「この前ね、僕史上いっっちばん美味しいチョコに出会ったんですよ……」 「えっそうなの?どこで?」 「取引先の方から頂いたんすけどね、もー本っ当に美味しくて!今度買ってきます!」 「えーいいの!?嬉しいな〜〜。ちなみにトリュフとか?」 「いや、ブラウニーだったと「はい帰るで。」 長尾くんが領収証の確認にきた後の雑談中。いつも通り帰ってこない後輩を回収しにきたのは…今朝方まで一緒だった丈くんだ。この風景は日常であり、何も構えることがないはずなのに。 「うわーっ丈くん!!今日登場遅いっすねどしたんすか?」 「アホ、普通や。そもそも迎えに来んの待ってんな自分で戻ってこい。」 「めっちゃイライラしてる〜!…糖分足りてないんちゃいます?」 「うっさいねん。そろそろその口縫うぞ」 冷たっ、と泣き真似をする長尾くんを引き連れて帰っていく。いつもは私にも声を掛けてくれるのに、今日は視線さえも合わずに去っていった。心臓の奥の方のなにかが歪む音が、嫌に響く。…その日常は、壊されてしまったのか。 「……はぁ…………。」 デスクで頭を抱える。今朝、起きて絶句した9秒を一生忘れないだろう。下着姿で物音を立てずに服を拾い着て、息を殺して家を出た私はなかなかの滑稽さだったと思う。朝5時過ぎ、マンション下で途方に暮れる私は人生を諦めたい一心でしかなかった。職場でどんな顔をして会えばいいのか…。そもそも話しかけられるのか? 家を出た後連絡するか迷ったが、出来るはずもなかった。逆も然りで、LINEの通知などない。……そして、それからの初対面が、これだ。 「最悪…………。」 「名前さん?どうしたんですか?」 「あーごめん。何でもないよ。」 「そうですか?……でも顔色悪いような…」 デスクに項垂れると、隣に座る純粋無垢な目で心配そうに私を見つめてくれるのは、今期入社の道枝くん。私の直属の後輩であり、長尾くんの同期だ。経理部らしからぬルックスと真面目さから、他部署からの引き抜きを押さえ、本人希望でここの配属となったらしい。仕事覚えも良くて、一番可愛がっている後輩だ。 「実は昨日ちょっと飲み過ぎちゃって……。」 「あっ…そうなんですね。少し早いかもですがお昼取られたらどうですか?」 「あーそうだね……。そうする、ありがとう」 時刻は11時半。道枝くんの優しさに甘えるように、財布を持って席を立った。心なしか頭痛と胃痛が酷い気がする。何か飲み物を買って休憩室で寝よう…。なんて思いつつ、身体は休憩室で意識を閉じた。 「…………さん、……名前さん」 「……、…」 やさしく肩を揺さぶられて、ぼんやりと視界が開く。そこには道枝くんがいて、心配そうにこちらを見ていた。私いつの間に寝てたんだっけ……? 「………あれ…?私……」 「もう休憩時間過ぎちゃってて…。心配で見に来ました」 「えっ!?あっごめん寝過ぎた!」 バッと立ち上がるとすぐ襲ってきたふらつきに足元が揺らぐも、咄嗟に側にいた道枝くんが抱き止めてくれる。その反動から、思わず彼の腕を掴んでしまう。 「ご、ごめん……。なんか色々ダメだわ今日」 「…いや、その…僕は全然大丈夫です。それよりこれ…」 「……?」 「二日酔いに効くみたいなんで、これ飲んでから戻ってきてください。」 差し出されたコンビニの袋。受け取るとしれっと椅子に座らされる。僕先に戻ってます!と言って消えていった背中の後で、渡された中身を見て胸がじんわりとした。 「お味噌汁とお水………、…」 インスタントの味噌汁と、500mlの水。わざわざコンビニまで買いに行ってくれたのだと思うと、我ながら出来た後輩過ぎて涙が出そうになった。……って。これ飲みたいけど休憩時間終わってるんじゃなかったっけ……?と思いつつもまぁいっか精神で味噌汁の蓋を開けた。 * 「名前さんやっぱり今日は飲まない方がいいんじゃ……、」 「いいのいいの。むしろ今日は飲まなきゃやってけない」 飲み干したビールジョッキを机を置くと、眉を下げた子犬のような道枝くんが次を頼むべきか迷っている。だって仕方ないじゃない。あの後丈くんが私を避けるように、自分の経費精算を長尾くんに持ってこさせたりするから。いつもは絶対にしないくせに。渋々頼んでくれたのであろう、5杯目のビールに口をつける。 「…何があったか聞かない方が良いですか?」 「んー……。そうだねえ……。」 「でも気になるって言ったら」 「……えっ?」 引き下がってくれると思っていたのに。驚きから視線を向けると、あまり見たことのない、男の子の顔をした道枝くんがそこにいた。不意なそれに、きゅっと息が締まる。 「いつもの名前さんをそんなに崩す相手って、一体誰なんですか…?」 そんな綺麗な目で、真っ直ぐ見ないでほしい。鼓動が速くなるのはお酒のせいだと、必死に思い込む。…でも、言えるわけないじゃない。営業部の同期としてしまったなんて。それもよりによって丈くんだなんて口が裂けても言えない。先輩としての何かが崩れてしまう気がする。遠くなる意識の中で、必死に返答を誤魔化していた。 「………俺がこのまま連れて帰ったら、どうするつもりなんですか……。」 酔い潰れてしまった直属の先輩を背負って、独り愚痴てみる。仕事が出来て、人間関係も上手くて、それでいて後輩の面倒見も良くて……。なんて、そんな憧れの先輩を想わずにはいられなかった。でも、この思いはずっと秘めておくつもりだった。今日の話を聞くまでは。 「営業部の同期と間違えちゃって……。」 「それもよりによって丈くんで」 「こんなこと、絶対道枝くんに言えない……。先輩なのに……。」 「もう言うてもうてますよ……。」 肩にぐったり凭れる、少し潰れた頬。髪でほぼ見えないのにそれですら微笑ましい。背中に感じる温かさも、重みまでも愛おしくて。そして仕事の時には考えられないこの無防備さ。そりゃ食われますよ…。溜息と共に苛立ちが降ってくる。脳裏に浮かぶあの人の顔が消えない。 「………」 心の中での舌打ちが止まらない。俺で上書きしてしまいたい、なんてもう何百回思ったことか。でも、俺は……俺は、そんな野暮なことはしない。一瞬の欲情より、その先が大事だ。だから、こそ。 「すみません、この人をこの住所までお願いします。支払いはこれで」 タクシーの運転手さんに名前さんの免許証を見せて、一万円を手渡す。押し込んだ彼女はもうぐっすりだ。扉を静かに閉めると、走り去って行った。その後ろ姿は、俺に何かを誓わせるようで。 「………」 あげない。 包み紙を捨てる/2023.1.2 |