試合とか、そういう大事な場面でも俺はわりと緊張しない方だと思う。だけど唯一、及川さんを前にすると、胸のざわつきと嫌な汗が止まらなくなる。苦手意識もあるが、少なからず及川さんは俺にとっての脅威だからだ。
「…………うん」
東峰さんがスパイクを決めた直後、何やら不敵な笑みを浮かべる及川さんに背筋がゾクリとした。監督に目配せをし直ぐ様、まだ1セット目の序盤であるはずなのに青城側はタイムアウトを要求した。この特に何も動きがない場面でソレを求めたという事はつまり、そういう事なのだ。
「早えーなクッソ……!」
嫌な予感がして、思わず舌打ちをした。
――――『来い』と『くれ』
及川さんはきっと日向との速攻と普通の速攻を掛け声で使い分けている事に気付いたのだろう。それにしても早すぎやしないか。そもそもいつから及川さんはこの合図に目を付けていたのか。
「オオーイ!深刻な面してらしくねぇな!」
「っ!?」
見かねた西谷さんと田中さんに強く肩を叩かれた。及川さんが凄い人だという事は中学の時から重々分かっている。でもいざこうして対戦をすると、焦燥感に駆られてしまう。焦れば焦るほど、向こうの思う壺だというのに。一旦気持ちを落ち着かせようと、夏芽が居る二階の応援席に目を向ける。するとこちらの視線に気が付いた夏芽に俺は強く頷いてみせた。
元チームメイト達を相手にする今日の試合には大きな意味がある。それは俺にとっても、夏芽にとっても、また一歩前に進む為には乗り越えなければいけない大事な試合だ。
「(絶対に青城に勝つ、)」
TOが明けて、大きく息を吐く。何が何でも1セット目は烏野が先取したい。でなければ後が無くなってしまう。点差だってまだ序盤とはいえ、04-08とあっという間に4点差になっている。青城側の前衛は高い壁3枚に対して、こっちは日向無しでの2枚だ。早くローテーションを回さないとますます点差が開いてしまう。それだけは避けなければならない。
「オーライ!」
「ナイスレシーブ!」
上がったレシーブに素早く落下点に入る。今は日向との速攻は使えない。じゃあどうやってこの点差を縮める?誰を使うのが最善だ?どうすれば相手を欺ける?
――――だったら俺が直接点を取りに行くしかない。
「っ!」
不意を突こうとツーアタックで攻めようとした瞬間、既に目の前にはブロック――――及川さんがそこに居て、呆気なくボールは床に叩き落とされてしまった。
「(くっそ……!)」
「焦ってる時のツー程止めやすいものはないよねぇ」
及川さんの容赦ない煽りに下唇を噛み締める。焦りから完全に使い所を間違えたせいでまた青城側に点が入ってしまった。
「ドンマイ!ゆっくり行こうゆっくり!」
次第に周りの声が耳から遠のいていく。身体は思うように動かないし、今自分が冷静な判断が出来ているのかさえも分からない。
そもそも俺と及川さんでは試合の慣れ方が違う。技術力だけじゃない。視野の広さ、心の余裕、チームメイトとの信頼関係、そして2年分の経験値の差。今の俺には無いものをあの人が全部持っている事が酷く羨ましい。
そんな及川さんは俺達を思い通りにさせてはくれない。難しいボールだって簡単に繋いでしまうし、日向との速攻の使い分けも完全に見破られてしまい、なかなか得点に繋がらない。極めつけは及川さんの強烈なジャンプサーブが神経を擦り減らしてくる。
このままでは本当にこのセットを落としてしまう事になる。この広がった点差をどうやってひっくり返そうか。
「(……もっと、速く)」
選択肢は一つ。ブロッカーに追い付かれないような速い攻撃を仕掛けなければ。
今、俺の頭の中にはそれしかなかった。
▼
「影山っ!!」
追い詰められたような表情をする影山を見兼ねて、応援席から声を張り上げるが、余裕がないせいか私の声は彼の耳には届いていないようだ。影山が焦っているのは点差が広がっているせいも勿論あるだろうが、それは及川さんという存在が影山をそうさせてしまっているのも一種の要因なのかもしれない。あの人は他者をよく見ている人だ。きっと日向の速攻の使い分けのサインを見破ったのもあの人で、あの人の指示によって青城は変人速攻には柔軟に対応が出来ているのだろう。
「なぁ……なんか、烏野の攻撃だんだん速くなってきてないか?」
「全体的になんとなく前のめり気味っていうか……」と私の隣で試合観戦をする滝ノ上さんの呟きに胸の鼓動が早くなる。眉間に皺を寄せてプレーをする姿が中学の時と重なって嫌な予感がした。無意識に強く握りしめていた手には緊張状態からか、じっとりと酷い汗が出ていた。
「(大丈夫、大丈夫……)」
まるで自分に言い聞かせるようにその言葉を何度も心の中で唱えた。大丈夫、あの時のようにはならない。最後には誰も影山のトスを打ってくれなくて、ベンチに下げられて、それで負けてしまう未来なんて、あるはずが無いと信じたい。
祈るように目の前の試合を眺めた。さっきからやけに五月蝿く鳴っている心臓の鼓動も落ち着く気配は無かった。手に汗握りながらボールの行方を必死に追っていると、遂に影山は速いトスに着いて行けなかったツッキーとコンビミスを起こしてしまった。
ピーーーッ!!
