始動


「ぁ"あ"ーーー、かったりぃーーー」

凝り固まった肩を解そうと右肩に左手を添えながら何度か腕を回す。依頼されていた仕事を一件片付けてから首領のマイキーと幹部のみしか立ち入る事の出来ない組織のアジトへと車を走らせて向かう。スーツにはすっかり多量の返り血が付いてしまっているが、どうだって良かった。スーツなんてまた新しいものを買い直せばいいし、これから顔を合わせる面子なんて今更返り血を見たところで何も驚きやしない。俺達にとってそれが日常で、お互いそういう仕事・・・・・・をしているのだから、アイツらに何か気を遣ってやる必要もない。
タワーマンションの地下駐車場に愛車を停め、エレベーターに乗り込んで向かうは最上階へ。最上階に到着すると、当たり前だがワンフロア全体を貸し切っている為、廊下は閑散としていて人っ子一人いない。突き当たりにある部屋の前まで歩みを進め、カードキーを差し込む。解錠された扉を開けて部屋の中に入ると、まず視界に入ったのはソファに我が物顔で寛いでいる灰谷兄弟の姿。次いで窓際で夜景を眺めている鶴蝶とマイキーの姿があった。部屋全体を見渡すと、望月と武臣は別件の仕事で不在のようだ。

「マイキー。例の案件、問題無く終わりました」
「……ん、お疲れ」

速やかにまずは今回の任務が無事完了した旨の報告を済ませる。マイキーは俺を一瞥した後、顔色一つ変えることなくすぐに目の前の夜景に視線を落とした。

「つかオイ、テメェらはいい歳して何仲良く二人で遊んでんだよ」
「あ?見て分かんだろ、花札だわ。三途ってこいこいも知らねぇの?」
「もしかして三途も交ざりてーのかー?でも残念だったな、これ二人で遊ぶゲームだからなぁ」
「別にそういう意味で言ったんじゃねぇわ!!そんなの知ってるし誰がテメェらとゲームなんかやっかよクソが!!」

そのまま勢いで花札が並べられたガラス製のローテーブルを蹴り飛ばしたい所だったが、マイキーが居る手前、その衝動をグッと堪える。俺達のやりとりに鶴蝶が心底鬱陶しそうに溜め息を吐く音がしっかりと聞こえたので、すかさずキッと睨み付けるとバツが悪そうに視線を逸らされた。ふとその時、俺は重要な人物が一人居ない事に初めて気が付いた。いつもだったら灰谷のクソ兄弟と口論になる時、決まって溜め息は二つ聞こえるか或いは時々そいつが交ざって援護射撃をしてくる事もあった。しかし今はそのどちらもが全く耳に入ってこない。金に囚われたあの男は事務所内でのデスクワークが主なのだから、長期に渡る外部での仕事などは滅多に引き受けないはずだ。それがどういうわけか、ここ何日もあの男の姿を見ていないような気がする。今の今までその事などさして気にも留めていなかったが、一度気に掛かってしまうと、これは妙な光景だ。

「なぁ、そういや最近九井を見掛けねぇんだけど、アイツどうした?遂に死んだか?」
「「「…………は?」」」

目の前のクソ兄弟に素朴な疑問を問い掛けると、何故か俺の質問にこの場にいる4人中3人が声を揃えて聞き返してきた。まず話を聞いているのかどうか分からないマイキーは、相変わらず無言のまま夜景を眺めている一方、「何言ってんだコイツ」と言いたげな表情で互いの顔を見合わせる兄弟と「コイツ、マジで言ってるのか」という顔で俺をジッと見つめてくる鶴蝶に苛立ちが募る。は?これマジで俺だけ知らないやつなのかよ。

「……三途、まさかマイキーから聞いてねぇの?ウケる」
「天下の梵天のNo.2サマなのにかー?」

どんな時でも煽りを止めない精神のクソ兄弟に殺意を覚え、こめかみには青筋が浮かぶ。こいつらは人を貶さないと死ぬ病気にでも罹ってんのか。あと憐れみの目を向けてくる鶴蝶、それやめろや。
奴らの態度が癪に障ったので、腹いせに遂に竜胆が腰掛けているソファに蹴りを入れていると、不意にマイキーが何かを思い出したかのように顔を上げてから俺の方へと振り向いた。

