「俺は言ったはずだ。あの子を悲しませるような事をしたら許さないって」
「……っ、」
「いつも傍に居たお前だったから安心した。お前だったからこそ信じた」
及川さんから氷のように冷たく放たれたその一言は、修復し始めていた夏芽との関係やアイツから拒絶されていなかった事に安心しきっていたという時に、一気に現実に引き戻されたような気分で、嫌でも中学時代の日々を蘇らせる一言だった。
「影山」
「肩濡れてるから。タオル、使って」
「かーげーやーまー」
「ほら影山ー、行きますよー」
「影山?」
「あっ、影山!」
「………影山、あのね」
「ありがとう、影山」
「好きだよ」
思い返せばいつだって俺の隣にはアイツが居るのが当たり前で、俺がアイツの隣に居るのもまた同じはずだと、その時が来るまでは何一つ疑いもしなかった。
大切だった、離したくなかった。
それなのに、いつからだろう。俺たちの距離が開き始めたのは。
「かげ、やま……」
いつからだろう。アイツが、俺の前で笑わなくなったのは。苦しそうに俺の名前を呼ぶその声に振り返る事が出来なくなってしまったのは。そんな顔をさせたかったわけではなかったのに。
「……あまり自分を思い詰めるなよ。椎名は文句一つ言わずによくやってるだろ?」
いつからだろう。アイツの隣に俺は確かに居たはずなのに、いつの間にかその場所を別の誰かに奪われていたのは。
クラス替えの時期になれば、背が低いアイツの代わりにクラス表を見てあげるのも、昼休みには一緒に委員会の仕事をするのも、その隣で肩を並べて歩くのも、全部全部俺だったはずだ。なのに、いつから俺は二人の後ろ姿をただ目で追う事しか出来なくなっていたのだろう。
「あんな奴とはもう別れた方がいいんじゃないの」
以前、誰もいない廊下で交わされていた二人の会話。それを俺は偶然立ち聞きをしてしまった。勿論悪気は無かったし、聞く気も無かった。分かっていたのならば、俺はきっと現実逃避をしようと両耳を塞いでいた。当時の国見の言葉は、まさに鈍器で強く頭を殴られたような気分で、どうしてあの時俺はあのタイミングで彼処に来てしまったのだろうと心の底から後悔をした。でも結局、それに当時の夏芽がどう答えたのかは今も知らない。寧ろ答えを聞く前に自然と俺の脚は逃げるようにしてその場から離れていたのだ。
気付いた時にはもう遅かった。俺がチームメイトとの関係が拗れ始めている中、自分が正しいのだと自己中で横暴な"コート上の王様"として独裁政治を敷いているうちに、大事なモノをこの手から溢れ落としていた。
でもただ一つ言えた事は、俺なんかよりも国見の方がずっとアイツの隣には相応しくて、アイツだって俺には決して吐く事の無かった弱音を国見の前では吐き出していた。俺と居る時には無かった笑顔が国見の前ではあって、本当に楽しげだった。その笑顔をアイツから再び引き出したのもまた、俺ではなく国見だったという事実に今にも胸が引き裂かれそうな思いだった。
「……別れないか」
考えに考えた結果、俺は一つの決断をした。身を引く事が最善の選択だと思って、俺は手離す事を決めた。それがお互いの為なのだと、自分に言い聞かせながら。 けれども、それを何処かで否定をしてほしかったという自分も確かに居た。自分からその選択を下したというのに、本当に身勝手だと思う。
「分かっ、た」
何の前触れもなかった俺の突然の別れの言葉に、夏芽はその理由を聞く訳でも、引き留める訳でも、特別驚いたような素振りを見せる訳でもなく、それをあっさりと受け入れた。夏芽に背を向けながら立っていた俺は、途端に後ろを振り返る事が出来なかった。別れを告げたのは自分からだというのに、そんな自分がどれほど情けない顔をしていたのかを知られるのが怖くて。そんな俺はあの時、夏芽がどんな顔をし、どんな想いで目の前の現実を受け入れていたのかさえも知らない。もしかすれば、夏芽はいつかこの時が来る事を分かっていたからこそ、素直に頷けたのかもしれない。それにアイツには、国見という支えがあったから。
あのまま関係を続けていくべきだったのか、相手の事を想って関係を終わらせるべきだったのか、結局どっちが正解なのかは今でも分からない。ただあの時の俺は、あれが正しいのだと思った。それ以外の選択肢が当時の俺には無かったから。
