まず聞いて欲しい。1話の冒頭が、あんっっなに胡散臭くなったのには訳がある。それは1ヵ月前、12月半ばに遡る。

彼女と初めて会った日は、とても雨が煩かった。憂鬱な日常を彩るそれと、廊下を歩けば注目の的になる鬱陶しさ。跳ね除けるように爆音で音楽を聴きながら、教室までの道を歩いていた。外見の良さは自覚しているが、コソコソ言われるのは気分がよくない。そんな、苛立ちが溢れる背中だったと思う。それでも物怖じしなかった名字さんは、今でも思い返す度惚れ惚れする。

トントン、

「!」

俺の肩が誰かに触れられて、溜息が爆発しそうになったのも束の間。振り返るよりも先に俺の視界に入ってきた、華奢な手に掴まれた定期入れ。…これ、は

「俺の……」

鞄から落ちたのか?…それとも盗られた?眉を顰めながら振り返ると、ヒュッと息が細くなる音がした。その空間だけ時間が止まったかのような、スローモーション。彼女を目に映すだけで、網膜さえ、その機能が停止するほど見惚れた。…一目惚れ、が、存在すると嫌でも認識させられた瞬間だった。直視など出来ずとも、彼女が綺麗に屈託なく微笑んでいることは分かった。動揺だけが煩い。

「はい。これ、落としてましたよ。」

……こんなの。落ちない人間がいるなら教えて欲しい。間抜け全開の、あんぐりした表情を後から悔やんだが、マスクに死ぬほど感謝した。それほどの威力で、名字さんは突如、俺から何でも無かった日常を奪い取った。その分、春を落として。

*

あの時、ありがとうと漏れたそれが彼女の友達に遮られてしまったので、それ以上の会話を生まれなかった。それだけが今も悔いている。…だって俺、定期拾ってくれたのにお礼も言わない常識不足人と思われてるんじゃないかって不安だ。その後悔は今日も引き続いている。

「友達(名前)おはよー」
「おはよ。会社みたいな挨拶すんの止めてよ。」
「えっ。だって今日初めて会ったじゃん。」
「そうだけど……」

そうとは知らず、名字さんは今日も可愛い。気軽に話し掛けられる友達さんを何度羨ましいと思ったか。自分から話し掛けられない俺も俺でチキンだけれど。でも今日こそは話せる大チャンスだ。PCを使った授業が今日から始まるのだ。そしてその席が…

「学生はもう随分前に卒業したでしょー?」
「いいじゃん。お金払ってるんだしー。」
「そういうところが社会人丸出しですけどね。」

友達さんと話し終わって、名字さんが笑いながら俺の隣に座る。席順を見た瞬間、こんな奇跡があるのかって五度見はした。まだ週2回ぐらいな授業だが、毎日にならないかって教授に詰め寄りそうになったぐらいだ。友達さんも近くにいないこのチャンス。心臓がバウンドしてゴールしそうだ。

………でも何て話し掛ければいい!?PC苦手なんですよね〜とか!?いやいや俺結構出来る方だし(ゲームに限る)!名字さん今日も可愛いですねーって普通に言ってしまいたいけどそれもうストーカーやしな!!なんてぐるぐる思考が巡っていた時、女神が降臨したのだ。

「……あの、」
「…え?」
「ここってこれで合ってます…?」

まさかの向こうから来てくれたパターン…!え、ほんまに女神やん。首を傾げてPCの画面を指差す姿に後光が差して見える…!てかその首傾げるの、あざといって言われん!?めちゃくちゃ可愛すぎて語彙力米粒並み……。こんなに発するのに力を振り絞った、はい、はないと思う。そのぎこちなさに小さな笑いが聞こえる。

「…?」
「ごめんなさい。高橋さんが可愛くて、つい」
「………!」

もう、名前を知ってくれているとか、それでいて呼んでくれたとか、小さく溢れる笑みを堪えてる表情とか。全部が尊すぎて語彙力どころか、身体が身体であることを止めたらしい。固まる、とは絶対このことだ。その後、何度か名前を呼んでもらって日本に戻って来れた。名字さん威力強すぎ…

「……いや、俺こそごめんなさい。名前知って貰ってることに驚いて……」
「えっ?何でですか?知ってますよー」

もちろん、とでも言いたそうな笑み。…嫌な予感がすぐ追ってくる。顔が良いとか、そういうので噂の的になってて知ってる。と言われるんじゃないかって。名字さんだけにはそういうのは言われたくなくて、…好きな人も周りと同じだと自覚したくなくて。だから、なんで?が返せない。でも、そんな表情が出ていたのだろう。

「覚えてないかもですけど、前、高橋さんの定期拾ったことがあって。」
「…!」
「その時、勝手に名前見ちゃって。あ、覗き見しちゃってごめんなさい。」

好きです、が喉から勝手に溢れそうになったのは後にも先にも今だけだと思った。少し申し訳なさそうに微笑んでくれる姿は、周囲に誰もいなかったら絶対に抱き締めてる。あの時感じた春の風は、もはや必然だったんだろうと思えるほどに焦がれてしまう。今も、きっとこの先もずっと。

「……俺も、」
「え?」
「俺も、勝手に知ってます。名前」
「あ、私のですか?えっすごい!嬉しいです。」
「俺も、嬉しかったです。」
「えっ?」
「名前…知っててもらって。だから、謝らないでほしい、というか…はい。」
「…ふふ。ありがとうございます。」

思いっきり下手な会話。隠せないぎこちなさ。照れて合わせられない視線。そんな俺なのにも関わらず、やさしい目線と言葉を振り掛けてくれる。そんな彼女を実感して、やんわりと主張し始めた感情。

「あの時…定期拾ってもらって、ありがとうございました。」

見つめるだけでいい、なんて無理かもしれない。


芽吹いた春を摘みたい/2023.1.22
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