直ぐにけたたましくホイッスルが鳴った。そこには9番のプレートを握りしめた菅原さんが立っていて、烏養コーチがセッターの交代を命じた事を意味している。悔しそうに歯を食い縛りながらコート外に出ている姿に中学最後の試合のあの瞬間がフラッシュバックした。
去年は影山が下げられてしまった時、私はもっと近くにいた。でも見守る事しか出来なかった。あの時はそれが正しかったのだろうけど、その後の対応が良くなかったと今になって分かる。どうせ部活も引退して、接点がなくなるからって何処かで諦めて、でも何時までもずるずると影山の事を引き摺ってて。私が少しでも歩み寄っていたら、何事もなく接していたら、あそこまで拗れる事は無かったのだろうか。
「(……終わった事を後悔しても意味無いのに)」
中学の事は既に清算した。ならば今、後悔しないように私は何をするべきか。今の影山と前の影山、今の私と前の私は全くもって一緒なのか。本当に私達は何も変わっていないのか。声が届かなかったからってもう諦める?前みたいにただ見てるだけで、後になってああすれば良かった、こうすれば良かったってまた御託を並べるの?そんなのは、絶対に嫌だ。
「……――――っ、影山ぁ〜〜〜ッ!!」
すぅっと大きく息を吸って、精一杯叫んだ。すると何事かと目を丸くしてこちらを振り返った人達。それは影山本人も、烏野の皆も、及川さんも、国見達も。誰が見ていたっていい、こんな不格好な姿を誰かに指を差されて笑われようが、私は私の伝えたい事を今此処で伝えるんだ。
「大丈夫っ!!独りじゃないよ!!」
バレーはテニスや卓球と違って一人で出来るスポーツじゃない。だから何とかしなきゃって独りで抱え込む必要はないんだよ。だってコートには6人いるんだから。
『選手交替』って経験上、その人を見限ったからコートを追い出されてるのだと、そういう認識でしかなかった。少なくとも中学の時はそう思ってたし、実際そうだった。でも烏養コーチは決して影山を見捨てたわけじゃない。一度影山に頭を冷やしてほしいからこそ、敢えてここはセッターを菅原さんに替えたのだと、今ようやく分かった。
「――――だからね影山、一旦肩の力を抜こう。下げられたからって卑屈にならないでね」
ニヤリと笑って、それから影山に拳を突き付けた。今まで私が言えなかった事を今日初めて訴える事が出来た。それが吉と出ようが、凶と出ようが、何もしないよりはよっぽど良い。
影山からの返事を静かに待った。するとそれまで沈黙を続けていた影山が「おい、」とゆっくり口を開いた。徐に腕を上げ、それから私と同様に拳を向けて来た。
「ヒクツって、どういう意味だ」
気難しい顔をしながら予想の斜め上をいく返しをする影山に私達は今日一番、声を上げて笑ったのだ。
▼
会場を出て、外で顔を洗って、すぐ近くの芝生に大の字で寝そべり、目蓋を閉じると脳裏には最終セット終盤、相手のマッチポイントで渾身の日向とのあの速攻が3枚ブロックに阻まれる光景がフラッシュバックした。結果、俺達は青城に負けた。完璧なはずだった。位置も、タイミングも、角度も、何もかもが。でもまるでそれを図っていたかのように、青城は俺達の攻撃を見事に止めた。
何が何でも勝たなきゃいけない試合だった。そう意気込んで俺は今日を臨んだはずだった。
もしも、俺がもっと冷静にプレーが出来ていたら。もしも、夏芽から言われるよりも早く立ち直れていたら。勝てた試合だったのかもしれないのに。
「影山」
その時、頭上から俺の名前を呼ぶ声がした。ゆっくりと目蓋を開けると、こちらを覗き込むように立つ夏芽が居た。あれほど意気込んでたというのにこんな結果になってしまって、顔向けが出来ない俺は夏芽から目を逸らした。