「及川さん」
「今更かもしれないですけど俺、アイツには散々迷惑掛けました。及川さんの言う通り、俺どころかアイツの居場所まで奪ったと思います。辛い思い、沢山させた」
「…………」
「……俺、最近になって漸く気付けた事がありました」
けれども烏野で、このバレー部で、夏芽とまた出会えたからこそ、気付けた事も沢山あった。
「たった一度や二度の試合を観ただけの第三者には分からない。確かに結果的には影山が悪かった、でも100%完全に影山が悪かったとは言えないんだよ」
「……みんなも、それに私も、悪かった」
「……ずっと、影山に謝りたかった。あの日、何も出来なかった事。あの日だけじゃない、今までの事。私、ずっと逃げてた。変わってく影山が怖くて、どうしたらいいか分からなくて、線引いてた」
「嫌いになんかなってない、」
「私だって、影山には嫌われたのかと思ってた」
夏芽と真正面から話をした事で今まで知る事のなかったアイツの気持ちが初めて聞けた。俺達はあの時目を合わせるどころか、お互い背を向けて大事な事は何一つ伝えていなかったのだ。伝えようともしなかった。きっと烏野で再会をしなければ、それにこんな事を思うのは癪だが、月島や日向が居なければ、互いの本音を吐き出す事も、俺達自身が変わる事も、こうしてまたアイツと肩を並べて歩くなんて事も二度と無かったと思う。
「未練タラタラなのは承知の上です。でもやっぱり、俺は―――――」
あれからずっと、この気持ちは変わらないし、どうやったって変えられなかった。例えばアイツが今、俺ではない誰かを想っていたとしても多分、それでも俺は。
「……なんだ、少しはあれから成長したんだ?」
予想外だったのであろう俺の言葉に及川さんは初めこそは目を見開いてたものの、やがて納得したように緩く口角を上げた。
「付き合ってないよ」
―――――なぁ、夏芽。
あの時俺の目を見てはっきりと言ったその言葉に、少しは期待してもいいって事なのか。
▼
その日の夜、青城との練習試合から学校に戻った俺達は今日の練習試合の反省を兼ねてのミーティングをし、部活を終えた。清水と夏芽に体育館の戸締まりと鍵の返却を任せている間、俺達は部室棟で各々着替えや帰り支度を済ませていた所だった。
「及川のサーブ、コントロールと威力ヤバかったな」
「及川が入っただけで流れ変わったしな……。俺達もしっかりレシーブ鍛えとかないとな」
「やっぱ西谷だったら及川のあの強烈なサーブきれいに上げられたのかな〜。あ、そういや西谷ってそろそろ戻って来るんだっけ?」
「もうそろそろ1ヶ月経つし、確か今週中には戻って来るんじゃなかったか?」
「…………そっか、何だかんだあれから1ヶ月か」
不意に脳裏に未だに部活に顔を出さないままのもう一人の存在がちらついた。高い壁に何度も何度も阻まれて折れてしまったそいつの存在が蘇る。普段は頼りないその背中だったが、コートに立った時はとても頼もしかった。でも、あの時はそうじゃなかった。そうさせてしまったのは―――――
「心配するな。また全員が揃う日が来るさ」
表情に出ていたのか、大地からは小さく肩を叩かれた。どうやら付き合いの長いコイツの目だけは誤魔化せなかったらしい。
「…………そうだと、いいな」
それでも素直に頷ける自分じゃなかった。信じるどころか、そんな日が本当に来るのだろうかと疑ってしまう自分が何処かにいた。
「なぁなぁ影山!大王様凄かったな!!サーブもすげぇし女子からもキャーキャー言われてたしよ!流石影山の先輩って感じだな!特に性格の悪さな!」
「てめっ!ボゲ日向ボゲェ!!最後の一言余計だ!」
張り詰めた空気とは一変して、部室には一際大きい日向の声と影山の怒声が響いた。そんな中、自然と耳に入ってくるのはやはり二人のやりとりで、会話が中断された俺達は傍観する事を決め込むと、"女子からキャーキャー"という言葉にいち早く反応をした田中が案の定顔を歪ませながら日向と影山に絡み始めた。
「優男めぇ……女子に騒がれるとかクソ羨ましいぜ……!」
「あれだけイケメンだとやっぱり、カッ、カノジョとかいるんですかね!?なぁ影山!大王様は中学時代カノジョとかいたのか?!」
「優男はリア充なのか!?リアルが充実してるのか!?影山そこん所どうなんですかコラ」
