「…でも俺は、名字さんがいい。」

雨の音で紛れない、心臓の音。それは傘に落ちる雫よりも深く響く。唐突なそれに足を止めてしまった彼女は、夜の街灯に照らされて俯いた。足下の水溜まりで、表情が映ればいいのに。こんなに手の届く距離にいても、触れない近さがもどかしい。雨が、声のない空間を埋め尽くした。


*

「あ、高橋さん。こんにちは」

いつもの彼女の声に、一瞬息が詰まる。こんにちは、と小さく呟くと、診察券を出して待合室に戻った。ここは完全予約制の歯医者。腕の良い先生を求めて予約はいっぱいらしい。一ヶ月前、歯が痛いとマネージャーに言ったらここを紹介されて今に至る。

「高橋さん、ご案内します」

呼ばれて顔を上げると、いつもの彼女だった。今日も担当してくれるらしく、場所を案内される。この人は、俺がここに通い出してから毎回診てくれる歯科助手の名字さん。座ると、色々準備をしてくれて背もたれが倒れる。

「先生が来られる前に歯の状態見させて貰いますね。」
「はい」

口を開ける前に見上げると、もちろん目が合う。どうしましたか?と言われ、あぁ…と目が泳ぐ。聞きたいことがあるのに、いつもそれを聞けずに終わってしまう。今日こそ…!を何回したかはもう覚えていない。

「…前話してくれた、お友達さんって……」
「あー、友達(名前)のことですね」

思いとは裏腹な言葉に、頷いて口を開ける。前もそうだ、一番肝心なことを聞けずにどうでもいいことを聞いてしまう。心の中で溜息だけが増える。口の中を確認されながら、名字さんはぽつりぽつり話してくれた。

「さすがに…高橋さんがうちに通院してくれてる、とは言えなかったです…」

言ったら、私どうなることやら。と笑ってくれるのが見える。あー…可愛い…。なんて満たされる心を、彼女は知らない。この人にとっての俺は、"友達が大ファンなアイドル"でしかない。

前回、実は…と言われた際に期待してしまった自分が恥ずかしい。ファンはファンでも、彼女がではない。名字さんのお友達さんが、だそうだ。それはもうビックリするぐらい俺を好きらしい。いつも熱弁されるので覚えてしまった、と彼女は笑っていた。

なので簡潔に言うと、この人は俺に興味がない。ただの患者に過ぎないというわけだ。

「歯磨き頑張ってくれてるんですねー…」

そう言われて緩みそうになる頬を律する。そうです、頑張ってるんです。そう褒めてほしくて。ごめん友達さん、俺、名字さんが好きなんです。


雨の足音/2022.8.26
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