あの時、春は君のために生まれてきたのだと漠然と思った。僕の何かを颯爽と奪っていった満開の笑みを、今後一生忘れることはないだろう。今まで僕に足りなかった何かは、君に出会うことだったのだと瞬間で納得できるほどに。その一瞬が、まるでドラマのマンシーンのように見えたんだ。

「これ、落としましたよ。」

春風が彼女に舞った。暖かい音に包まれて。

*
*

別に、楽しくない日常ではなかった。高橋恭平(22)。仕事は苦じゃないし、会社員の割にはそれなりに稼いでいる。友達も…多くはないが、いないわけではない。それでもどこか、何かが足りないような物足りなさを感じていた。

そんなとき、たまたま見つけた夜間制の大学。昔から興味のあるゲーム作成のできる専攻で、資格も取れる。時間にゆとりもあったから、資格は取れないと思うが、興味本位が先行した。まぁ暇つぶしに通ってみようか、ぐらいだったのに。


「おはよう!遅刻するかと思ったー…」
「確かに。名前にしてはギリギリだね。」
「いやさ…デンちゃんが部屋の中で脱走してさ……。鬼ごっこしてたよ…。」

19時前。教室に滑り込んできた名字さんは、顔が半分ほど隠れるほどマフラーをぐるぐる巻きにしていた。急いで必死に巻いた感が溢れていて、息出来てんかなって心の中で小さく微笑みが漏れる。それでも必死に、友達に今日の出来事を必死そうに話しながらその隣に座った。デンちゃん…の話だ。

「こっちは時間ないのに、デンちゃん元気に走り回っててさ…。でも可愛いんだそれが!」
「結局遊んでて遅れ掛けたわけね。」
「遊っ……、…まぁそうだね。」

少し不服そうにマフラーを取ると、綺麗に巻かれている髪の一部が違う方向に跳ねている。後ろの方やから上手く巻かれへんかったんやな。めっちゃ分かる。でもそんな名字さんを想像すると可愛すぎて口元が緩む。…マスク生活にこれほど感謝したことはない。

その後すぐ教授が来たが、二人は小声で何かを話している。そこまで席が近くないので内容は分からない。けれどきっと、あの表情は多分納得していない顔だ。多分デンちゃんのことを反論しているのだろう。

「……〜、…ってば、……可愛いから」

微かに聞き取れた言葉で、それは確信を得た。絶対にデンちゃんの話だ。頬が緩みそうになって思わず下を向く。可愛いのはどっちだ?そんなのは間違いなく名字さんに違いない。存在自体が既に可愛いというのに。

そんな自分の魅力に、彼女はきっと気付いていない。そしてもちろん、俺のこんな密かな思いも。ただの同級生…で特段仲が良いわけでもない。だから気付いて欲しいわけでもない。ただ、そこに存在してくれるだけで良い。見つめさせて貰えるだけで十分過ぎるから。

「おーいそこ、私語控えるように」
「すみません!」

デンちゃんの話が盛り上がり過ぎたようで、名字さん達に教授から注意が飛んできた。よりいっそ小声で、彼女は顔を赤くして友達さんの肩を叩いている。その様子はまるで小動物で、俺の中の可愛いが悶えている。もはや悲鳴ものだ。本当に存在自体が可愛過ぎて罪だ。今日もご馳走様です。

そう、これは。こんな真冬に春を感じた俺の片思い日記…のようなものである。


愛が煩い/2023.1.15
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