「あぁ、三途。お前に言うのすっかり忘れてた」

「悪い」とマイキーから抑揚のない声で一言謝罪を受けた後、九井が不在の理由を初めて聞かされる事になるのだが、事情を知った直後、タワマン最上階の一室には俺の絶叫が響き渡るのであった。




「うーん、」

手にしたままのシャーペンを指先でくるくると回しながら小さく唸り声を上げる。そして未だ空欄のままの進路希望調査表の用紙をじっと見つめては小さく溜め息を吐いた。今週末までに提出しなければならないのに第一希望さえ決まっていないのだから困ったものだ。
高校2年生にもなると途端に卒業後の進路を突き付けられる。ただ学校を選べば良かった中学生の時とは違って、将来を見据えた選択を今ここでしなければならない。就職か進学、どちらを選択したとしても今度は学校、学部、職種選びが待っているのだから考えただけでも頭が痛くなってくる。そもそも、自分で言うのも何だがここまで歪んだ性格をしている私が最終的に真っ当な職に就けるのかも怪しいというのに。

「進路にお悩みですか?」
「――――え、」

突如頭上から聞こえてきた声に顔を上げると、スーツを身に纏った吊り目の成人男性が私の白紙の進路希望調査表を覗き込んでいた。まるで張り付けたような笑みを浮かべる男の顔に私は全く見覚えが無かった。新任の教師か、はたまた外部からの人間なのかは定かではないが、何故いきなりうちのクラスに現れたのかは皆目見当が付かない。対応に困っている私を他所に目の前の男の人は胡散臭い笑顔を終始崩すことはなかった。今日出会ったばかりの初対面の人間のはずではあるが、私の中では危険信号を知らせていた。この人には不用意に近付くなと、第六感が告げている。

「……あの、」
「おっと、いきなり失礼しました。予鈴も鳴るので挨拶はまた後ほど。――――椎名さん」
「!!」

まるで獲物を捕らえたようなその視線にぞくりと寒気がした。何故、私の名前を知っていて、何故敢えて私に声を掛けたのかは謎だが、それでもあの人が堅気の人間ではないことは明白だった。あの人から漂う雰囲気と私の勘がそれを感じさせた。獲物を探すのは日常茶飯事だったが、私自身が誰かに狙われたのはこれが初めてだ。でも不思議とそれが怖いとは思わなかった。寧ろ私を見つけ出してほしいと、見つけ出されてしまったらもう後戻りは出来ないのは分かっているのに、求めてしまう。きっとあの人と関われば、新しい世界が待っているような気がしたから。
碌な人生を送っているわけじゃないのだから、どうせなら堕ちるとこまで堕ちたって悪くはないだろう。――――例えそれが死と隣り合わせの人生だったとしても。

「初めまして、スクールカウンセラーの四井・・です」

朝のホームルームの時に担任があの人を連れてクラスにやって来た。最近、校内でネットを悪用した事件や虐めなどの生徒の不祥事で停学処分や中退をする生徒が立て続けに起こっている事で、生徒達のメンタルケアという名目で四井と名乗るあの教員が派遣されて来たらしい。これから生徒を対象に昼休みと放課後を利用して出席番号順で四井センセイとの個人面談が行われる事を知らされた。事件のことで生徒全員から話を聞きたいのだろう。正体こそは知られていないだろうが、少々面倒な事になってしまった。

「(……ま、カメラと盗聴器は仕掛けてあるから問題ないか)」

頬杖をついて四井センセイの話をぼんやりと聞きながら、センセイの身なりを上から下までじっと見つめる。身に纏っているスーツは専門店で販売されているような既製品とは違い、生地には高級感がある。シャツの袖に付いているカフスボタンも、左手首に身に着けている腕時計も、ネクタイピンも、一般庶民が簡単には手が出せないようなハイブランドものなのだろう。とてもじゃないけど、学校の先生が身に着けるような代物ではない。この感じだと『四井』という名字も果たして本名なのかさえも怪しいところだ。

「(アレ一式揃えたら一体諭吉が何束飛ぶんだか……)」

じろじろと見ていたせいか、私の視線に気が付いたセンセイと目が合ってしまった。するとあの人はやはり嘘臭い笑顔を向けてくる。やられっぱなしでは私の性に合わないから精一杯の愛想笑いで応えると、ほんの一瞬だけセンセイは意外そうに目を丸くした後、また笑った。
あの人がこの学園に来た目的は分からない。けど、得体の知れないあの人の本性を暴きたいと、私はどうしようもなく思ってしまったのだ。




