「よし。じゃあ、今日はここまでな」
先生のその締めの言葉と同時に3時間目の授業終了のチャイムが校内に鳴り響く。「起立、礼」と学級委員長が号令を掛けた後、クラスメイト達はやっと終わった、と教室が一気に騒がしくなる。中には「腹ヘッター!」と早くも給食を待ち構えている男子生徒もいる。流石、育ち盛りの中学生男子だなあ、などと心中感心している私は次の授業は何だったかと教室に掲示してある時間割表を見る。次の時間は……体育の授業だ。今日は確かドッジボールをやると前回の授業で先生が言っていたのを思い出した。早く体育館に行く為にもさっさと着替えてしまおうとジャージを鞄から取り出していると、前方から足音が聞こえ、それは私の席の前で止まった。
「夏芽」
誰かに呼ばれる。
まだ声変わりをしていないやや高めの声。部活の時に聞き慣れている声で間違えるはずがないが、この教室ではまず聞く事のない声だ。
「影山?」
鞄から顔を上げると、目の前に立っているのは隣のクラスの影山だった。影山が1組に来るなど珍しいと思い「どうしたの?」の聞いてみると、「あ、いや……その……」と言葉を詰まらせていて歯切れが悪い。そして彼はバツの悪そうな顔を浮かべながら「国語の教科書、持ってるか?」と言った。
「国語の教科書?」
「ああ、」
「次の授業が国語で、忘れたから貸してほしい」と少し俯きがちに影山は続ける。今日はうちのクラスは国語はあったかと再び掲示されている時間割表を見つめると、5時間目に入っているようだ。それから机の中をゴソゴソと探ってみると、目的の物は直ぐに出てきた。
「いいけど、うちのクラスは5時間目に国語あるから昼休み中には返してくれると助かる」
「分かった」
それから影山に教科書を差し出す。影山もそれを受け取ろうと手を伸ばした時に事件は起こった。
「「っ!?」」
勢いでお互いの指先が当たってしまい、驚きで思わず手を引っ込めてしまった。無意識だとはいえ、失礼な事をしてしまったと後悔したが、手を引っ込めたのは私だけではなく、影山もだった。二人とも手を離せば当然教科書は音を立てて机の上に落ちるわけで。
突如、私の頭の中でスキー学習のあの日の事がフラッシュバックした。吹雪の中、体調を崩した私を影山が助けてくれた時。記憶はうろ覚えだったけど、でも確かにあの感触は今でも覚えている。自然と影山の手元に目線が行ってしまう。そうだ。私はあの時この手によって抱き締められてーーーー。しかも私、医務室で影山に恋人繋ぎまがいな事を――――。
そんな事を思い出して、自分の体温が一気に上昇するのが分かった。顔が、熱い。心臓だってバクバクいっていて凄く五月蝿い。なんだ、これ。初めての感覚に戸惑いを隠せない。
「その……わ、悪かった!教科書、借りてく……!」
即座に私に謝罪し、慌てて落ちた教科書を拾うなり教室を出ていこうとする影山はかなり動揺していた。こんな風に焦った影山はこれまで見た事が無い為、私は一言も返す事が出来ず、ただその場に立ち尽くしていた。教室を出ていく際の一瞬だけ見えた影山の横顔は林檎のように真っ赤だった。
「〜〜!!」
恥ずかしさで思わず窓の方へ視線を逸らした。そして自然と目が合うのは窓に写る自分の姿。その自分の顔は、影山と同じくらい赤かった。
▼
「はああー……」