「……情けないだろ?」
顔を逸したまま覇気のない声で呟くと夏芽の動きが止まる。構わず俺は言葉を紡ぐと、夏芽は口を開くわけでもなく静かに俺の話に耳を傾けた。
「ずっと及川さんの事しか考えられなかった。この人に勝たなきゃって。でもまんまとあの人の策略に嵌って、一人で勝手に焦って、自滅して……一時は立て直したけど、結果負けた。お前からも活を入れてもらえたのに。……及川さんが、アイツらを…………及川さんと出会った事で、変わったアイツらのあんな姿見せられたら……なんか、頭が真っ白になった」
俺が動揺したのは及川さん自身に対してだけじゃない。金田一が今まで俺が上げてきたトスより高い打点で飛んでいた事、サボり癖のあるあの国見が試合後半、必死になってボールを追う姿をこの目で見て、充分に心が揺さぶられた。
「……3年間一緒のチームに居たはずなのに、試合中あんなに普通に笑う国見を初めて見た」
その姿は夏芽も見ていたはずだ。きっと今度こそ夏芽はそんな俺を幻滅しただろう。だって俺はアイツらと対立してばかりだったから。俺が3年も一緒に居て出来なかった事を及川さんはたったの数ヶ月でいとも簡単に引き出してみせた。
いつまで経っても返事が無い夏芽に少し恐怖を覚え、余計に顔を向ける事が出来なくなった。黙られてしまうくらいならば、せめて罵ってほしかった。この場に居るのが居た堪れなくなり、芝生に肘をついて上体を起こそうとすると、不意に右頬にそっと添えられた夏芽の手によってそれは阻まれた。
「!なっ……、」
「影山もそういうの、気にするようになったんだね」
じっと俺を見つめてくる夏芽は酷く優しい目をしていた。それから腫れ物を扱うような手つきで俺の頬を撫ぜた。そんな夏芽の姿に目を離す事が出来なかった。
「少し前の影山なら、国見の表情がどうだとか、そんなのいちいち気にしてなかったはずだよ。……影山にとっては、今日の国見達の姿を見て、色々と思う所があったかもしれない。けど金田一達もね、影山が変わった姿を見て、きっと同じ事を思ったのかもしれないよ」
「試合は負けた。それは確かに悔しいよ。今日は影山が足を引っ張った部分もあったと思う。……でもそれ以上に影山がコートに戻ってから、不器用でも頑張って笑顔を作ろうとしてた姿とか、苦手だったツッキーに自ら歩み寄ろうとしていた所とか、慣れないハイタッチをチームメイトとしている姿とか……今までなら見る事の無かった影山の新しい一面が見られた今日の試合に、ただ一言、"悔しかった"、"情けなかった"だけで私は片付けてほしくないよ」
「だから、そんな事言わないで」と力強く訴える夏芽の勢いに思わず言葉を失う。大切な人が、自分の事をこれほど見ていてくれていたというのに、馬鹿な事を考えていた。プレーをしている姿だけじゃなく、些細な動作まで全部見ていてくれていたというのに。負けて悔しい思いをしているのは夏芽も同じなのに、そんな素振りなど一切見せずに俺を励ましてくれた。
黙り込んだままの俺にいまいち意図が伝わっていないと思ったのか、不満げな表情を示す夏芽からは軽く頬を抓られる。反射的に「い"でっ」とくぐもった声を上げると、夏芽は可笑しそうに笑った。
「早く皆の所に戻ろうよ」
すると目の前には夏芽の小さな手が差し伸べられる。迷わず俺はしっかりとその手を取り、立ち上がってはその足を踏み締めた。俺達のインターハイは今此処で終わった。
(2021.07.05)
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