『九井ィ!!テメェ、学校に潜入ってどういうことだよ!?聞いてねぇぞ!!』

電話口の向こうからは、耳を劈くような喚き声が遠慮無く発せられるので、お互いの顔が見えない事を良い事に俺は露骨に顔を歪めた。何件もの不在着信が残っていた履歴を見た時点で嫌な予感はしていたが昼休みになった今、人気の無い生徒指導室に忍び込んで渋々折り返しの電話を掛けてみると、2コールにも満たない速さでそいつは電話を取り、今に至るわけである。

「うるせぇな三途、鼓膜破れんだろうが。そりゃあ言ってねぇからなぁ?」
『大事なことはちゃんと言えやクソが!!ふざけてんのか!?』
「別にボスにはちゃんと話は通してあんだからわざわざお前に話す必要はねぇだろ」
『あ"ぁ"!?俺がテメェより立場が上だって事を忘れてんじゃねぇよ!!!』
「だから声量を考えろよ……」

三途が気が短い性格なのはとっくに分かりきった事だが、ここまで簡単にこちらの挑発に乗ってしまうのは組織のNo.2の座についている人間としては考えものだ。だからこそ食い付きの良い三途を面白がった灰谷兄弟(とくに兄の方)が毎度飽きる事なくからかっているのだろうが。

『チッ……!!俺は監視役なんて認めねぇからな。しかもよりにもよって高校生のガキを使うだなんて、ついに頭イカれたか?』
「そもそもこの世界に身を置いてる時点でもれなく全員イカれてんだろ。三途、お前が認めようが認めまいが関係ねぇよ。マイキーが認めりゃあそれで全てが決まる。そうだろ?」

そこでボスの名前を挙げてしまえば、あれほどギャンギャン騒がしかった三途も途端に歯切れが悪くなる。
三途の言わんとしている事は当然分かってはいる。これから俺が引き入れとしている人物には組織の機密情報の管理を全て託そうとしているのだ。ソイツの使い方次第によっては組織自体が大ダメージを受ける事になるし、俺達が弱味を握られるリスクだって大いに有り得る。分かっていながらそういった人材を欲しているのは、ただ単にこれ以上俺の仕事の負担を増やしたくないからだ。ただでさえ金の管理で手一杯だというのに、構成員の管理まで任されたらたまったもんじゃない。血の気の多い幹部達の中では拷問・暗殺など、対象者に直接手を下す行為を得意とする者は幾らでも居るが、それ以前に対象の特定を専門とする者は今の梵天の中では居ないのだ。

『マイキーが認めるのなら俺達はそれに従うまでだ……。けど万が一、マイキーの脚を引っ張るような役立たずを連れて来た時は九井ィ、テメェとソイツの事は纏めて俺が直々にスクラップにしてやるから覚えておけよ』

最後に三途から物騒な捨て台詞を吐かれては、ブツリと一方的に通話を切られてしまった。

「おーおー、おっかねぇ」

何はともあれ一番面倒な男との話はついた。困った時はマイキーの名前を出せばすぐに大人しくなるのだから、まだ三途は単純で扱いやすい方だ。しかし、人選に失敗をすれば身の危険が及んでいるが。

「あのアカウントの特定さえ出来れば手っ取り早く済んだんだけどな」

しかしながら悔しくもそのような技術を持ち合わせていないのが現状だ。全校生徒の個人情報はある程度調べ上げてはいるが、生徒全員の学校外での素行まで把握するのには流石に限界がある。だからこそ今回、スクールカウンセラーという役職を利用して生徒との個人面談を徹底的に行う事であらゆる情報を引き出し、疑わしき人物を絞り込みたいのだ。