放課後の誰もいない廊下を歩く私は大きくため息を吐いた。幸か不幸か、来週から学年末テストが始まる為、今日から1週間部活動停止となった今、学校に残る生徒は殆ど居ない。だけど家ではテレビとかお菓子とか、色々と誘惑が多い事で勉強に集中出来ない私は学校の図書室でテスト勉強をする事に決めた……のだが、先程から頭に浮かぶのは今日の影山とのやりとりの事ばかりだ。
昼休みに教科書を返却に来た影山は如何にも"気まずい"というのが顔の全面に出ていて、私と目を合わせようとはしなかった。
"教科書………ありがとな、"
影山のその一言はとてもぎこちなかった。当然私も気まずいわけで、教科書を受け取ったもののそれから言葉を発する事が出来なかった。いつもならきっと多少雑談を交えたりするのだが、そんな事も無く影山は「それじゃ、」と言ってそそくさと自分のクラスへと戻っていった。何だか影山に避けられているようで、少し胸が痛んだ。
「まあ、この1週間はある意味救いか……」
何はともあれ今日から部活動停止期間というのはある意味助かる。クラスが違う私と影山は部活以外では殆ど顔を合わさないに等しい。影山と一緒に帰るのだって、基本部活帰りの時だから暫くは無いだろう。正直あんな思いはもうしたくない。
目的地である図書室の前に到着し、ドアに手を掛ける。そして中に入るとちらほらとだが生徒が居て、真剣に勉強に取り組んでいる。空いている机を探しながら私は思った。
「……気まずいのも嫌だけど影山とちゃんと話せないのはもっと嫌、だな」
「何が嫌なの?」
「うおっ!?」
突然何者かに背後から声を掛けられ、驚きでビクン、と肩が跳ね上がる。し、心臓に悪い…………。
そして次にはその声の主がずいっと私の前に姿を現した。
「やっほー、久しぶり夏芽ちゃん」
「及川さん!」
そこには絶賛受験生中である及川さんの姿があった。こうして及川さんと顔を合わせるのはあの夏以来だ。思えば制服姿の及川さんを見るのは本当に珍しい。「もしかしてこれからテスト勉強する?」と聞かれ、そうだと肯定すると及川さんに背中を押され、とある机の方まで連れられる。そこの席には高校受験対策用である問題集とノートが開かれていた。「隣座りなよ!」と促され、私は言われるがまま大人しくそこに座る事にした。どうやらこの教材は及川さんの私物らしい。
「……難しそうですね。なんですかその記号」
「ああ、"√(ルート)"ね」
それから及川さんは「√(ルート)は…………」「平方根は…………」と私に説明をし始めた。聞きなれない単語ばかりで、これを2年後には出来てないといけないと考えると正直不安で頭が痛くなる。何なんだ、ヒトヨヒトヨニヒトミゴロって。
「及川さん達が受ける高校、何でしたっけ………セイジョウ?ってどういう学校なんですか?」
「えっとね〜私立なんだけど制服がお洒落でね、俺に一番似合ってるんだよ!」
「へえ、そうなんですか」
「白のブレザーなんだ〜」と得意気に話す及川さんに「まあ及川さんは何着ても似合いそうですよね」と言いながら相槌を打つ。白のブレザーって結構派手めなイメージだから人を選びそうだなと思ったけど、まあ及川さんは性格あれでもイケメンだからきっとサマになるんだろうな。でも、カレーうどん食べる時に制服に汁でも飛んだりしたらシミが目立つな、とくだらない事を考えていると私の言葉を聞いた及川さんは、まるで有り得ないと言うように驚きで口をあんぐり開けた次には怪訝そうな顔をしてこちらを覗き込んだ。
「素直すぎる夏芽ちゃんなんて有り得ない!!……何かあったでしょ?」
この人は私を何だと思ってるんだ?
