あいつが逃げて行く音を、静かに聞いていた。朝方、それは温かい重みが消えた瞬間を予測していたかのように。分かってはいたつもりだったが、やはり昨日のことは記憶に無いのだろう。扉が閉まった音を聞いた後、身体を起こした。名前がいた跡が妙に生々しくて、目を逸らした。

「、あー…………。」

違う、こんなつもりじゃなかった。こんなつもりで、長い間同期をしていたわけじゃない。何度も、何度もあった。こうなりかけたことが。その度必死に理性で押さえつけて、こうなることを避けていたのに。昨日の彼女は、それすら簡単に蹴散らすかのような妖艶さだった。あんなの誰も敵いやしない。今までが嘘だったと思えるほどに。

昨日を思い出すだけで身体が震える。朝だから、ということにして欲しい。あんなに綺麗な女、だっただろうか。その日は余韻が酷過ぎて…いや、合わす顔がなくて。名前に会いに行けなかった。代わりに謙杜をパシると、嬉しそうに経理部に向かう後ろ姿が鬱陶しい。

「謙杜、経理部行くん?」
「はい。丈くんのもあったら持って行きましょうか?」
「おー、頼むわ。今日こそはよ帰って来いよ」
「頑張りまーす!」

その翌日も、しでかしたことの大きさを回収できるだけの何かが見つからなくて。渋々謙杜に頼んだ。避けてるわけじゃないのに、そう映ってしまうことは百も承知で。…あー、俺、どうしたら良いんだろうか。本気過ぎるほど、悩んでしまう。ほんましょうもな、自分。

*

「名前さーん。締切過ぎてました…。」
「……なぬ?どれ」
「ごめんなさい!15日締めなの絶対忘れちゃうんすよ…。」

綺麗な謝罪のお辞儀。折れた90度が眩しい。可愛いから許したい気持ちでしかないが、正直長尾くんは常習犯過ぎる。心を鬼にするしか…!と思いながら貰った領収証を捲ると、丈くんの印鑑が押された経費精算書と目が合う。

「これ…」
「あ、それ丈くんのです。パシられました」
「…そうなんだ。最近多いね?長尾くんだって暇じゃないのに」
「いや、僕は全然!名前さんと喋れるんで大歓迎です。なんちって」

首を傾げては、照れた表情を手で顔を隠していて。あー……あざとい。そんな可愛いが大優勝です!!なんて誤魔化すも、丈くんに避けられていることを直に実感した。分かっていても直接降ってくる事実は痛むものがある。…あれだけ仲良かったのに、もうこれで、終わりなのだろうか。そんな思いを必死に押し殺して、長尾くんにバシッと言わなければ。昨日の失態があるので、道枝くんに先輩感見せなきゃだから…!

「う……嬉しいけどね。締切過ぎるの最近多いから、そろそろ目瞑れないよ。次は受け付けません!」
「あっ…そうですよね。本当にすみません。」
「ゔっ……。わ、分かれば良いのです。よろしくお願いします。」
「その約束の印に、この後ご飯行きません?良いとこ見つけたんです。」

反省していた表情はどこへやら。なんでも口実つけて誘ってくる所が本当長尾くんっぽいっていうか。思わず笑ってしまった。

「どんな約束の印なのよそれ。つい笑っちゃったじゃん。」
「だって名前さんいつも丈くんとか先輩方とご飯行ってて、誘える機会が無くって…。」
「……、あー…。」

確かにそうかも。と小声が落ちる。思い返せば、大体同期か先輩と夜は済ましている気がする。週に2回は丈くんと絶対行ってたし。…思い出す度に落ち込むのやめ!私!そんな私が困っているように見えたのだろうか。滅多に口を挟んでこない隣の席の道枝くんが口を開いた。

「長尾、その辺でやめとけって。名前さん困ってるやろ」
「あっごめんなさい!そんなつもりじゃ無くて」
「いやいやいや困ってるわけじゃなくって」
「えっ今日行ってくれるんすか!?」
「えーっとその「名前は俺とメシ行くからあかん。」

会話していた人の声でないものが聞こえてきて、全員がえ?と声を重ねてしまった。でもそれはよく知っている声で、発した声の2秒後に分かった。遅れて、その本人が長尾くんの後ろから姿を現した。瞼が、震える。

「丈、くん……。」
「そういうことやから。謙杜はまた今度な」
「えーー!絶対決まってなかったやつでしょ今の!狡いわー」
「はいはい。先輩の言うことは黙って聞いとけ。」
「こういう時だけ先輩ヅラしてくるの狡いっすよ……。」
「いやいつも先輩や。今のはお前が間違ってんぞ」

丈くんと長尾くん劇場を、もう何年かぶりに見た気分だ。実際は2日ぶりとかそれぐらいなのに。一日に何度も見ていたから、何かが麻痺しているみたいだ。二人を写す目が、歪んでいく気がする。…あー、なんで泣きそうなんだ。私。そんな自分に、不揃いな思いがあることに気付く。………あれ?もしかして私………

「じゃ、また後でな」
「あ、う………」

ん、まで言えなかった。不意な衝撃は、そんな簡単な二文字を遮るほどで。ひゅっと息が死ぬのと同時に、動揺が酷く遊ぶ。丈くんはそんなことに気付かず、長尾くんを連れていつものように営業部に戻っていく。

……彼に繋がれた、私の左手を、知らずに。

「………道枝、くん………?」
「………」

その手にどんな意味が込められているか、なんて余所見できるほど不器用ではなかった。


透明な悲鳴/2023.1.3
back