興味津々の日向と強面の田中に詰め寄られている影山は「お、及川さんの恋愛事情なんて俺知らないし興味もないです!」とたじろいていた。流石に哀れに思った大地が「こらこらそのくらいにしておけよ?影山困ってるだろ」と一声掛けるが最早二人の耳には届いていないようだ。深い溜め息を吐く大地に俺は肩を叩いて「ドンマイ」と慰める。
「ちぇー!つまんねーの!まぁ影山はレンアイケーケンとかなさそうだしな!お、俺も人の事言えないけど……!!」
「何だとコラ日向ボゲェ!!」
「ブハハハハ!お前の性格でもし彼女とか居たらその彼女の趣味疑うぜ!てかその性格で彼女が居るとか俺が許さねぇ!」
「んな?!お、俺だって彼女くらい居ましたよ!!」
「やっぱりそうだよな!クソ性格の悪いお前に彼女は……………」
「……ハイ?」
「え?」
影山の爆弾発言に部室内は一瞬にして静まり返った。話を軽く聞き流していた俺もその言葉はしっかりと耳に入ったが、それはまさに驚きで開いた口が塞がらないという状態だ。一同が動作を止めて影山に注目する中、張本人はしまった、と口を押さえ顔を青くしていた。
「影山クゥン………キミはバレー馬鹿なくせして実はリアルが充実してたのか??あぁん??」
「え!?ちょ、嘘だろ!?お前彼女居たの?!然り気無くリア充だったの!?」
「な、何ですか!?田中さん、それに菅原さんまで!そ、それに今は居ません!」
あまりに衝撃的で俺も田中と一緒に迫ってみると影山は、常に中立的立場に居るはずの俺がこの手の話題に食い付いた事がよっぽど意外だったのか、俺達の勢いに完全に押され気味だった。しかし幾ら今現在彼女が居なくても、恋愛に疎そうな"あの"影山にも一時は彼女が居た経験があるのだ。これに食い付かない方が変だ。
「か、影山と付き合うとか、一体ど、どどどどんな女子なんだ!?何処の学校にいるんだ!?ここの学校の女子か!?」
「!別に何処の誰だろうとお前には関係ねぇだろ!」
「ちぇー!教えてくれたっていいじゃんかよー!!」
「なぁ教えてくれよー!!」とごねる日向に「今は付き合ってねぇんだからお前なんかに教える義理なんてねぇよ!」と米神に青筋を浮かべながら日向の胸ぐらを掴む影山の苛立ちは頂点を達しているようだった。
「あ!椎名に聞けば分かるかも!」
日向は閃いたように同学年であり影山と同じ中学だった彼女の名前を挙げた。「俺ちょっと椎名の所に行ってくる!」と影山から逃れた日向が部室を出ようとすれば勢いよくその腕を影山が掴んだ。
「やめろ!!」
その声に一瞬にして静まり返った部室は緊張が走った。腕を掴んだまま日向を見る影山の目は本気だった。
「…………頼むから、余計な事すんな」
あの影山からの切なる願いに日向を始め、俺達は戸惑いを隠せなかった。そして誰もがこれは触れてはいけなかった話だと確信をした。もしかすると影山はその元カノとはあまり良い思い出がなかったのかもしれない。この空気のままでは流石に居たたまれないので、話題を変えようと口を開こうとした時、それまで黙っていた月島が俺よりも先に口を開いていた。
「もしかして案外近くに居たりしてね?」
「っ、!お疲れ様です。お先に失礼します、」
何処か確信したような月島の投げ掛け。しかしそれに答える事はなく、ドアの前に立っていた日向を押し退けるように影山は足早に部室を出ていった。
「「……案外近くに居たりして??」」
ピシャリと閉まったドアを見つめながら繰り返すように呟く俺と大地。案外、近く……。ちか、く。
「「ああーーーー!!!」」
「!?ど、どうしたんすか!?大地さん、スガさん!」
どうして気が付かなかったんだろう。二人の態度を見れば"何かあります"なんて事は一目瞭然だったはずなのに。それと同時に彼女は恋人という立場でもあり、マネージャーとしての立場でもあったという板挟み状態の中、どう中学時代を過ごしてきたのかが知りたくて仕方なかった。
椎名の抱えていたものの大きさなんて、俺なんかとはずっと違うかもしれない。彼女はきっと、二つ抱えていた。
「……セッター、ですか」
それでもあの日見せた椎名の苦しそうな顔が、今の俺とよく似ていたからだ。
(2016.02.07)
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