尊敬してる。…ま、ならそこ使うなよって話だけど。大吾くんはほぼ食べ終わったピザの蓋を、それとなく閉めた。 「名前と俺が付き合ってんのかって聞きたいんやろ?」 「………、…まあ……。」 「かわいいなぁ。もう。」 「…〜〜で!どっちなん!付き合ってんの?」 笑いながらゴミを持って、キッチンに足を向ける大吾くん。視線を送ると、小さく微笑んでいるように見えた。でも、なんだか少し、複雑なようにも見えた。…気のせい、だろうか。 「可愛い妹みたいなもんやで、昔から変わらず」 「………あ、そっか。ならよかった…」 「あいつが好きって思ったから、彼女と別れたん?」 「……だって失礼やんか。それにもう抑えられへんかったし…」 「え?」 「あ!あぁいやなんでもない」 「にしても残酷な振り方やなぁ」 「それは俺もしくったって思ってるって〜…。」 「(彼女)化けて出てもおかしないぞ。」 「…そしたら甘んじて受けるわ。」 そう言いながらお水を持ってリビングに帰ってきた大吾くん。ごもっとも過ぎて何も言えなかった。ソファに座って、飲み干したコップにそれを注いでくれる。 「でも俺、分かってると思うけど名前側やから。お前の味方出来ひんで」 「それは重々承知しております…。」 「アハハ、ならええけど。でもまぁ…今のあいつを口説くのはなかなか体力いるでー。」 「……それ、なんやけどさ。」 ソファを背もたれにしていた俺は、正座して大吾くんを見上げる。…彼女の父親に会いにきた気分なのはどうしてだろう。でも、きっと。彼女にとってもこの人はそれに近しい存在だと思うから。……いや、そうであって欲しい。 「名前ちゃん、いつから変わって……」 「その前に確認したいねんけどな」 「え、?」 「中途半端な気持ちで関わる気なら、これ以上は教えるはつもりない。」 「!」 たまに見せる、大吾くんの本気の顔だった。一気に緊張感が増す。勝手に飲み込まれた唾が、それを象徴しているようだ。その空気に押されまいと、ゆっくりと頷いた。 「…もちろん。半端なことはしたくないから、彼女とも別れてきた。」 「……どんなことがあっても、最後まで向き合えるんか?」 「そのつもりで来た。」 「…そうか。分かった。」 それから−……、大吾くんは名前ちゃんの話をしてくれた。わた婚が終わって知名度は上がったがアンチが避けられず仕事が無くなっていったこと。一方で俺は対照的に増えていって比較され惨めになってしまったこと、その結果幻聴に悩まされることになったこと。 だから引退して芸能界の繋がりを全て切ったらしい。でも大吾くんはしぶとく付き纏ったらしく例外なんだと。元芸能人、というレッテルが一番苦痛で今は偽名を使って比較的人との接触がないところで働いているのだそう。 「……そう、やったんや…。」 「この三年はあいつにとってだいぶキツい三年やったと思う。見てられへん時もよくあったから」 大吾くんの表情から、彼女の悲痛が伝わってくるようだった。感情がごちゃごちゃで上手く言葉にならない。目の奥が滲むのを感じた。 「……、…めっちゃ前にさ、名前ちゃんが引退した理由、聞いた時あったやん。」 「ああ…。あったな」 「あの時教えてくれへんかったんは…そういうことやったんやな、」 「……ごめんな黙ってて」 控えめに首を振る。そりゃ言えるわけがない。幻聴のきっかけは俺にあるようなもんじゃないか。比較されることほど、辛いものはない。それは俺も悔しいほど知っている。だから、こそ……。 「…俺に冷たかったのは、自分を守る為…やったんか……。」 そんなの、容易に近付けない…じゃないか。今の現状をやっと手に入れた彼女にとって、俺は刺激物過ぎる。俺が近付くほどに、彼女が一番恐れているものを思い出させてしまう。彼女自身も、周囲の反応も…。 「俺……、名前ちゃんを思うなら近付くべきじゃない気が…する」 「俺も初めはそう思ったよ。でも、それって結局根本の解決にはなってないやろ」 「……」 「これは勝手な推測やけど、あいつ…わた婚の時、みっちーのことほんまに好きやったんちゃうかなって」 え、と顔を上げると視線が合う。でもすぐに、小さく笑いながら溜息をついていた。 「今は…どうか分からんけど。でも名前があんなにお前を拒むのは、なんか理由があると思う。それを解決できれば、あいつ自身が一歩前に進めるチャンスやと思うねん」 「前に、進む……。」 「それは、俺じゃなくてみっちーにしか出来ひんと思う。」 その言葉に、ストンと落ちてきた何か。俺がすべきことが、なんとなく見えてきた気がした。それを伝えたくて、大吾くん。と口から漏れる瞬間、電話の着信音が鳴った。 「あ、ごめん俺やわ」 「全然。出て出て」 大吾くんはキッチンに置かれていた携帯を取りに行くと、ディスプレイを見て顔を顰めていた。 「どうしたん?」 「……いや。…ちょっと出てもいい?」 「あ、全然気にせんと出て」 「ありがとう」 その場で電話を取る大吾くん。あんまり聞かないほうがいいよな…と俺自身も携帯を取り出した瞬間だった。 「……………は………?」 「…?」 よからぬ雰囲気が漂った気がして、その声の方へ振り向いた。……なんだろう。とてつもなく、嫌な、予感がする。その瞬間、バッと大吾くんが玄関に向かって走り出した。 「!?大吾くん!」 尋常じゃないほどの俊敏な動きに、つられるように俺もその背中を追う。玄関から出ると、大吾くんは、エレベーターの呼び出しボタンを連打していた。 「どうし「名前が危ない」 「………え?」 「俺の…俺のせいで…っ、…」 「大吾くん!」 焦りと恐怖からだろうか、言葉もおぼつかない大吾くんの両肩を強めに掴む。何があったのかよく分からないが、ただならぬことがあって彼女が危ないということは嫌でも分かった。 「こういう時こそ落ち着いて。階段で行こう」 「……ああ。ごめん取り乱して」 「ううん。行こう」 …みっちーに正気を取り戻してもらったおかげで、冷静に走り出すことができた。階段を3階分下がればあいつの部屋がある。冷や汗が止まらないのは、動悸が酷いのと恐怖と半々だからだろうか。脳裏で繰り返されたあいつの電話に、今にも殺されそうで意識が震える。 「……もしもし?」 ≪あ、大ちゃん?私だよ、久しぶり。≫ 「久しぶり。元気?」 ≪元気…じゃないかなぁ。大ちゃんに振られてから…≫ 「あ……」 ≪なんちゃって!ごめんごめん、もう1年も前のことだし全然元気だよー≫ 「あ、そうなん…よかった元気で」 ≪今ねー、名前ちゃんのお部屋にいるの≫ 「………は……?」 ≪大ちゃんのだーいじな名前ちゃんとたくさんお話してたんだ。この前この子が倒れた時もさ、大ちゃん心配してホットミルク作ってあげてたよね?私も作ってあげたのに全然飲んでくれなくてさぁ……。≫ 「名前……!」 焦りと怒りと恐怖と、もう全てがいっぱいいっぱいだ。とにかく無事でいて欲しい、ただそれで名前の部屋の扉を開けた。 踏み外した階段/2022.8.24 |