「それにしてもあのガキが気になるな……」

用が無くなった生徒指導室を後にしようと、ドアに手を掛けながらふと考える。
2年A組の教室に挨拶をした際、気だるげな表情で品定めをするように俺を見つめてきた女子生徒が一人。彼女の名前は椎名夏芽という。身の丈に合わないませたガキは幾らでも存在するが、あの女はただの見掛け倒しではなさそうだ。まるで隙がないというか一筋縄ではいかなそうな、そんな印象を抱いた。ただ、あの女だけに気を取られてしまえば、本当の実行犯を見落としかねないので、広い視野を持つ事が重要だ。
廊下で擦れ違う生徒一人ひとりの表情や動作を観察しながら歩みを進める。下りの階段に差し掛かった所で、眼鏡を掛けた二つ結びの女子生徒が移動教室なのか、教材とペンケースを抱えながら階段を上がってくる。履いているシューズのラインの学年カラーを見ると一年のようだ。彼女の制服は一切着崩しておらず、地味で大人しそうで、もしクラスで虐めがあったとしたら真っ先にターゲットにされそうなタイプの女だった。

「こんにちは」
「あっ……こ、こんにちは」

余所行きの顔を作って彼女に挨拶をすると、想像通り彼女は辿々しく頭を下げた。気が弱そうで、まるで自分に自信などない。そういう所が相手に馬鹿にされる要因の一つなのだと、自覚がないのだろう。

「(案外こういう奴がヤバかったり……んなワケねぇか)」

流し目で彼女の姿を観察しつつ、そのまま脇を通り過ぎようとした時に何か違和感を覚える。どこかから誰かに見られている、そんな気がしたのだ。

「――――っ、危ない!!」
「え、?」

――――ガシャン!!

気付いた時にはその女の腕を強く引いていた。床にはその勢いで散乱してしまった彼女の私物、そして俺達のすぐ横には割れた花瓶が落ちていた。つまりこの花瓶は上の階から落ちたものであって、誰かが故意に落としたという事になる。それはこの女を狙ったのか、或いは俺なのか。しかし、頭上を見上げた所で花瓶を落とした犯人の姿はどこにも無かった。

「君っ!!怪我は!?」
「あっ……!!だ、大丈夫ですっ……!!あの、ありがとうございます……!!」

思わぬアクシデントとはいえ、咄嗟に階段を昇る彼女の腕を引いた事でバランスを崩して怪我をさせても可笑しくない状況だったが、意外にも反射神経が良かったのか、彼女が階段から足を踏み外す事はなかった。

「なら、良かった。……今コレを落とした人間に心当たりは?」
「わ、わかりませんっ……」

彼女が落とした勉強道具を一緒に拾い集めながら問うと、怯えたようにふるふると首を横に振るう。彼女の手は僅かに震えていた。当然だ、落下点が少しでもズレていたらあの花瓶が自分に当たっていたのかもしれなかったのだから。
彼女に心当たりがないのであれば、俺自身を狙ったという事になる。突如現れた俺の存在をよく思わない者――――それはつまり、例のアカウントの所有者が犯人である可能性が高い。

「(……やってくれんじゃねぇか)」

俺という人間が何処の誰かとは知らずに手を出してくるとはいい度胸だ。犯人を突き止めた暁には犯罪組織の幹部の人間にちょっかいをかけるとどうなるか、一度その身体に教え込んでやらなければいけない。




「はぁっ、はぁっ……!」

一人の男子生徒が息を切らして、現場から逃げるように走り去って行く。目指す先は指示された・・・・・視聴覚室へと我武者羅に足を動かした。
見ず知らずの人間に弱味を握られている少年は必死だった。ソイツ彼女の言う事に少しでも逆らえば、自分の立場が危うくなる事を理解していたから。

「も、もしもしっ!!言われた通りあの一年の女子と四井に向かって花瓶を落とした!!勿論当ててもいない!!」
『…………そう、それはご苦労サマ』

念の為に視聴覚室のドアに鍵を掛けてから例の人物に連絡をしてみると、電話口からはボイスチェンジャーで変換された声で返ってくる。

「なぁ、これでいいだろ!?だから見逃してくれよ!!頼む!!」

事の発端は今日の午前中、見知らぬメールアドレスから一通のメールを受信した。その内容はこの少年が不特定多数の同世代の女子生徒と関係を持ち、脅し目的で撮った行為中の動画や画像を使って彼女達を言いなりにしていた事を暴露するという旨の文面だった。少年は一気に顔が青褪めた。恐る恐る読み進んでいくと、脅迫文には他校生をも含めた被害者達の名前が漏れなくリストアップされていて、犯行に及んだ場所やその後の脅迫行為の具体的な内容などをメールの送り主は何故か事細かに知っていた。この送り主というのは、もしやこれまで脅してきた人物うちの誰かなのではと頭に過る。そうでなければこれほどの情報を知っているはずがないのだと少年は思った。
しかし、それから相手は黙り込んだまま返事がなく、より一層少年の心を焦らせた。