と言いたくなったが、及川さんの表情を見れば私を本当に心配している事が分かり、ぐっと言葉を呑み込む。確かに普段の私だったら「及川さんに白は勿体無いです。カレーうどんの汁飛ばしたくらいが調度良いですよ」ぐらいは言ってたと思う。幾ら似合うと心の中では思っていてもきっと口では肯定なんてしなかった。しかしそこまで頭が回らなかったのはきっと影山の事で一杯だったからだと思う。
「……聞いてくれますか?」
及川さんに話したら何か変わるだろうか。
「影山とどう接したらいいか分からないんです。喧嘩とかじゃないんですけど、」
話せば少しでも楽になれるだろうか。
「他所他所しいというか、避けられてるというか……それを言うなら私もですけど、」
あんな微妙な距離感なんて、嫌だ。
「……なんか胸が苦しかったり、かといってドキドキしたり、どうしたらいいか分からないです」
こんなの初めてなんだよ。
▼
「受験近いのに私の話なんかに付き合わせて、本当にすみませんでした」
あの後、結局勉強どころか殆ど私の恋愛相談話になってしまった。スキー学習の事や、今日の事を話せば及川さんは何も言わずに最後まで黙って聞いてくれていた。そうさせてしまった事に罪悪感を感じ、私は深々と頭を下げる。
「いいのいいの!俺には勉強の息抜きになったし、たまにはこういうのも必要だからね。それに、さっき会った時から夏芽ちゃんの様子が変だったから心配だった」
気付けば下校時間も間近になり、そろそろ学校を出ようと図書室を退出し、1階の昇降口で下履きに履き替える。その際、下駄箱から出した運動靴の紐が僅かに解れていた。
「そんなに気負いする事ないんじゃない?」
「え?」
解れていた運動靴の紐を結び直して立ち上がると私を待っていた及川さんが平然とした顔で言った。
「でも、今日影山に避けられました……」
そう考えると何だか気持ちが沈む。私に触れたのがそんなに嫌だったのかな……いや、もしかして元から嫌われてた?なんて考えれば考えるほど次第にマイナス思考になっていく。今まで嫌々一緒に帰ってくれたのかな。そうだよね、部活終わりで疲れてるもんね。やっぱり彼女でもない女子をほぼ毎日家まで送ってくなんて凄く面倒だったよね。恋愛対象じゃないなら尚更……。
「夏芽ちゃんなんか今ものすごーく検討違いな事考えてるでしょ?」
「え゛っ」
表情に出ていたのか、私の顔を見た及川さんはあからさまに大きくため息を吐いた。
「(夏芽ちゃんも意外と鈍いんだなあ)どうせ飛雄に嫌われてるんじゃないかって思い込んでる夏芽ちゃんの事だから言わせてもらうけど、よく考えてごらんよ?わざわざ嫌いな奴の所まで出向いて教科書借りると思う?しかも国見ちゃんとか男子に借りればいいわけでしょ?いくら部活が同じで帰る方向も同じでもさ、毎日そいつの為に家まで送ろうと思う?一緒に帰ろうと思う?俺だったら御免だねそんなの。アイツは夏芽ちゃんの事は嫌いになれない。あんだけ懐いてるんだから寧ろ――――いや。……まぁ飛雄はバカで単純で頭のネジ抜けてる上に鈍感だけど、嫌いでもない夏芽ちゃんを意図的に避けられる程アイツは器用な人間じゃないし、そこまで我慢強くもない。これだけは確かに言える」
「!」
たった数ヵ月だけの関わりだった影山をこうして自信を持って言う及川さんを見たら、さっきまであんなに真剣に悩んでいたのが馬鹿らしくなってきた。心の蟠りもさっぱり消えて無くなった。それと同時に周りをよく見ていて他人を理解しているこの人はやっぱり凄い人なんだと思った。
「なんかスッキリしました。……少しは期待してもいいのかな」
返答は無かったものの、及川さんは目で肯定をしてくれた。校門に差し掛かった所で自宅の方向が正反対な為、そこで別れてしまう私達は自然と歩いていた足が止まった。
「送ろうか?」
「え!いや、いいですよ!及川さんの家反対方向じゃないですか!」
これ以上及川さんの好意に甘えれられない私は勢いよく首をブンブンと横に振った。それに、及川さんと並んで歩く帰り道はなんだか違和感でしかないのだ。及川さんの事が嫌いな訳ではないし、口には出さないが寧ろ尊敬しているのだ。でも、何かが違う。私の考えている事を察したのかは分からないが、及川さんは慌てる私を見るなり小さく笑った。
「まぁ、"そこの立ち位置"は飛雄が適格かもね」
「また明日」と手を振りながら背を向ける及川さんの後ろ姿はやっぱり年上の先輩なのだといつになくかっこ良く見えた。何だか今日はあの人に負けた気分だ。しかし、"卒業"というタイムリミットが刻一刻と迫っているのをふとした時に思うと、少し切なくなってしまう。
(2015.04.18)
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