「な、なんとか言ってくれよ!?これまでの事は謝るからさぁっ!?ちょっと誂ってやりたかったっていうか……わ、悪かったよ本当に!!」

暴露するのだけはやめてくれと少年は必死に懇願した。事件のことが明るみになってしまえば自分の人生が終わってしまうと、その恐怖にただただ怯えていた。

『……ふふっ……!!あははははっ!!』

すると黙りを決め込んでいた相手が突如可笑しそうに声を上げて笑った。まるで少年を見下し、小馬鹿にするようにひとしきり笑った後、ようやく言葉を発した。

『別に被害者じゃないから、謝られても困るかな』
「じゃ、じゃあお前は何なんだよ!?無関係ならこれ全部消してくれよ!!頼むからっ!!このままじゃ俺の人生台無しになる!!」
『責任転嫁するなよ。台無しにしてるのは私じゃなくてお前。相手の人生を滅茶苦茶にしたのもね。あの子達もよくこんな男に裸姿撮らせたよねぇ……半分は自業自得?別にどうでもいいケド。てかさぁ…………誰がお前の言う事なんか聞くかよ、バーカ』

相手はそれだけを吐き捨て、一方的にブツリと通話が切られてしまった。無機質な通話終了音が流れているのを理解した直後、その言葉を受けた少年は絶望した表情でその場に膝から崩れ落ちたのだった。




相手の懇願など一切聞き入れず、夏芽は顔色ひとつ変えることなく自身の方から容赦なくスマホの通話を切った。元々あの男のようなクズ人間は制裁を下す気ではあったが、例のスクールカウンセラーの教員に怪しまれずに近付く為には少々利用価値がある人物だった。そこで例の脅迫文を送り付け、女子生徒と教員が擦れ違ったタイミングで花瓶を落とすよう夏芽は指示を出した。あの男子生徒は夏芽の言うことを従順に聞いていれば、自分の悪事が明るみに出る事はないと信じていたのだろうが、そこで情けをかけてやれるほど夏芽は甘くはなかった。

「……あー、相変わらず頭蒸れるし重い。やっぱショートが一番だなぁ」

装着していた二つ結びのロングヘアのウィッグとダテ眼鏡を外し、乱れた髪の毛を手ぐしで軽く整える。スカートの丈の位置も膝下から膝上へ、第一ボタンまで留めていたブラウスのボタンも外して、きっちり締めたネクタイも軽く緩めれば本来の自分の姿になる。そして履いていた一年の学年カラーのラインが入ったシューズを持ち主のロッカーの中へ元に戻してから自分のシューズに履き替えた。

「使ったの一瞬だったけど、シューズ洗って返した方が良かったかなぁ……。まー、そもそもあの子不登校だから洗うのはいつでも大丈夫か」

もしまた何かがあれば使わせてもらう事になるだろうと夏芽は呑気に呟いては上機嫌に鼻歌を口ずさむ。ブレザーの左ポケットに忍ばせている自分のモノではないスマートフォンを大事そうに握りしめながら。

「ふふっ。いつ気付くかな、あの人」

スマホを入手するのが目的で彼に接触をした事がバレてしまった時には、まず自分の命が保証される事は無いに等しいだろうと勘の良い夏芽は思った。しかし、それ以上にあの教員に関するあらゆる情報を手に入れ、少しでも弱味になりそうなネタを探し出し、彼の余裕のある笑顔を崩してやりたいという大きな野望が夏芽を突き動かしていた。

「……あぁそうだ、いけない。忘れないうちにやっておかないと」

夏芽は思い出したかのように自分のスマホから例のSNSのアカウントを開いた。先程まで電話でやりとりをしていた男子生徒の不祥事を、脅された相手の女子生徒にはモザイク加工を施した盗撮動画と共に投稿をする。

「さようなら」

そしてその日を最後に、学園内であの男子生徒の姿を見た者は誰も居ない。

(2022.02.25)

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